プロが教えるわが家の防犯対策術!

私は、年齢をまったく覚えていないのですが、本の中に「人間は死からのがれる事はできない」という一文を発見した時、ガガーンと脳天に衝撃をうけたのを覚えています。
いきなり突きつけられた(?)現実に、その夜は、自分がいつか死ぬというショックと、じゃあその前にお母さんがいなくなっちゃうじゃん!(父よ、忘れてた。ゴメン…)という、絶望を感じた事を覚えています。
ただ、次の日には「ま、お母さんが死ぬ頃には、私だって子供がいるくらいの年だし、いっか」(!)とケロッとしていた気が…。

皆さんが、それを知ったのはどんなシチュエーションでしたか。
その時何を感じたり、思ったりしましたか。
おいくつくらいの時だったかもあわせてご回答いただけると幸いです。
(覚えていない私が言うのもなんですが…)

よろしくお願い致します。

A 回答 (10件)

深いですね・・・。


保育園児の頃には意識してたと思います。
ウチは家庭の事情で大きな総合病院にお世話になる事が多かったもので、私も母に連れられてよく行っていました。
命はあるものの変わってしまった身内の姿は衝撃でしたし
集中治療室に頻繁に出入りしていれば当然、生死のギリギリで闘ってらっしゃる方々や
そのご家族(幼い私自身も含めてですが・・)の御姿を目にしてしまいます
お亡くなりになられた方が静かに運ばれて行く場面、ご遺族が目を真っ赤にして歩いて行かれる御姿、何度か見ましたよ。
幼いながらも”死”というものが別世界に或るものではなく、いつか自分にも起きるのかなとの想像はしていた記憶があります。

大人になると嫌でも身近な者や知人の死というものを何度か経験してしまうものですが
この悲しさは何度経験しても慣れる事などあり得ないですね・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど~。「死」の前に、そこに至る過程を目の当たりにすれば、それが今の自分の延長線上にあると、感じ取るかもしれません。
私の場合は、いきなり「死ぬんだよ、君も」とポンと訪れた感じだったので、それが全くの別世界のように感じられ、恐ろしさが増したのかもしれないなぁとご回答を見て、思いました。
貴重なご体験談、感謝いたします。ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/15 18:20

追加です。

たったさっき、思い出しました。

四年前の三月のこと。
大学の卒業式があった日の夜に、
都心の横断歩道で信号無視をしてしまい、
高速のワゴン車に引かれそうになりました。
「ああ、危ない、死ぬ…。」という思いが、
一瞬頭をよぎりました。
時間が一瞬止まりました。
運転手さんがハンドルを切ってくれて、
ギリギリで命拾いをしました。
あまりにも怖かったので、
記憶を自分で半分消してしまっています。
今でもその時の記憶は、他人事の記憶のようです。
よほど恐怖だったに違いません。

実体験を通じて、「自分の死」を間近に感じた経験でした。
生きていて良かったと思うと同時に、いつかは死ぬのだから時間を大事にしなければならないと、
つくづく思いますね。

P.S.
ところで、メンタルのカテで18日夜に色々書きました。
名前と文体は変えていますけど私です。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
このご回答は、「いつか死ぬのだと知った時」というより、「死にかけた瞬間」といった感じですね。記憶半分消えちゃったんですか…それはそれは…
私は小学生の時、児童公園の前の信号を飛び出して、ひかれかけました。急ブレーキで間一髪、死ぬとこでした。運転手のおじさんにめっちゃくちゃ怒られました。(当たり前か…。)
自分が運転する今、スクールゾーンはかなりの注意を払っています。
交通事故には気をつけましょう^^;
ありがとうございました!

