【大喜利】【投稿~11/1】 存在しそうで存在しないモノマネ芸人の名前を教えてください

例えば、西洋の芸術は芸術活動を裏付ける論理があったわけですが、
いや、西洋に限らず日本でも近代以前は宗教的な意味が、そうでなくても芸術に理論があったはずだ。

しかし、現代では芸術に「意味はいらない感性だ」。とかいうことが良識とされています(最近私が読んだ雑誌にも、「芸術を語ることは愚行なことだが…」とか書かれていました)。

まず、なぜ芸術を論理的に捉えることが愚行なのかが分からない。
芸術は結局宗教みたいなもので、宗教内で「神はいる、いない」かの論争をしてはいけないように、芸術も「なぜこれが芸術なのか?」は論争してはいけないのですか?芸術って結局そんなものなの?

芸術は作者の意思による自由、また、その受け取り方も、鑑賞者の自由というのも、なんだか現代では良識みたいになっていますが、では何故、シュトックハウゼンが、同時多発テロは「最高の音楽だ」と言ったことに対して世界的な非難が上がったのか?

社会的タブーを打ち破り常識を覆すというのも芸術の役割かもしれませんが、現代ではその破られるタブーは「エロ」に関するものばかりなのは何故なのか?
本当に、タブーを破ろうというのならば、差別万歳、弱者侮蔑をマジで主題とした芸術があってもいい。しかし、見当たらない。
つまり、「エロ」は現代では「許容範囲内のタブー」なのである。
しかし、芸術が許容範囲内で収まるわけが無い。

芸術に論理はいらない「自由な感性」だというのならば、例えば、差別を推奨する意味を持ってる芸術があったとしよう。しかも、それは、配色、デッサン、構成が申し分ない。
この場合、芸術は感性だというのならばいかにその芸術が最低な意味を持っていようとも、認めなければいけない。しかし、現代ではなぜか認められない。先のシュトックハウゼンのように。
それに、「差別があったほうが世の中上手く良く」という主題を持った芸術も滅多にお目にかかれない。
お目にかかれないということは評価されていないのである。
芸術は自由な感性ではなかったのか?

というこの矛盾に挑んでこそ、現代の芸術家ではないのか?

なぜ、エロスやエコや可愛らしさや自己表現が上手く表現できている芸術ばかりが評価され、しかも、そのことに多くの人は矛盾を感じないのか?
そして、何故、芸術を論理的に語ることは愚行とされてしまうのか?

もし、これらの矛盾に挑んでいる芸術家がいるのならば、教えていただきたいし、「芸術は論理で語るべきではない!」という方は、何故論理で語るべきでないのかも教えていただきたい。

そして、なによりも重要なことは、こんな世の中の状況の中、現代の芸術家は何を目的に絵を描いているのかも教えていただきたい。

A 回答 (6件)

ちゃんといろいろ考えてやっている人はそこそこ居るので心配には及ばないという所です。


みつけてください。
展覧会場なりに出かけて真摯にアプローチすれば語ってもくれます。展覧会をそういう場所と考えている作家は多いはずです。
語りのダメな人も居ますがその場合は自分の思うように誘導しないように気を付けて聴く事です。
あまり見当外れなことばかり言ってると怒らせてしまうような場合も無いとは言えませんが。会場に詰めている人はそもそも話がしたいという動機を持っているはずなのです。
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「芸術は爆発だ」という岡本太郎さんの言葉を


知っている方が多くいると思います。
私は今の社会は、岡本太郎さんがその言葉を仰ったつい最近の時代の、
爆発したままを放って置いてしまった状態。あるべきものが散らかって、なくすべきものをいつまでも寄せ集める、いわゆる形のない時代だとよくよく感じます。

街を歩いても、テレビをつけても、パソコンを開いても、
流れている広告のように秒感覚でふっと消えてしまう。
芸術は数を作ってはじめて学べると、
芸術家さえも持ちきれない沢山の芸術を作っても、その一つ一つに思慮深く気さえ配れず、腕から零れた落ちた芸術はいつかは塵になってしまう。けれど、それが一般的であって、昔ながらの方法であるからと。
世の中は忙しすぎて、像が絵を描いたら驚くのに、人が描いても驚かないように、自身が変わってしまったことにも気づかない。
失敗とはかけはなれたものになってなってしまうのです。

矛盾は一歩動くだけでも、何かするたびにできるものですし。
太陽に向かって歩くとできる影のようなもので、特別なことではないと思います。ですが、たまに太陽より大きく立ち塞ぐ影に出会い、
それを壊すのではなく、それとどう付き合うか思慮深く考えた人ほど、
新たな視野が広がっていくのです。なので、新たな視野を手に入れた人ほど、矛盾など眼に入ってないんでしょうね。

