プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私は、キリスト教信者です。
プロテスタントです。。
約1年前にバプテスマを受けました。

他のクリスチャンの方、牧師さんなどから
よく「主にお委ねしなさい」という表現で
アドバイスを受けることがあります。

しかし、「委ね方」がわかりません。。

私より、ずっと長い信仰を持っているクリスチャン
に、そうアドバイス頂いても
「はい」としか答えられません。。

こんな質問をここでするのも、神に失礼とは
思っております。。

しかし、「霊的に・・・」とか「語りかけを・・・」とか
言われても私には、理解し難いものがあります。。

信仰の世界に、正解はないとは思ってますが
信仰を持って、何事にも強く生きたいのです。。
信仰を肌で感じたいです。。

どうぞ、なんでも構いません。。
アドバイス等ございましたら、返答願います。

A 回答 (15件中1~10件)

3.14です。


「主」は、私の見たところ博打好きです。
委ねるものは賭けたものにもなります。
それがあなたの命なら狸に任せるのはあんまりじゃないですか。
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No3です。


まづ、
哲学サロンをつかさどる鬼神と言うのは幼くていたずら好きの神様でしてね、おどけたり茶化したりするのは喜びますが暴言はきらいです。
馬鹿もきらいです。

日本人の原風景(民間信仰)に現れる「主」とは狸のことです。
経験に基づいて絵本や日本昔話を読んだり聞いたりして思い浮かべた狸の姿を思い出してください。
それがあなたの「主」です。
昔話に登場する狸ですから化けるのは得意です。
仏教を志した方が座禅を組んだときや夢に現れる「仏」の姿も狸が化けたものです。
物言いや姿から創造する人格は変幻自在なので心に内包する姿が寓話性のある狸なんです。
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カトリックの森神父は、ヴァチカンで修行をしていて、「もう無理だ」と限界を感じて、上司に辞めると言いに言ったそうです。



そしたら「神に祈りなさい」と上司は言わず、「今日はもういいから、ゆっくり休養しなさい」と言ったそうです。


一日神に奉仕するため、神父たちはヴァチカンで働くわけです。
神のために働かないことは、神にそむくことになると、限界を感じつつも、必死に彼は奉仕したのだと思います。

でも、考えても行動に移しても、まだまだ と自分を叱咤し、追い込んでしまったのかもしれない。

そういうとき、神にゆだねるというのではないかと。

休養をしたことを神は罰しなかったようで、彼は今では日本のカトリック教会でも、上位の人となっています。

休養をする自分を神にゆだねる。
休養をした自分を神がどう扱うか、それは神の自由。


というわけで、限界を感じ、立てなくなり、奉仕できなくなったら、後は神にゆだねるという考え方もありだと思います。

それで何か悪いことが起こっても、神にゆだねたわけですから、その悪いことを甘んじて受容するのが、あくまでも神に仕える僕のすることではないか と。

理解できない状態で、理解しようとしても、理解できないのなら、後は神にゆだねる。

神は全部を知っており、人間は全部は知りようが無い。
じゃあ 知りようが無い部分があるゆえ苦しむのなら、知りようが無い部分は、神の領域なので、神にまかせる。
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この回答へのお礼

わかりやすいご意見ありがとうございます。。

お礼日時:2008/11/13 00:05

信仰の世界の入られても良い時もあれば悪い時もあるでしょう、良い時は誰しも委ねられます神を信じられますが悪い時は信仰を疑います(委ねられない)信じられなくなります。



楽しい時も苦しい時も信じる事が委ねる事だと思います。(信じるものは救われる)
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この回答へのお礼

