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学校のレポートでガマについて調べています。
沖縄戦のとき、人々はみな南へ逃げたと言っていますが
なぜ南へ逃げたのですか?


南部の方に壕がたくさんあるから、というのはなんとなくわかるのですが
自然に出来た洞窟・鍾乳洞は
北部には壕が全くなかったのでしょうか?
もしそうだとしたら、これは何かしら北部と南部において地形の特徴があるのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

沖縄方面の守備を担当していたのは第32軍(軍団)です。


米軍は、沖縄本島を南北に分断するような上陸作戦を決行しました。
その後、敗色濃厚となった第32軍の司令部(首里にありました)は、
指揮能力を保持するため、南部に移転をしたのです。
また、地形的に南部の方が守備し易いとの判断も事実でしょう。

この事は、沖縄守備の作戦計画に当初から想定されていたものらしく、
軍令により、民間人は北部への移動を命ぜられていたようです。
しかし、その軍令は徹底されず、祖先からの繋がりのある土地を離れる
事に抵抗感があったのではと考えられます。
また、軍隊と同行している方が安全であると判断した島民も多かったと
の記録や文献があります。

結果的に、最後まで組織抵抗を試みた南部での被害が増大したのです。
一方で、大本営(日本軍)にとっての最重要防衛拠点は、台湾にあった
ことも事由の一つだと思います。
事前に徹底した沖縄防御が計画されていれば、島民の被害は更に大きく
サイパンなどと同様に「玉砕」となっていたでしょう。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84% …
の「北部の戦い」から下を読むと、北部は早期に米軍に占拠されたようです。

北部に居た民間人は、ガマに逃げ込む暇もなく、米軍の管理下に置かれたようです。

南部では、民間人は、指揮系統が崩壊し離散した日本の軍人と行動していた為、捕虜として投降する事が出来ずにガマなどに立て篭もった為、日本の軍人と一緒にガマの中で自決するか、日本の軍人と一緒にガマの中で米軍の火炎放射器で焼き殺されました。
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