お礼日時:2008/09/21 21:25

私も子供の頃に「そうか、私もいつか死んじゃうんだ」とショックを受けた一人ですが、あまり現実的に捉えることなく大人になったと思います。



この事実をしっかりと把握したのは、自分の子供が産まれたときだと思います。
28歳でした。
生まれたての我が子を見ながら彼の将来に思いをはせていると、そうか私もこうして子孫を残して死んでいくのだな、と考えたことを覚えています。
「愛しい我が子と永遠に一緒に居たいけど、それは無理な話」
「この子もいつかは死んでしまうのが運命。天寿をまっとうできれば幸せ」
なんて考えました。

それまでは、
「私のことなんか心から心配してくれる家族や友達なんていない。いつ死んでもいい」
と本気で考えていたものですが、自分は永遠に若いという根拠の無い自信が心のどこかにあったせいでそんな馬鹿な事を考えていたように思います。

そう、人はいつかどうせ死んでしまう。
だからみんなで出来るだけ楽しく生きて行きたいものですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
出産の時ですか。色々なシチュエーションあるものだなぁと、感心(?)してます。
私は出産の経験は無いのですが、恋人だったりモノだったり、手に入った(というか何と言うか)途端、すごく嬉しい気持ちの反面ぼんやりと失くなくなった時の事を考える様な事は時々あります。
現代人は、子供を残したら後は死に向かうだけって事は無いですけど、本能的な部分には残っているのかもしれませんね…。
貴重なご体験をありがとうございました。

お礼日時:2008/09/19 22:15

大学生のときです。


最初に地球に発生した生命体は、アメーバーのようなもので、分割で多数化していった…まさに、単なる分割。このとき、老化というものは存在しなかった。
だが、次第に進化を遂げてきた。原核微生物から真核微生物になり、今や、動物界、脊椎動物門、哺乳動物項、霊長目、人科、人属、人種にまで。
この進化の代償として老化というものを生命体は受け入れた。…
受け入れたのです。仕方が無いのです。人間に生まれたのだから。その代わり、子孫はもっと進化している可能性があるのです。

おまけ:その1
老化はDNAの一部が徐々に消耗していくことによって起こることがわかっています。あなたの子孫が老化を抑制する技術を確立されるかもしれませんよ。
おまけ:その2
人という生命体は何歳まで生きられるか?
(1)ある人の説によると、生まれてから、一切のストレスを受けないと仮定して…300才だそうです。眠い、蚊にかまれた、その他一切無しですが…子孫も残せませんね。
(2)1975年、大学のときの統計力学の先生がポロッと話されたのを今でも覚えています。普通に生きておれば、150才までは生きられる。…可能性として。
おまけ:その3…般若心経
突然「何?」かもしれませんが…
「死」を当然の前提として般若心経を読んでみると、その教えに感動されるでしょう。死に対する恐れが極端に減ります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
Ano1さんもそうでしたが、大人になってからですか。
年齢を書いてもらいたかったのは、「子供っていくつぐらいで理解するんだろうな」という疑問からだったのですが、「子供って」というのはどうやら私の思い込みだった様です。
もし「あなた、死にませんよ、ずーっと。」なんて言われたら、子供の頃「死」に対して感じた得体の知れない恐怖を、もう一度味わう事になりそうです…。
般若心経ですか、そんな良いお経なら、もっとかわいい題名(?)にすればいいのに…。
ありがとうございました!

お礼日時:2008/09/16 18:52

ニュアンスが伝わりにくいとは思うのですが、図鑑か何かで小学生の頃


"太陽がいつかは燃え尽きてしまう"と知った時です。
(といっても何百億年も先でしょうけれど)
つまり、自分がもし死ななくてもこの世界は永遠じゃないのかも?と思った時です。
そこから芋づる式?にビックバンを知った時は「え?自分は昔、この世にいなかった??」と当たり前ですが気付きました。

その時は、夕方で喉になにかつめられたような感じになり、カラッからに喉が渇いて、つーっと涙が流れたのを覚えています。
かなり深刻ですよね?
パニック障害ってあんな感じなのかもしれません。言葉もしゃべれなかったです。