力強いお言葉ありがとうございます。

お礼日時:2008/11/12 23:34

信仰を肌で感じたいです。



真剣な願いや祈りは必ず実現することになっています。これ法則ですから疑わずに日々実践すればいいんですよ。真剣な祈りは必ず誰かが受け取って上のものに上げることになってます。残念ながらほとんどのかたの祈りがイエス様に届くことはまずないでしょうが適切なお弟子さんが答えることになっています。祈りには方向性がありますので方向性を確かめながらやらないと悪い方から返事がきたりします。キリスト教はあの世の部分の教えが薄いので特に注意が必要ですね。イエス様の無償の愛の方向で祈れば間違いは無いんですが、苦しみの中の祈りは悪い方にいってしまうということですね。向こう側が必要と判断する時に返事がきます。あなた側の要求時間ではないところに忍耐がいるのですね。
イエス様は日本が大好きなので良くいらっしゃってますから迷うことはないんですが、教会にはあまりいってないのかな? まずはイエス様が良く行く場所を探した方がよさそうですね。答えをいただけるかどうかは場所(霊域)によるんですね。
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この回答へのお礼

教会には行っておりますが
最近、ただ行ってるだけでした。。

「真剣な願いや祈りは必ず実現することになっています。」
 ↑
 ありがとうございます。。

初心に返ります。。

お礼日時:2008/11/13 00:15

こんばんは。



「神」
人間がこんな概念というか、名付けをしたことによって、その「神」も迷惑なことではないでしょうか。

全くの私見ですが、
この宇宙に遍くあるもの、それが「神」だと思います。
それは、一つの宗教に捕らわれるものではない気がします。
様々な人たちが、それを形にしようとした。それが宗教ではないでしょうか。

その中でも、キリスト教は、その存在を表すのにかなり近いのかな? 個人的にそう思います。
旧約聖書の神は怒りっぽい(笑)割と理不尽なイメージがあります。
それを変えたのは、イエスであり、パウロなのだろうと思います。
ユダヤの神を、普遍的な神に変えた。

でも、私が思うのは、まだまだ、真理は語り切れていないのでは? ということです。
しかし、イエスはそれをかなり正確に捉えていたのだろうとは思います。
聖書や牧師様の言葉の中にも真理は含まれているでしょう。だがしかし、全てを言い表してはいない。
だから、ぴんと来ないこともあると思います。

結論が遅くなりました。
宗教に頼らなくても、真理はつかめるし、実践できる。
ただ、まだ自分がか弱い時点では、それもまた頼りになる。

仏教に、方便というものがあります。
いわゆる、まだ、その域に達していない人に教える教義です。
「嘘も方便」はここから来ています。

幼稚園児に、中学生が学ぶことをそのまま伝えることは出来ませんしね。だからかみ砕くために、若干の歪曲が出来るのです。

今はしっかり信仰して、やがてそれを越えることが出来る日が来ることを、自分はご質問者様に望んでいます。

宗教が、他を攻撃したり、お金儲けに走ったりしたらお終いですし、組織となったそれは、その傾向を持つことは確かです。
宗教の先に真理はない。あくまでも、その一部を言い表しているに過ぎない。これが私の考え方ですし、外れていないと思います。

インドのゾウの話をご存じでしょうか?
目の見えない人たちがゾウに触って口々にそれを言い表す話です。

耳に触った人は、絨毯のような生き物だと言い。しっぽに触った人は、紐のように生き物だと言い。
胴体に触った人は、壁のような生き物だと言い。足に触った人は、柱のような生き物だと言う。
宗教とは、これだと思います。

それでも、ゾウらしき生き物を表現したのは、イエスでしょうね。
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NO.1と、NO.8の回答に補足。



全ての宗教で、至らぬは、信仰が足りないからと逃げ口が設けられています。

いい加減を私は云ってるんじゃない。私は、寺の住職の親類です。

信仰は、貴方が神の領域に達したと、万人が認めてもまだ不足なんです。

つまり、到達圏は永久に来ないのです。神に委ねる境地は、いくら信心が深くても理解できない。

理解されたら、信者が居なくなるからオブラートで包み隠し、ぼやけたままにしてるのです。

神とは、貴方の信仰心の中に居られるのです。

委ねるとは、貴方の意思のままにを云います。

思うままに生きなさいと云う事です。

失敗したら、あなたの信仰心が足りず、成功したら神の加護があったからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。。

