No.9ベストアンサー
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
まず、後にユダヤ教徒と呼ばれる民族に|神|が天使(直接|神|からという説もあります)を通じて、預言者モーセに十戒を授けたわけです。
つまり、|神|は、後にユダヤ教徒と呼ばれる民族を選んだわけです。(全人類では無く、ユダヤ教徒と呼ばれる民族を選んだので、ユダヤ教徒は選民思想を持っていると思われます)
キリスト教徒が現在旧約聖書と呼んでいるものは、ユダヤ教徒の為の|神|との契約なので、キリスト教徒から見たら旧約(古い契約)なわけです。
ユダヤ教には、救世主が使わされると言う啓示がなされていました。
キリストは、父なる神の子としての救世主として、ユダヤ教徒に|神|の言葉を与えようとしましたが、ユダヤ教徒の一部だけが、キリストを救世主として、後にキリスト教と呼ばれる集団を作ったわけです。 キリストの言葉は、福音書として残されました。 それらは、新約(父なる神の子のキリストとの契約)聖書としてまとめられました。 その後、布教活動などによって、世界にキリスト教が広まったわけです。
イスラム教の場合は、最後の預言者として、|神|がムハンマドを選び、天使を通じてコーランを授けました。 その後、中東地域でイスラム教は布教活動により広がりました。(イスラム教では、ムハンマドは、全人類を救済する為に選ばれた者としています)
したがって、モーセに与えられた啓示を信仰している人がユダヤ教徒となり、それがユダヤ人と呼ばれました。(ユダヤ人の定義は、ユダヤ教徒を母とするユダヤ教徒です)
キリストの場合は、ユダヤ教徒の啓示に預言されていたとすれば、救済する相手はユダヤ教徒ですが、キリスト自体が三位一体の|神|ですから、自分を信じれば、救われると説いたので、キリスト教徒になれば、誰でも救済される事になります。(キリストを救世主と信じないユダヤ教徒は、|神|が唯一絶対ならば、顕在するはずがないとキリストに伝えましたが、キリストは、|神|が複数形で表現され、偏在するならば、自らが顕在する事に支障は無いと説いたとされます)
イスラム教のムハンマドは、全人類を救済する為に選ばれたのならば、イスラム教徒になれば、誰でも救済される事になります。
それぞれの信徒は、ユダヤ教を除いては、信仰により、キリスト教徒、イスラム教徒となります。
ユダヤ教の場合は、入信に厳しい制限があるので、入信自体が自由に出来るわけでは無いです。
啓示が異なる理由については、啓示の時期が違うので、伝え忘れた事があったり、信者の信仰が|神|の意志通りでなくなったので、追加したと言う解釈のようです。
それぞれは、啓示が違いますが、後から成立した宗教は、追加された啓示があるわけですから、その啓示を信じないと救済はされないと言う解釈になっていると思います。
ただ、救済されないと困るのは、信仰者ですから、信じる信じないは信仰者の責任なわけですから、信じなければ救済されないと教えてあげても、改宗までは求めないと言う立場だと思います。
そういう意味では、対立はしないはずなんですが、社会構造や政治的な対立がある場合は、それが宗教的対立と捉えられる場合もあります。 また、救済をすべしと言う思考(これが本音かどうかは検証不能ですが)が、布教活動としての侵略的行動となった場合もあるでしょう。(イスラムと東方正教会の紛争、それに伴う十字軍などや、南米などの布教活動による植民地化など)
ご回答ありがとうございます。
素人のために要点をピックアップしつつ、読み物のような構成で、わかりやすい解説をいただきました。
宗教について相当の見識をお持ちでないと、こうした表現で宗教を語ることは難しいでしょう。
改めて御礼申し上げます。
No.25
- 回答日時:
この際 重箱の隅をつっつきます。
◆ アブラハムの宗教
☆ アブラハムの《われ》にとっての神が モーセにあっては――モーセ個人は別