何事もそうですが、芸術は受け入れてはじめて芸術になり、
それから思想を問うのは人と接するのと等しいです。
論理であれ、語りたいのに無闇に語ることをやめると、
それこそ現代社会に飲まれてしまった証拠で、
ただ虚しいだけです。
強い片方が喋りつづけ、弱い片方が押し黙る。
いつまでもそんな寂しい関係を続けるのは、
正直、そろそろやめてほしいですね。


きっと第三者から見た、今の私の作品たちの多くは、
現代アートに影響されているかもしれません。
ですが、たとえそうだとしても、これも経験です。
自分の中に取り込んで、これから描こうと思う作品ために
備えたいと思います。


結局のところ、質問の答えにはなっていないかもしれませんが・・・
長々と失礼しました。
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おっしゃる通りと思いますが作家がみんな感性のままにやってるとは思えません。


それは雑誌と言うか俗論がおかしいだけでしょう。
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>矛盾に挑んでこそ、現代の芸術家ではないのか?


その問題に挑んでる人はちゃんといると思いますが、作品に表れていないか怖くてできないか色々な問題があるんだと思います。
わからないのもいますが、大体芸術家には二種類いますよね、モダニストとアヴァンギャルドで。
モダニストというのは人に好かれることをやるようないってみれば芸術屋さんでしょう。アヴァンギャルドは時代と対決する芸術家。
アヴァンギャルドになるのは中々難しいことなんですよ、本質的な問題を掴み取り、その上で本当に新しい形式でその問題作品を提出しなければならないので。
まず技術を追って過去の形式ばかりみていたら当然本質などつかめるわけがない。鋭敏であり、自分にも他人にも遠慮しないことが条件です。

>芸術を論理的に語ることは愚行とされてしまうのか?
これはおそらく保身のためだと思いますね。
本質を一人のアヴァンギャルドに突かれたら、一気に権威は崩れ去る。
今までもやっぱりそうだったんですが、時の権力者というのはいつでも権威を守ろうとする、だから一般に芸術がこうだというのを開放されると枠を作っているひとたちにはまずいことなのでしょう。
やっぱり権力者に大勢の人は従うので、そんなんが一般に「ああそういうものなんだ」くらいに受け止められて枠ができるという具合じゃないですかね。
たいていアヴァンギャルドは生きてるとき認められないです、権力者が押さえ込むんで。
それで死んだあとに注目されるパターンが非常に多いですね。
それで今度はそれを時代に合わせるようにして流行の大移動が始まるわけなんです。

>こんな世の中の状況の中、現代の芸術家は何を目的に絵を描いているのかも教えていただきたい。
おそらくほとんどが本質的な問題を含んでいないうわべだけの形式主義。最近はコンプチュアルな謎解きみたいなアートが流行みたいですね。あとはただ人を夢気分にさせ、楽しませるような浮かれた装飾主義じゃないですかね。装飾は人に好かれるんで都合がいいんです。
ごくわずかな芸術家が本質をつかもうとしたりして大変悩んでおられることでしょう。

私は一般人ですが、芸術のルールをそんなに知らないのでこんな物言いができるんです。でも芸術なんてそんなものなんじゃないでしょうか。

ちなみに私が日本でもっとも本質をついていたと思う芸術家は岡本太郎だったと思いますね。
太郎さんは死んでますが、書籍の中で今なお色あせることがない本質的な問題をついていると思います。古いところもありますが基本的にまだ生きてますね。
ほかに横尾忠則さんなんかも日本のアヴァンギャルドです。
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現代美術はまずコンセプトありきの創作工程なので論理的でないという


ことはないですね。こういう風に見せたい、こういう効果を狙った、
こういう意図を持った、こういうテクノロジーを使ったというもの
は大体ははっきり謳っていますから質問文を読んでなんとなくですが
違和感を感じましたし、感性で見るか、そのコンセプトを多角的に
見るかは人それぞれだと思います。が、ソレが最も重要なことかと
問われたらどうだろうねとか、別に、と言わざる得ない気がします。
愚行だというのはそういうことではないでしょうか。
そのように見るなと言ってないと思います。
私は絵を描くのも見るのも好きなので行為そのものが目的な気がします。
つまり、描きたいから描いた、見てもらいたいから発表した、ですね。
なんで描きたかったの?ってきかれたら好きだからとか楽しいからかな。

