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最近ではありますが、現代美術に関心をもってきました。

そして、今年に行われた"アール・ブリュット/ 交差する魂"展を見る機会があったのですが、とても気に入りました。
自分の中では現代美術のイメージは、時代の空気や感覚を鋭く切り取り、そして高い技術で表現するものという感覚を持っていました。
ですが、"アール・ブリュット"展を見てからは、時代や世間など関係なく、自分の感情をぶつけて作品を作るという感覚もいいな。と思い始めました。

そこで、皆様に質問なのですが、特に日本の現代美術界ではかなり意識的にというか、観念的に作られた技術的に高度な作品の方が好まれるのでしょうか...??

何故この様な質問をしたかと言うと、自分の中では現代美術は少し戦略的と言うか、恣意的なものを感じる事があるのですが、
"アール・ブリュット"展からは、純粋に気持ちの発露や魂がほとばしる感じを受けました。そして、この様な作品がもっと広まれば良いなぁと思いました。


"アール・ブリュット"展を見てからは、何か現代美術というものに対して気が抜けてしまったというか、ガッカリした気分になってしまう事が多くなりました。

もちろん現代美術や鑑賞者の皆様にケンカを売るつもりなど毛頭ございませんが、日本の中では"アール・ブリュット"の需要はあまり無いのでしょうか...??
やはり時代を先取りした芸術の方が好まれるのでしょうか...??

よろしくお願いします。

PS.上記の文章は私の私見ですので、読まれて気分を害された方はご容赦下さいm(_ _)m

A 回答 (12件中1~10件)

う~ん、アール・ブリュットからすぐに想起させられたのは、山下清の絵に対する毀誉褒貶をめぐる議論でした。



>"アール・ブリュット"展を見てからは、時代や世間など関係なく、自分の感情をぶつけて作品を作るという感覚もいいな。と思い始めました。

ややもすれば実験的な意匠ばかりに引きずられがちな現代芸術に困惑しているときには、確かにアール・ブリュットに一服の清涼剤のような安らぎを感じたことは、私も何度か経験したものです。
と同時に、こういう感覚と、かつて無理矢理連れて行かされた幼いわが子たちの絵の展覧会場で受けた強い衝撃とは同じ種類のものなのか? さらには、自然の生み出す巧まざる風景美の正体は何か?といった疑問に囚われたりもしたものです。

アール・ブリュットの評価をめぐる問題となると、いみじくもANo.10のmashumaro2さんご指摘の通り、良くも悪くも「大衆文化やマス・メディアと切っても切り離せない」と思います。
たとえ、どんなにわれわれ個人の主観だけで受け止めようとしても、この肝心な自分の主観そのものが果たしてどれほどピュアでオリジナルなものでありうるかとなると、私自身忸怩たる思いに駆られないではいられません。

アール・ブリュットに限らず、あらゆる芸術作品というものは、制作動機や構想、主題という作者の思惑と、制作物が作者の思惑を逸脱したところで覗かせる素っ気ない他人行儀なモノ性と、制作物に自らの内部に秘めた恣意的な思惑を投影させて喜んだり落胆したりする鑑賞者との三者から成り立っていることだけは確実だと思います。

>もちろん現代美術や鑑賞者の皆様にケンカを売るつもりなど毛頭ございませんが、日本の中では"アール・ブリュット"の需要はあまり無いのでしょうか...??

かつて山下清が登場したときには、それまでの既成の絵画にはない魅力へと絵画ファンの興味・関心を向けさせたように、今後ともその潜在的な「需要」が消滅することは決してないと思います。
そして、めざとくこういう潜在的需要を掘り起こそうとしたがる商魂たくましい美術市場も決して消滅しないと思います。

その意味では、われわれ自身も「純粋に気持ちの発露や魂がほとばしる感じ」をいかに世相や時勢に流されずに掴みうるか?がずっと問われ続けるような気がします。
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貴方がアールブリュットに魅かれ世の中に共感を求める気持ちは良くわかります。

私もたいへんに好きなので。
しかしいまなぜアールブリュットの展覧会がいろいろなスポンサーを得て開かれるようになっているのか
アールブリュットが認められていないというのは全くの勘違いと思います。むしろ私や貴方が知っているほどに今流行っているというのが実相と思います。