それから定期的に、死の恐怖は襲ってきたのですが、年齢とともに
なんとか克服することができました。

不思議なことに子供ができてからは、だいぶ考えても平気になりましたよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
何かありましたね、図鑑の様な本で太陽や宇宙の事が書かれている本。
「自分って昔はいなかったのか」という発見のしかたは、なるほどって感じでした。
小さな胸で受け止めるには、少々事が大きすぎたのでしょうか。「喉が詰まる様な感じ」という表現、何とも言えない苦しさが伝わってくる様です。
私は死ぬのにあれほどの恐怖を感じたのって、その子供の頃だけだった様な気がします。
子供って、何か持って生まれてくるんでしょうかね。
貴重なご体験談をありがとうございました。

お礼日時:2008/09/16 18:47

いつかは覚えていません。


たぶん「いきとしいけるものはみなしんでしまう」と言うような言葉を聞いた時だと思います。
「そうか、しんでしまうのか」と思っただけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
回答者様のように、別段何も感じたり、思ったりしない方もいらっしゃるんですね。
はっきりと「あの時!」と記憶に残る事も無く、単なる日常として過ぎて行ったというような印象を受けます。
ショックを受けない人もいるのだろうか?という疑問もあったので、謎が解けました。
ありがとうございました!

お礼日時:2008/09/15 21:48

幼稚園に入るかその前くらいだったと思います。



母親に聞かされた記憶があります。
死んだらどうなるのか聞かされました。
テレビのワイド番組で、
有名人の葬儀を見ている時だったかなあ。

死んだ本人は何もわからなくなってしまう、
という話をされました。
葬式で体を焼かれる話も聞かされました。
そして自分もいつかは、
そうなるという事を知りました。

その時は漠然としたショックを受けました。
最初は自分の死は苦しいものだと感じましたが、
その後すぐに痛みへの恐怖なんかよりも、
漠然とした孤独感による恐怖に襲われた気がします。

ところが、気持ちが少し冷静になると、
自分にとって死はずっと先の事のように思えてきて、
恐怖感はすぐに薄れました。

私にとっては、
自分が死ぬことを初めて知ったときのショックは、
今まで生きてきた中で受けたショックの中で、
三本の指には入っていないかも知れません。

※ちなみに、一番のショックを受けたのは、
妊娠中絶の現場を見てしまった時かなあ。
19歳位だったかな。
これが後々トラウマになり大変でした。
(今でも)

大人になって他人の死は理解しても、
自分の死については余計にわからなくなりました。

まず世界があるから自分が存在するのか、
それとも、
まず自分があるから世界が存在するのか、
わからなくなってしまったからです。

さて、多重人格症の人間は、
他の人格でいる時とはまるで別人で、
他の人格でいる時の記憶が全くありません。
どの人格でも、体は同じなので視力などは一緒だけど、
性格、即ち、脳の働き方は人格ごとに変わりので、
世界の見え方は人格ごとに違うはずです。

そこから、どうやら自分と世界とは、
相対的にしか成立しないようにも思えてきました。
そして、
 自分と世界は表裏一体である
   =世界は自己の創造物である、
という認識が生まれてきました。

下にあるキリスト教の方の回答もありましたが、
私はキリシタンがよく言っているような
神が自分を作ったという考えではなく、
自分という存在は神や仏(=全ての根本となる力)の
一部(枝分かれ)だという考え方になりつつあります。

つまり、樹に例えると、
根全体=神・仏(全ての根本)
幹=真理(第一義的な世界)
枝=自分(人々)
葉=現実(第二義的な世界)
という感じでしょうか。
枝や葉はたくさんあるけれど、真理は一つしかなく、
もとをたどれば全ては『ひとつのもの』ということ。

そのような認識が大きくなるにつれて、
子供の頃に感じたような死に対する不安や恐怖は、
今では薄れたかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
親御さん(おじいさん、おばあさん)から話して聞かされる人も、やはり多いのでしょうね。
「孤独の恐怖」というのは、私が感じたものにかなり近いと思います。
改めて考えてみると、自分が消える恐ろしさというより、自分を残して世界が丸ごと消えてしまうような感覚の方が、近いかもしれないと感じました。(結局同じ事かも、ですけど)
色々なコトを見て、感じて、自分なりの「かたち」が出来てくると、恐怖というものから少し遠くなりますね。
歳をとって「死」が現実味を帯びてきた時、また怖くなるのだろうか、それともならないのだろうか…
貴重なご体験談を、ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/15 21:37