お礼日時:2008/11/13 00:18

NO.1で回答。

『かわそうなやつだ』と回答への補足あり。

いくらかは【マシ】な考えも出来るんだ。

何とかなるよ。世の中、杓子定規だけじゃないんだ。

だから、神様が居ても、居なくても、何とかなってる。
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 No.2&4です。



 ★ 「主にお委ねしなさい」という表現で / アドバイスを受けることがあります。 // しかし、「委ね方」がわかりません。。
 ☆ わたしが この問いに直接 答えなさいという要請を満たしていないのは もともとですが ANo.4につづいて 補足します。

 ☆☆ (ANo.2) あなたが ゆだねる前に 先刻ご承知だということになります。
 ☆ というように 夢物語のごとく 間接的に触れましたが これでは らちが開かないとすれば 補います。
 ゆだねる相手を 委ねる前に 人間である自分が決めたとすれば それは 人間がその知性によって判断したということです。立派な先輩や歴史上の立派な人物の言葉などについて おそらく 重要で貴く ためになるという憶測をもって 決めたということです。
 神は そういう相手ではないと言ったのです。
 では どういう相手だ?と訊かれるでしょうが もしわたしが こういう存在だと まったく過不足なく規定することができたとすれば それは 神ではないという意味です。
 言いかえると 各国語で《かみ》にあたる言葉を用いていますが その言葉は ほんとうの神を仮りに表わす代理の表現だということです。
 信仰は 非思考です。非思考が わづかに 人の心の伸び(志向性)としてのごとく 形態化した行為です。言いかえると すべてが 自由です。この信仰の相手を 《無》と言っても その相手の存在は びくともしません。永遠・普遍かつ不変の真理というのは そういうものです。
 お応えを待ちます。このあたりにて。
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この回答へのお礼

ご意見
感謝します。

お礼日時:2008/11/13 00:20

「信仰」と言うもの自体は根拠・論理・道徳や現実・実際のデータとは関わり無く信じ仰ぐもの。

と感じています。人間の生命としてのシステムを鑑みると、「何かを見聞きし、個人個人が違う概念を構築し、その概念を愛好し、愛好したものを信仰する」のだと思います。

自分の信仰する概念と他の人の信仰する概念は違うのであなたの言うように<<信仰の世界に、正解はない>>という考え方は僕も賛同いたします。

「主にお委ねしなさい」と言ってその「委ね方」を詳細に納得できるように語れないなら、その人は「知らない」か「貴方と違う、差異の有る概念で信仰しているか」が考えられると思います。

なので、「委ねる」と言うこと自体にこだわらなくてもいいのではないかと思います。

あなた自身の考えを大事にすれば善いのではないでしょうか。

<<信仰を持って、何事にも強く生きたいのです。>>

もし貴方の保っている見解・信仰が「人間の悩み苦しみを減らし、悪感情を減らしよい感情多く育み、心が強く幸福に至る」と言うことを大事にするもので、「自分の信仰しているもの意外から何も学ばない」と言うものでないなら、オススメの方法があります。

人間ブッダが発見した諸々の方法です。科学的(現代の科学絶対視のような科学信仰でなく方法論として)に論理的に実証的に語られている苦しみを無くす方法が数多あります。

スマナサーラ長老の書籍やサンガ出版の「仏法」などから方法は抽出できると思います。

多分、「現代人のための瞑想法」にあるような感覚の気付き・実況や慈悲の心を育む方法はオススメです。

単純に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と常に心の中で念じることも心が強くなる方法と思います。

心はよく思念したものに傾く性質が有るとおもいます。

これだけでも実験すれば結果が感じれると思います。

納得がいった方法を拾ってやりやすい実践を実験してみてください。

きっと善い結果があると思います。

~幸福であれ~
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この回答へのお礼

ご意見まことに
ありがとうございます。。

お礼日時:2008/11/13 00:22

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