「フラットな眼」を彼岸にあるものとして理想化するのではなく、懐疑的な眼、公平な眼こそアールブリュットに対しても持てなければひいきの引き倒しになってしまいます。

「ためにする現代美術」がつまらないのは私も同感ですが純粋な気持ちの現代美術もそれこそいくらでもあると思います。(アールブリュットもその一つと思います)
美術は美術館やギャラリーだけではない、制度や入れ物を疑えというのがアールブリュットから学べる最大の教訓ではないでしょうか。
だからといってアールブリュットの展覧会がおかしいというわけでは全くなくその矛盾の中にもおもしろい仕掛けをみるべきと申している次第です。
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この回答へのお礼

yamada365さま

何度もありがとうございます。

自分の書いた最初の質問をあらためて読み返すと、アールブリュットが100%でそれ以外の芸術は0%だ。
というようなニュアンスになってしまっていますが...汗  決してその様には思っておりません。

ただ、自分の中では少し難解な芸術が多い様な気がして嫌気がさす時もあります。

ご返信、ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/18 20:55

>自分の中では現代美術は少し戦略的と言うか、恣意的なものを感じる事があるのですが



洋の東西を問わず過去の歴史を遡ってみるに、その時代の宗教的・政治的・思想的な特性を
絵画・彫刻などの作品を通じて表現してきたように、
現代日本における美術とは、大衆文化やマス・メディアと切っても切り離せない関係であり、
現代の世相を如実に映し出す鏡に他ならないと思われます。

また、質問者様のおっしゃる「少し戦略的と言うか、恣意的なもの」とは、
作家自身が抱く「現代社会における没個性のジレンマ」から生みだされる多種多様な実験手法、
創意工夫の発露や試みそのものを指しているのではないでしょうか。

>"アール・ブリュット"展からは、純粋に気持ちの発露や魂がほとばしる感じを受けました。

確かにいわゆる「アール・ブリュット」系の作品はとてもピュアな印象を受けますね。
恣意的な試みのしがらみと何ら関係のない「異質な作品」だからでしょうか。
「"アール・ブリュット/ 交差する魂"展」はなかなかに「挑戦的」で面白い企画だったと私も思いました。

>日本の中では"アール・ブリュット"の需要はあまり無いのでしょうか...??
>やはり時代を先取りした芸術の方が好まれるのでしょうか...??

「好み」はやはり個人に委ねられ、そしてアール・ブリュットといえども「時代の潮流」には抗えないものだと思われます。

そもそも「美術」という言葉自体が明治期の「造語」であるように、日本における美術界においては
啓蒙活動の歴史的経緯において「若干の趣向の偏り」がみられるかもしれません。

現に、ある人気ジャンルの世界有数の美術館級コレクションには老若男女を問わず展覧会に「自発的に」押し寄せるものの、
市井の名もなき作品、或いは「社会的に未だ認知されていない」作品や創作活動に対して、
はたしてどれだけの一般市民が関心を寄せているでしょうね。

更に、「興行収益」「作品の売買取引」といった経済的側面からも大概は質問者様の意味するところの
「時代を先取りした芸術の方が好まれる」、逆に、
アール・ブリュットが「需要がない」ように思えるのことは、やはりいたしかたない現実なのかもしれません。

ですが、
>そして、この様な作品がもっと広まれば良いなぁと思いました。

せっかくこのような想いをお持ちなのですから、「今だ評価が定まっていない作品に対して」
ご自分が好きだ!と思われるものを何らかの形を通じて積極的に応援、支援されていくことは
何にもましてエキサイティングな行為ではないでしょうか。

ギャラリーや美術館に足繁く通う、或いは知人に勧める、ボランテフィアにチャレンジする等、
質問者様ならではの独自の楽しみや知己が広げていくことができたらより一層楽しめるかもしれませんね♪
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この回答へのお礼

mashumaro2さまへ

返信、大変遅くなりました。所用で家を空けていたのと、環境が違う所にいたので体調を崩してしまいました。

現代美術とは社会と表裏一体なのですね。言葉では分かっていたつもりなのですが、感覚としてまだ理解しきれていないのかもしれません。
勉強不足でした...汗

小さくても、少しづつアール・ブリュットのよさを分かってもらえるように自分なりに行動してみたいと思います。

参考になりました。ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:30

>やはり時代を先取りした芸術の方が好まれるのでしょうか...??