我が家はキリスト教で、初めて死を知ったのは5歳くらい、ばあちゃんが「死」について話をしてくれた時ですね。


「いつか人間は死ぬんだよ。死ぬとね、まず煉獄というところに行って、いい人と悪い人に分けられるんだ。煉獄は炎の中にあって、そこで、待つんだよ。そして、いい人はすぐに天国に行ってアイスを食べさせてもらえる。悪い人は、そこで神様に20年くらいお祈りをして、熱い熱いっていいながらお祈りをして、それで、やっと天国に上げてもらえる。とっても悪い人は、すぐに地獄に落とされて一生(?←おそらく、ずっとという意味)熱い炎の中で暮らさないといけないんだよ。」
確か、こんな感じだったと思います。
火の中に入れられる、という怖さ=死でしたね。
それから、一時そのことを忘れていたんですが、
小学校中学年のときに、母と長崎の原爆資料館へ行って、改めて「死」に触れたときに「お母さんもいつかは…」と、今度は悲しみが湧き出てきたのを覚えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
実は我が家もクリスチャンです。そのような感じの話は、私もシスターから聞かされた記憶があります。
その時、私は何かおとぎ話でもきいているような感覚だったような気がします。
回答者さんの場合は「火の中」というイメージが恐ろしさを引き出したのですね。私の場合は「真っ黒な暗闇」でした。
小学生の時、先生が授業で広島の写真集を用意した事があって、とても怖かったのを思い出しました。
貴重なご体験談をどうもありがとうございました。

お礼日時:2008/09/15 18:39

覚えています。


確か5歳ぐらいのときでした。
両親、両祖父母と食事中に親たちが祖父の病気について病院行ったとか薬もらったとかそんな話をしていたとき、「おじいちゃんいつか死ぬの?」と訊きました。
今思えばめちゃめちゃKYな発言ですけどね…汗
親が「えっと、うーん、まあ、その・・・」みたいになっていると祖父が「そうだよ。おじいちゃんはいつか死んじゃうんだよ」みたいなことを言ったのを覚えています。
「俺は?(俺も死ぬの?)」と訊ねるとまた祖父が「○○(私)はずっと生きてるよきっと。」と言いました。
でもどういうわけか「あ、俺もいつか死ぬんだな・・・」と正反対のことを悟りました。
このころはテレビのヒーローが本当はいないんだと気づき始めたころで、自分の不死身説を無意識のうちに否定しました。

その5年後、祖父が亡くなったときにそのことを思い出しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
その状況でのおじいさんの潔い回答に、何らかの意思を感じます。
けど、孫に悲しい思いをさせたくなかったのでしょうか。自分については「死ぬ」と断言しつつ、孫には「ずっと生きてるよ」という言葉にキュンときてしまいました。
「おじいちゃんいつか死ぬの?」と突然投げかけた回答者さんは、テレビヒーローの事なんかもあいまって、いろいろな物を「薄々」な状態だったのかもしれませんね。
貴重な想い出をお話いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/15 12:01

覚えてます。


23才のとき。それまでなかった目のクマ、小ジワを発見して、
「人生は永遠じゃないんだ…」と、初めて悟りました。

でも自分が死ぬのはあんまり怖いと思わなかったですね~。。
それより目の前の小ジワにガーンとなったのを覚えています。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私の予期せぬ年齢が出てきたので、結構ビックリしました。
自分の肉体の衰えを見て悟るというのは、かなり現実的ですね。
自分だったら、大人になってから知ったらどうだったろう、と想像してみましたが、「漠然とした」認知より、恐怖感は確かに少ないかもしれません。
貴重な体験談をありがとうございました。

お礼日時:2008/09/15 11:41

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