ですけど・つまりアブラハムと同じく信仰によって生きるのですが―― はらから
の仲間のつくる社会にとってはその秩序をあたかも優先させて交通法規を 持った
そのときのイマシメを語る主体として神が現われた そのように倫理思想として人
びとに共有される《観念の神》をめぐる集団心理としての宗教。また 文化。
これが 《アブラハムの神から派生したヤハヱー宗教》だと考えます。
ユダヤイズムだって ハバクク書2章だったかに ひとは信仰によって生きると書
いています。つまり 交通法規としての・宗教としての律法を守ることによってで
はなくと。
普遍神に《本質》は要らないという本質論議をしている問いなので きびしく厳密
にと思いました。
つまり
★ ユダヤ教キリスト教
☆ には アブラハムの信仰が核心となっている。その埋もれた地下の底流だとし
ても 宗教だけではない。ということ。これを 切り離して取り出し取り上げてい
る必要があるという物言いです。
No.24
- 回答日時:
ユダヤ教キリスト教イスラム教と書くと14文字で面倒なのでアブラハムの宗教という呼称を使って短く書いただけです、ブラジュロンヌさん。
あと、ご持論に従えば、
オシヘ=交通法規(超自我)=違いをつける元
となっていますが、それを超自我より拡げて民族文化の形成まで掘り下げているのがわたしの回答内容です、念のため。
No.23
- 回答日時:
あまがっぱさんは――あまがっぱさん ここでも こんにちは―― 神について
信仰の神とオシへつまり宗教の神とを区別していない嫌いがあります。
アブラハムの神は 飽くまで個人の――アブラムと呼ばれた人間なるわたしが
それをいだくことによって アブラハムと呼ぶようにと言われるまでになるその
わたしに固有の――神です。
ほかのかたちはありません。
長子イサクをいけにえにささげよと言われてこれに従おうと決めた途端に いや
羊でよいと肩すかしを食らったその神です。アブラハムの心の固有時の中にしか
ありません。
この信仰の過程で得られた観想内容を モーセは 外化=疎外=表現して《なん
ぢ ころすなかれ》という倫理規範として表わしました。これが オシへとして
の宗教であり それとしての神です。
つまり お望みならばオシへの神は 交通法規なのですから 超自我であり 精
神とその思考の問題です。《信じる》とは何の関係もありません。信仰という蝉
の抜け殻――疎外状態にある――です。
聖書の民 キリスト・イエスが指し示した普遍神をいだく者にとって 現世はイ
デアなる天国の影であるのではありません。天国は方便です。
神は 生ける者の神です。そのほかにはありません。現世をいくら嫌っても そ
の生ける者の生活世界に立ち還るしか神の道はありません。普遍神なら そうで
す。
◆ アブラハムの宗教はとても人間らしい気がするのですが、この実体(* いわ
ゆる本質論)の無さゆえに、民族や文化的集団による「違い」、つまり人間の都
合や解釈による「違い」が現れるのではないでしょうか。
☆ 神は 普遍神のみです。オシへが 勝手に《違い》をつけ加えるのです。
本質論としての神学や倫理規範論が 神を我が物顔にしてよごし続けています。
No.22
- 回答日時:
壮大なご質問ですね。
端的に回答します。
数多の宗教や神託は、「かのように生きるべし」というものです。生き方の規範を説くという意味で、数多の宗教や神託は同じです。しかしその中身、つまり教えは皆バラバラです。それぞれの地方に適した教えが説かれているものもあれば、集団生活を営む上での倣いなどもあるでしょう。つまり土地の背景や時代の背景によって中身もその解釈も変わります。
ご回答ありがとうございます。
処世訓、方法論の違い、ということですね。
あほな さんはじめ皆さんのご回答で、大体の線が見えてきたように思います。
No.21
- 回答日時:
お返事をありがとうございます。
> (当面)変形自我のように呼んでおきたいような
変形自我ですか。なるほど。