先取りし過ぎると理解されない、という例も、歴史の中にはありましたよ。
印象派然り、キュビスム然り。

理解されて来ると評価されるようになり、好まれやすくなる、のかもしれません。
トレンドはあるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

gallinaさまへ

返信、大変遅くなりました。所用で家を空けていたのと、環境が違う所にいたので体調を崩してしまいました。

アール・ブリュットも良いのもだと思っているので、広く皆さんに好まれるようになって欲しいなと思います。


参考になりました。ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:25

アールブリュットは「現代美術」の文脈の中で初めて脚光を浴びて評価を受けているわけですよね?


「感情をぶつけた」美術でもアールブリュットとして評価できない凡作はいくらでもあるわけです。
教育や伝統、正統から外れた芸術のなかでも美術の教養を積んだものには想像も付かないような外れぶりの良いものがアールブリュットとして選抜されて脚光を浴びてるわけです。

ですから児童画と同じようにアールブリュットに対しても制度の影を見るべきですし開かれた心と同じぐらい懐疑的な眼を失うべきではないと思います。

世の中で美術とされていないものの中に美術的な発見や驚きがあることは「アールブリュット」に限らないことでそのような心を養うべきではないでしょうか。
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この回答へのお礼

yamada365さまへ

返信、大変遅くなりました。所用で家を空けていたのと、環境が違う所にいたので体調を崩してしまいました。

確かに、アールブリュットでも作品としての優劣といいますか、それぞれの差は感じます。
ただ、純粋な感覚で作品作りをする感性にとても憧れます。

死ぬまでには、あらゆるものをフラットな気持ちで見れるぐらい達観した状態に気持ちを持ってこれるぐらいになりたいです...汗


参考になりました。

ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:22

No5のllamaですが。

なんか誤解されてるっぽいので再び投稿
します。
ちょっと言葉が足りなくて乱暴なとこがあったからよくなかったかな。
でも分かり易く表現したかっただけなのでそこは私の表現が
悪かったと思ってます。

たとえガラクタじゃんと私は思っていても意味を持たせて新しい
表現を模索したりガラクタが美しいと思う人の対外的な活動
は私は凄いと思ってるし、高度な知的好奇心を刺激するもの
を分かり易く説明するとクロスワードパズルと表現しただけ
なんですね。

細かいことを気にするなというのは私が制作する作家の立場
をよく知る環境にいるためです。若い作家さんと知り合いが
多くてどう考えても制作しているときは制作にだけ集中して
意味なんて考える余裕なんてない状況で制作してるし、
本人が後からからどうとでもいえるよ、構成し直せるよと
言いたかっただけです。本人が良いと思うものが真実なんですね。
制作してない時間とか構想の段階では考えてるんだろうけど。
作品だけが作者の言いたい事で、言葉の説明はあくまで説明だよと。
(いちおう誤解されるだろうと予防線張ってたけどやっぱ
 誤解されったぽいね。)

新しさや革新的なものというものは一人一人の個性の中
につねに存在しますから、安易に結論付けて線引きをして区別する
ことは私はしません。それば偉い美術史家に好きにやって
もらおうって言うのが私の考えでです。

No6さんのこの部分が私の考えと違うところですね。
>ただ、古典技法で伝統的なモチーフを描いた作品を展示発表しよう
としたときに、展覧会のタイトルに「現代美術」と冠することは
普通ないだろう、というような意味合いに解釈していただければと
思います。(勝手に使っちゃってゴメンナサイ気分を害されたなら
      削除依頼してね)

もしもこんな展覧会があったら
最高のユーモアと無意味さは現代美術そのものなんだよなあ。
だって普通そんなことしないもんね。作家と監視員や観客その時代の
服装で会場にいたらもっと楽しいだろうね。

