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私は、たとえば問題の正解を得た時、心のなかでは、頭のなかでは、上にいる大いなるもの持って来てくれた(賜った)という気持ちがします。自分で築き上げたという気はしません。

同様に、真実の信仰は、<自らの人間精神によって築き上げ>るものでなく、与えられるものである、と想います。

賢者の皆様のご感想は如何ですか?

A 回答 (11件中1~10件)

今、気づいたのですが、ご質問は別の質問に対する反論なんですね。


それなら反論するより無視した方がいいですよ。
その質問の投稿者はろくでもない輩ですから。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
よくお分かりで御尊敬します。
一部の分かる人には、(当然ですが)分かる質問のつもりです。

お礼日時:2023/10/23 08:01

No.5 あなたが本当にそう思っているのなら、こんなところにいるはずもない「賢者の皆様」なんかに尋ねるのではなく、「上にいる大いなるもの」とやらに頼ればいいじゃないですか。

それが信仰でしょ?
⇒  この回答へのお礼 お礼日時:2023/10/23 07:57
早速のご回答ありがとうございます。
半分遊びですからね。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13633579.html
  質問を思いつかないという人の心理を教えて下さい!
  人に聞くほどのものがないとはどういう生き方してんですかな?

無趣味というか、自分を持て余して、依存状態・中毒みたいな生き方って、自分でも、もうやめよっか と思うことはないのでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
<もうやめよっか と思うことはない>ですね。
半分遊びであるが、ときには胸を射されることもありますから。

お礼日時:2023/10/26 18:00

他力本願

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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2023/10/23 17:32

真理も信仰も愛も、すべては自分自身の外にある、が、


すべては自分自身の内にある、

ビクトルユゴーの言葉を引用したい 
中略・・・ 空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である

宇宙は広大無辺に思われる世界だが
我々の内部世界(精神世界)も茫漠たる未踏の地である

軽々に語れないが
仏教での、三千世界とは宇宙を指すが、同時に
一念三千と言う生命の内部世界も指す。

内にも外にも真実の信仰は存在する、と見たいです
我即宇宙、宇宙即我ですね。

よって真実の信仰とは、(生命の扉を)
開くものである
示すものである、
悟るものである。そして大我の道に
入らしめることである。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<内にも外にも真実の信仰は存在する>ですね。
賜るものであり、築くものでもある、のですね。

お礼日時:2023/10/23 17:32

問題の正解を得た時


 ↑
そうした知的行動の95%は
他人から受け継いだモノが
基本になっていると、言われています。

つまり、母親から生まれ、親や兄弟、
友人、社会から色々なモノを学んで
成長していくわけです。

その占める割合が95%ぐらい。

その意味で、与えられたモノだ
と言えるでしょうね。

しかし、残りの5%は、自ら
築き上げた、と言えるのでは
ないですか。

つまり、95という数字がどれほど
信用出来るかは別にして、
少しは、自ら築き上げた部分が
あるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
その95%には、他者から受け継いだということが分からず、漠然と貰ったとしか言いようのないことが多いですね。

お礼日時:2023/10/23 13:42

信仰とは、何が真実であるか、知ろうとしない事、、、、Friedrich Nietzche

「真実の信仰は<自らの人間精神によって築き」の回答画像7
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
信仰してしまえば、何も知らなくても・知らない方が良くなる。

お礼日時:2023/10/23 13:36

あなたが本当にそう思っているのなら、こんなところにいるはずもない「賢者の皆様」なんかに尋ねるのではなく、「上にいる大いなるもの」とやらに頼ればいいじゃないですか。

それが信仰でしょ?
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
半分遊びですからね。

お礼日時:2023/10/23 07:57

あまりに抽象的で答えの引き出しようがない。


世の中は具体的現象で動いている。
宗教も例外ではない。

仏教では「自灯明法灯明」という。
「自分を拠り所とし法を拠り所とせよ」
という意味である。
判断するにも考えるにも、まず自分が主体でなければならない。
それと法とは「世の中をあまねく貫く物理現象」のことである。
諸行無常、諸法無我。
これらは誰かが与えるものでなく世の中のすべてのものに当てはまる基本原理である。
どこにも「与える誰か」の存在はない。
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この回答へのお礼

早速のg回答ありがとうございます。
<どこにも「与える誰か」の存在はない。>のでしょう。
ただし、受け取る人は、存在非存在にかかわりなく受け取るという気が湧くことがあります。

お礼日時:2023/10/23 07:56

「真実の信仰」とは、対境を「真理」と深く信じてそれを基としてとして人生・生活を組み上げてゆくこと、と定義します。



「真理」であるからには自分や社会が少なくとも良くなるはずであると信ずるから信仰になると。

信ずる対境は、宗教と言うカテゴリーに入るモノだけでなく、ある哲学や思想や科学や独自の人生哲学である場合も含めることができ、従ってほとんどすべての人が信仰の対境を持っていると言えると考えていることは以前どこかで書いた記憶があります。

つまり、人間が生きるということは信仰であると言えるということです。

その信ずる対境は出会いであり、直観的に決めてしまうことが多いと思いますので、「賜る」とか「選択」したということになるのでしょうが、信仰する=生きる、ということは築き上げるということになるでしょう。

また、良くなるか悪くなるかは「対境」によることは自明です。
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この回答へのお礼

早速のご回答りがとうございます。
<その信ずる対境は出会いであり、直観的に決めてしまうことが多いと思いますので、「賜る」とか「選択」したということ>ですね。
<信仰する=生きる、ということは築き上げる>ですね。
両項にはズレ(うまく表現できないが)があるのですね。

お礼日時:2023/10/23 13:33

真実の信仰は、与えられるものである、と限りません。


オウムがいい例です、いい加減な教祖にいい加減な事与えられて刑務所行に
なりました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
誰が与えるかが重大なことなのですね。

お礼日時:2023/10/22 15:41

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