目的や大きな意味がはっきりしないのは哲学上の問題ではないかと
思います。例えば、「アナタはなんのために生きていますか?」とか
「アナタをアナタ足らしめるものは一体なんですか?」とか
「人間とはどういう存在ですか」と問われて明確な答えを現在答え
られる人ははっきり言っていないと思います。実存主義以前の哲学での
主流といえる考え方は真理とか本質というゴールに向かって突き進む
ものという性質のものでしたし、宗教的な縛りや封建的な制度上の
問題で片付けられていたと思います。
以後では本質に先立って現実に存在している私が他者と入れ替わる
ことの出来ない私の人生を生きて死ぬという一種の自由の刑を受けている
というものに変わりますし、それをよりよい人生として充実させていくか
が課題となっています。実際こちらのほうが私達の考えに合ってきて
いるのではないかと思います。(この辺がデリケートな問題ですが)

芸術は人間の営みの反映の産物であって哲学と切り離して考えること
は難しいかと思います。そして前出の質問の「アナタ」とか「人間」を
「芸術」に置き換えると芸術の意味とは?といわても様々な作品その
ものと捉えられて一個に集約するのは難しい問題になってきます。
つまり私の考える芸術とは他の人が考えた芸術と入れ替える
ことが出来ない唯一無二の存在というわけです。
ここで初めて「感性」やら「個性」という言葉が重要になって
くるわけです。
で、一個で集約できるものではないということは他の価値の芸術も存在
するわけですが、そのほかとの芸術と共に影響し発展していく為には
自由だけでは済まされない問題に直面するわけです。
人間と同じわけですから知らん振りするわけにはいきません。
許容範囲がないというのはありえません。実際私達は想像の出来ない
ことを表現することは出来ないのですから許容範囲はあるはずです。
現時点で不可能であることも山のようにあります。
それに、作品を生み出した者はその作品に対して責任を負うことを
忘れてはいけません。

要するにどのようなスタンスを取るかですよね差別や弱者を虐げた
ほうが芸術(人間)が発展すると思ってるならぜひそうすべきですが、
発展しないと分かった時点でソレは主流になりえるはずはありませんし、
反主流になることもありえません。生み出されても消えていくだけです。
人類の歴史の観点からいえば人間はより自由により善い環境を求めて
発展していると考えるならばその考えは無理があるのかもしれません。
差別のある世界で差別される側はのうのうと絵を描いたり音楽聴いたり
作ったり出来そうもありませんし。はっきり言って弊害です。
現在はそのような考えが支配的ではないでしょうか。
(ですが将来どのようなことになるかは分かりませんね。
 戦争を賛美する作品が過去にあったりプロパガンダに使用される危険
 は常にあります。)

質問中にこのような文章がありましたが・・・
>シュトックハウゼンが、同時多発テロは「最高の音楽だ」と言った
 ことに対して世界的な非難が上がったのか?
芸術は肯定的な意見がもらえればそれでいいのでしょうか。自由とは
なにものにも否定されないことなんでしょうか。
そんなバカなことはあるはずはないと思います。作品には責任が伴い
ますからもし同時多発テロが芸術作品であるなら、全てを元に戻す
ことが可能であるなら芸術として認めるべきですが出来ていない時点で
芸術作品としては大きな欠陥があると思います。
大きなインスタレーションを展開する場合展示期間が終れば元に戻して
返すべきですし、音楽フェスも期間が終れば現状に戻して片付けます。
その際に発生した責任は開催に関係した人に降りかかります。

第一テロがよりよい充実した人生になにかプラスになるようでも
今のところありませんしね。 性質が社会の病巣を表した現象
だったために現代美術の手法と共通点が少なからずあったという
だけです。
そのために先の発言につながり批難に至ったのではないでしょうか。

>エロスやエコや可愛らしさや自己表現が上手く表現できている芸術
ばかりが評価され、しかも、そのことに多くの人は矛盾を感じないのか?