考え方や楽しみ方でどうとでもなる、そういう自由なものが芸術の
真の姿だと思いますが、これって現代美術的にはどうなんですかね。
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この回答へのお礼

llamaさまへ

何度もありがとうございますm(_ _)m

若い作家さんの知り合いが多いとの事ですが、
日本は欧米と違って社会的にも苦しい立場に人が多いと聞きますがその中でも頑張ってらっしゃるのですね。


ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:18

ANo.4のhosidenshiですが、llama様より反論がありましたので私からも言葉の足りない部分を補足しておきます。



私の説明では、現在日本で「現代美術」と呼ばれている作品群とはどういったものか、
その言葉自体の表す範疇についてあくまでも実務的な解釈を示したつもりです。
また、古典技法の探求により制作された作品の価値を現代美術よりも低く見ているつもりもありません。

ただ、古典技法で伝統的なモチーフを描いた作品を展示発表しようとしたときに、
展覧会のタイトルに「現代美術」と冠することは普通ないだろう、というような意味合いに解釈していただければと思います。

現代美術とは現在進行形で発展しつつある生きた芸術だと述べましたが、
それは一方でプリミティブな状態であるわけですから、それこそ玉石混淆であるのは当然のこと。
現代美術の中には見るに耐えないレベルの作品も多く存在することもまた必然といえます。
このように発展しようとするものが混沌の中に置かれるのは定めのようなものですが、
その中で切磋琢磨していくことによって表現は洗練されていくということもまた事実です。
それは過去においても同じように繰り返されてきたことです。

非常に難解で多くの言葉を弄して説明されなければ理解することもできないような作品ばかりが現代美術のイメージで捉えられがちですが、
私は、今実際に高い評価を得ている現代作家の作品は意外とシンプルでわかりやすいものが多いように感じます。
日本人で言えば村上隆・奈良美智・会田誠・山口晃その他諸々、どの方の作品も大変明快でわかりやすい。

発展しようとするものの混沌の中から、やがて無駄が削ぎ落とされ、
明快かつシンプルに洗練された表現が結局は評価されていくということも、私はとても興味深く思います。

アール・ブリュットのように自己の内面の純粋な表出である作品にも、
当然その制作者が生きた時代の空気が多少なりとも反映されるわけですが、
それらと「現代美術」との違いは、新しい表現を模索しようとする意志の有無、
また、切磋琢磨によって洗練されるという過程の有無にあると考えます。
もちろん、初めに申し上げた通りどちらかを上に見るというものでもないし、個々の鑑賞者がどちらを好むかということも自由です。
ただ願わくば、現代美術を「頭でっかちでくだらない」と拒否するだけではなく、
現代の混沌の中で作家が何を思い作品を創ろうとしているのか、その声に耳を傾けるほんの少しの好奇心も持っていてほしいと思います。
 
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この回答へのお礼

hosidenshiさまへ

何度もありがとうございます。

>現代作家の作品は意外とシンプルでわかりやすいものが多いように感じます
そういわれるとそうですね...汗

色々な仕掛けや、複雑怪奇な現代美術作品が自分の中で消化不良として強く印象に残っている部分も有ると思います。
なので、考えるより感じる事の出来るアール・ブリュットのような作品に強くひかれたのかもしれません...汗


ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:14

No2のllamaですが。

なんかおもいっきり批判されてるんで
補足しますけど。
現代人が昔の技法をそのままで描いたとしてもその人の価値基準や
鑑賞する人の価値感は昔と今では違っているわけです。
つまり望む望まざる関係なく新しい価値観の上で絵を
描いかざるを得ないわけ。ね、現代美術でしょ?
失われた技法を取り戻すのに血道をあげてる人にとって
技法の探求はまた新しい意味の発見と取ることもできるからね。

新しい視線かどうかは解釈する人時代によって違うんだから
言ったモン勝ちのところがあるので私は眉唾ものと思って無視
してます。

作品の文脈を読むのが現代美術とか言われてますが、わたしに
言わせればそれはキャプションや解説ほうが価値があって
作品はあまり意味のないガラクタの表明と受けとってます。
理屈こねるのが上手かったり、文章力がある人が評価される
ってことかな。クロスワードパズルみたいなモンでしょう。
褒め言葉だから勘違いしないように。