自我と超自我はドライバーと交通法規になぞらえることがありますが、
「どこを走ればいいのか」
「どう走ればいいのか」
に答えるような、道路地図だか全体地図だかがあるはずで、それは何の図法で描かれたものだろうかというバイアス問題もあって、そのあたりがパースペクティブの出番かなと。
>>繰り返される器、....(中略)....自己明証性の約束だけが保証され
>>ているというありようじゃないですかね。
>:
>この「保証」の感覚は個人に自ずと兆すものなのか、あるいは(広義
>での)教育によってもたらされるものなのか、両方なんでしょうね。
書き飛ばしのわかりにくい文章をよく噛み砕いてくださり、貴重な話相手です、ハコブルさんは。書き飛ばしの隙間を埋めようと考える暇を与えてくれます。
学習するものである感覚は、文化あるいは文明という規模で形成されていると思います。ユングにかかると、結局そうした感覚が図像学的になんらかの形に沈殿しているのを無意識が拾い上げることになるのですから、またそれらが意志する以上、発生源はよくわからなくなってしまいますね。
神や預言者を信じると(新約では神の子を信じると)、引き換えにその者も認めてもらえる(約束された転地、また死後天国に入れてもらえる)、という交換契約は、物品も生存に関わる利益も交換していませんから、人間以外の動物がそれを欲するかというと、かなり疑問があります。信をおくことと夢/希望を得ることがセットになったかたちでしょうか。思うに、これは、金銭や経済の発明とよく似ています。取引や信用を重んじるこのようなありかたを見ると、アブラハムの宗教はとても人間らしい気がするのですが、この実体の無さゆえに、民族や文化的集団による「違い」、つまり人間の都合や解釈による「違い」が現れるのではないでしょうか。
預言者モーセと預言者ムハンマドにおける啓示が同じ唯一神に発することは異論がありません。この啓典は、天国に入る為には創造神に従うことを求め、現世とは、裁きを待ち天国に入る機会にすぎないもので、来世は永遠であるとします。人がこの世で持つ属性を空虚にする一方で、親孝行、家族の属性をとりわけ尊びます。奇妙なのはこの後です。同じ神を信仰する者でも、民族としての格付けがありますね。イスラムがユダヤを奴隷の地位でしか認めないのは、起源をさかのぼれないほどの話です。イスラムにおいては神の意志のなかにその項目が含まれており、身内の側にいる弱者に対する寛容を示すべきところとなっています。信仰の実現と自己の成就がそのようになっている。これはいわば超自我のうちで譲られない既得事項で、自己明証性にかかわる約束だといえます。
キリスト教はミトラ信仰との関わりなどまた別の問題をはらんでいますので割愛しますが、神の違いが何を意味しているか、は、別の社会的集団に同じ神と呼ぶことにむしろ意味があるのかということに繋がりそうです。
ご回答ありがとうございます。
>アブラハムの宗教はとても人間らしい気がするのですが、
:
そうなんですよね。
永遠に片思いであることに気づかぬ点でもそのように言えるでしょう。
恋をすること自体に(あるとすれば何らかの)意義があるはずなのですが、ここに気づいていないために発する誤謬が数多。
>この実体の無さゆえに、民族や文化的集団による「違い」、つまり人間の都合や解釈による「違い」が現れるのではないでしょうか。
:
まだ途中なのですが「違い」は方法論の違いと捉えて良いのではないか、という気がしています。
「実体」は唯一、宇宙の摂理ではないでしょうか。
宇宙に拘る必要はなく、「人智の及ばぬ何か大きな力」と言い換えても構いません。
>預言者モーセと預言者ムハンマドにおける啓示が同じ唯一神に発することは異論がありません。
:
預言者って、何か言ったもん勝ち、といったところはありませんかね。
麻原だって、(そう言ってたかどうかは知りませんが)預言者のつもりでいたような気がするんですよね。
個人的には神自体を預言者と位置づけてしまえば良いような気もします。