コレは簡単な質問です。流行だから。よくある手法だから。
矛盾は感じている人ばかりですよ、さすがに。

しかしそれ以上に気になるのは評価の点です。評価されないと
意味がないのかな・・・。自己表現は当然だろうに・・・。
まあそれは置いときましょう。

>これらの矛盾に挑んでいる芸術家がいるのならば、教えていただきたい

挑んでいるわけではないでしょうが有名な小説家スティーブン・キング
はこう言っています。「私は小説家にならなかったら殺人鬼になって
いただろう、私は運がいい。」つまりインモラルな妄想に悩まされて
自己を守る方法としてペイパーバックのようなホラー小説を描き
インモラルな妄想を表現しつづけてい自己を保っているわけです。

そのほかにもマリリン・マンソンの詞の世界や舞台演出はパンクや
ノイズミュージックやブラックメタルの手法と黒魔術とインモラルな
妄想や社会不安を掻き立てる内容を表現していますし、PVでは
ヒトラーの演説のような演出をして批難を浴びましたし、キリスト教
信者からはコンサートの自粛を言われたこともあります。

古くからビート詩人やヒッピーは反社会的でしたし、色々調べてみれば
アナタが満足するような表現をしている芸術家や音楽家はいると思います
意外と有名なものだったり、なんでもない表現がインモラルな妄想の産物
だったりするわけです。分かり易くでなければゴマンとあると思います。
ただ気づかないようにしてオブラートにくるんだり冗談めかしたり
していることが多いかも知れませんが、それが処世術ってやつです。
バカみたいに批難されるやり方だけが芸術ではありませんし、
評価のされ方もサブカルチャーとして扱われることで成功を収めている
場合もあります。日本で有名な人は知りませんが一昔前なら
寺山修司は家出のススメか書を捨てよ町へ出ようで悪徳のススメという
コラムのような書き物が残っています。アウトローの気持ちで
物事を見ようという感じのものですが、当然と思っていたものを
逆さに考えようという趣旨のものです。参考まで















 
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どこかで読んだ事ある口調だなと思ったら、貴方でしたか。


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3668862.html

自由を盾に口調を悪くして、人を不愉快にする確信犯のというか・・・
ぶっちゃげ地雷っぽいのですが、あえて踏んでみます。


>例えば、差別を推奨する意味を持ってる芸術があったとしよう。
>お目にかかれないということは評価されていないのである。
>芸術は自由な感性ではなかったのか?
その通り、芸術は自由です。
ですから、「差別推奨」の作品を発表しても問題ありません。何が問題ないかと言うと、その作品を発表する事で起訴・逮捕される事は無いと言うことです。

>シュトックハウゼンが、同時多発テロは「最高の音楽だ」と言ったこ
>とに対して世界的な非難が上がったのか?
これも同じ事で、芸術は自由ですので、彼の発言により逮捕される事はなかったですよね。

彼は批判を受けたらしいですが、世間の批判もおかしなことではありません。
彼の言動は「自由」です。それを批判する事も「自由」ですから。



>「エロ」に関するものばかりなのは何故なのか?
先の文章では「自由」を誇張した文章でしたが、自由にも限度があります。性的に問題のある作品は児童ポルノ法で処罰されますし、他人の作品を盗めば著作権違法になります。

エロが多いのは、需要が多い。そして、「法的な規制が多い」のも原因かと思います。


「差別推奨!差別があったほうが世の中上手く良く!」というプラカードを持ち、街を歩いても逮捕されませんが、全裸になって街を歩いたら陳列罪で逮捕されます。表現の自由を称し、100人で全裸になった藝術家集団もいましたね。(逮捕されました。)

>本当に、タブーを破ろうというのならば、
>差別万歳、弱者侮蔑をマジで主題とした芸術があってもいい。
>「エロ」は現代では「許容範囲内のタブー」なのである。
全く逆です。「差別推奨」「弱者蔑視」のタブーは許容範囲です。

「差別推奨」「弱者蔑視」は、思想の自由により認められています。そのような主張を言っても、逮捕される事はないでしょう。しかし、全裸で街を歩くことは認められていません。

つまり、「差別推奨や弱者蔑視は、芸術的観点で見て、タブーに挑戦している事にはならない」という事もいえます。


>芸術は感性だというのならばいかにその芸術が最低な意味を持っていようとも、
>認めなければいけない。
何度も言いますが精神の自由により、そのような思想も認められています。

貴方は「認められる事」と「評価される事」をごっちゃにしているようですが、「差別推奨」「弱者蔑視」を評価する・しないも自由です。

現状は、「差別推奨や弱者蔑視は、評価(共感)できない」と言う、精神の自由を遂行しているものが大多数だから、評価されていないだけです。しかし、認められてはいます。そのような主張を言っても、逮捕されませんから。



追記
自由・自由と連呼しましたが、本当は表現に自由はあまりありません。この質問サイトですら、言葉の表現が悪ければ削除対象になります。
商業的に作品を発表する場合は、もっと表現に制約がかかります。

貴方は、学生さんらしいですね。
確信犯臭いので、「表現の自由」「精神・言論・思想の自由」といいつつ、あまり自由がない事も分かっているかも知れませんが・・・。
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