ようするにどうでもいい細かいこといちいち気にして作品作るなって
ことです。
鑑賞のほうは批判されそうだからあえて言明はしませんけど。
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この回答へのお礼

llamaさまへ

何度もありがとうございます。
自分も出来るだけ細かいことを気にしないように作品を見れたら良いなと思っています。

ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:06

 


 
「現代」の美術=現代美術ではありません。現代美術には「古典絵画技法で細密描写の写実画を描い」たものは含まれないのです。
それはあくまで古典であり、絵画のひとつのジャンルにすぎません。

現代美術とは、「過去に現れたことがなく、なおかつ現在進行形で発展しつつある新しい特徴・様式を備えた美術表現。
または過去の美術様式を踏まえ、さらに新しい様式へと発展させつつある生きた芸術」ということができると思います。
例えば、いま画家が印象派の様式を備えた絵画を制作しても、それを「現代美術」とは呼びません。
しかし、印象派を踏まえた上で、かつての印象派にはなかった全く新しい視点をその作品に与えたとしたら、それは現代美術と呼ぶことができるわけです。

時代が生んだ新しい技術、コンピュータを使った美術が生まれる一方、
古典技法を学んだ芸術家がそれまでの古典絵画には全くなかった特徴や視点を備えた作品を古典的な素材・技法で制作したりもしています。
このように、現代が生み、現在においても発展しつつある生きた芸術を現代美術と呼ぶのです。

このように、アートは時代を超えて価値を失わない反面、時代の技術、政治、国際情勢などに影響を受け、発展していく側面も持っています。
一方、質問者様がご覧になったアール・ブリュットはそのような時代の流れなどとはほとんど無縁です。
それは制作者個人の内面世界の表出ですから、時代によって新しい様式が生まれることは基本的にはありません。

質問者様はこのような内面の表出によって制作される作品を「良いな」と感じられたのですから、きっとそのような感受性がおありだったのでしょう。
時代の空気を鋭く反映する外向的な美術もあれば、自己の内面に向き合うことで生まれる内向的な美術もあります。
芸術は様々な動機によって生み出されることを理解した上で、あなたの好きな美術を無理なく選択してゆけば良いのです。

 
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この回答へのお礼

hosidenshiさまへ

返信、大変遅くなりました。所用で家を空けていたのと、環境が違う所にいたので体調を崩してしまいました。

"外向的な美術" "内向的な美術" というお言葉、とても考えるものがあります。自分はどちらかと言うと性格的にも "内向的な美術" に興味持ちます。
もちろん人それぞれだと思います。参考になりました。

ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 11:04

現代美術とはその時代の美術のことなので今「現代美術」にカテゴライズされて活躍している作家たちの作品だって


数十年・数百年も経てば「○○アート」とか「近代美術」と呼ばれ過去のものとして扱われるようになるでしょう。
その時点で「現代美術」ではなくなります。支持者が減るか増えるかはまた別のことですが。

>日本の中では"アール・ブリュット"の需要はあまり無いのでしょうか...??
ですからそれはつまり「今」支持者が多いかどうかというだけのことなんですよね。
今多くの人から評価されていなくても作家の死後人気が出ることもあるでしょうし、今何億・何千万で取引されている作品が将来見向きもされなくなることだってあるわけです。

アール・ブリュット・・・つまりアウトサイダー・アートは正式な芸術の訓練(学校とか大先生の工房とか)を受けていない人たちが、名声だとか流行に左右されずに表現したものですよね。
その“アール・ブリュット”の作家たちが生きて表現していた時代においてはそれが「現代美術」だったわけです。
でも今の時代の作家が同じように「正式な芸術の訓練を受けず、名声だとか流行に左右されずに表現」してもそれも「現代美術」になりうるわけです。
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この回答へのお礼

yerinさまへ

返信、大変遅くなりました。所用で家を空けていたのと、環境が違う所にいたので体調を崩してしまいました。

純粋に、アール・ブリュットやアウトサイダーアートに関心を持つ人が増えればよいなと思って質問させてもらった次第なんです。
参考になりました。

ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2008/09/18 10:59

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