現段階での預言者は官僚的な存在。
むろん、現段階での神は、唯一の真理として「宇宙の摂理」「人智の及ばぬ何か大きな力」、あるいは、それらの象徴という位置に格上げされる。
そんなこんなも絡めて、ほちぼち考えていきたいと思っています。
>信仰の実現と自己の成就がそのようになっている。これはいわば超自我のうちで譲られない既得事項で、自己明証性にかかわる約束だといえます。
:
アッラーはヤハゥエよりも人に寄り添った神として位置づけられていることになりますかね。
良くも悪くも、手取り足取り といったところなのかもしれません。
色々と参考になります。
何かとお忙しいところ、お付き合いいただきありがとうございました。
No.20
- 回答日時:
ごぶさたしています。
雑談です。メソポタミア神話、エジプト神話、インド神話、中国神話、ギリシャ・ローマ神話、、、といった古代神話を思うと、それぞれに周辺の民族神話との影響がありつつですが、本質的な特徴がありますね。
それは、身近な〈力〉の擬人化です。
鳥や獣や水や山や火や太陽などの自然ばかりか、都市国家群で文明を築いたメソポタミアでは都市の擬人化もありますね。時や闇や死や戦などの擬人化もです。
こういう神々は、畏れの対象、主人と思って平伏す対象、そして生活に身近にいらっしゃるし、よく人間と関わる神様ですね。人間が寄り添ったものだと思います。
自然環境に多様性が無い所ではどうなるでしょう? 砂漠とか岩山とかの。
空と大地の力が強大で、昼は太陽と光、夜は月と闇、繰り返しの一元論的なというか観念的で全支配的な神様になるんでしょうね。空と大地の間の遣いは鳥というわけで鳥占いは大事ですね。
滅びてしまった古代の神様と違って、アブラハムの宗教の神は、家族・民族の出自の正当性を特徴としていると思います。
家系図という出自のみならず、契約をとおして、正当な一族に受け入れるという姿勢が見えます。赤ん坊のうちにそこに入れてやらねばならぬという風習があります。長じてよそから入る者も歓迎して迎えます。本質的にはあれらの宗教は、正当性、すなわち自己明証性・自己同一性の装置として働いていますね。だから、自分自身のことでなく、家族や一族のこと、祖先のこと、子孫のこととして、一個人の精神にパースペクティブを敷いていると思います。こういうレベルで使う語は自我じゃないですね。あえてニーチェを借りてパースペクティブと。繰り返される器、方法、様式、つまり虚ろであるがゆえに、変わることは不可能な、つまり何も無いのだから介入されえないという意味ですが、そういう領域に、祖先のおかげや子孫への希望で、自己明証性の約束だけが保証されているというありようじゃないですかね。他人の明証性については、仲間か、否か、という検査をすることになります。経典や聖典の内側からだけで、違いがあるとか無いとか言うこともできましょうが、本質ということにおいては、存在の要請が、内在的機構として即ち形態を取るという点が重要だと思いました。雑談でした。
ご回答ありがとうございます。
>本質的にはあれらの宗教は、正当性、すなわち自己明証性・自己同一性の装置として働いていますね。
:
極めて興味深いお話です。
>こういうレベルで使う語は自我じゃないですね。
:
どうなんでしょう。
個人的には、(当面)変形自我のように呼んでおきたいような気もしました。
>繰り返される器、方法、様式、つまり虚ろであるがゆえに、変わることは不可能な、つまり何も無いのだから介入されえないという意味ですが、そういう領域に、祖先のおかげや子孫への希望で、自己明証性の約束だけが保証されているというありようじゃないですかね。
:
難しそうですが、魅力的な解説とご見解を伺いました。
この「保証」の感覚は個人に自ずと兆すものなのか、あるいは(広義での)教育によってもたらされるものなのか、両方なんでしょうね。
インターステラー見ましたよ。
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