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広さに関して、中国では、郡>県なのに、日本では 県>郡 です。これはなぜなのでしょうか?日本が中国の制度を真似たと習いましたが、いつの時代に逆になったのでしょうか?

A 回答 (2件)

日本の政治のお手本はご指摘の如く、隋・唐の頃からで、現在の中国ではありません。



で、郡や、県もこの頃伝えられたもので、逆転については知りませんが、地方の下っ端役人が知った被りで書いたのが定着したんじゃないでしょうかね。
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この回答へのお礼

日本は隋・唐から導入した時から変わっておらず、中国のほうが変わったということですか?
ありがとうございました!

お礼日時:2008/12/03 20:10

郡とは軍である。


秦の時代に一つの軍を作れる単位をもって郡としました。郡の下の単位が県。郡も県も中央政府の直轄地で、全国を直轄地にするというのが郡県制度。早急な中央集権制度が破綻したので、漢では地方分権制度(秦の前の制度)を混ぜ合わせて、郡国政度にした。国には王様がいたわけです。
唐の時代は郡県制度(郡が州と呼ばれたりもしました)
日本に導入したときは 国造が大きめで県主が西日本に多く小さめ、中央への忠誠度が高かった。これらが整理されて 国=郡 という制度に落ち着いた。県はいったん消えたわけです。

で、明治維新の時に廃藩置県を行った。
中央集権の中央から行政官が派遣されるという意味でいったん、藩をすべて県にしたわけです。(主な天領は府だったりする)郡はそれまでの区域として残っていた。まぁ千年以上呼称として残っていたわけですから変更するのは抵抗があったのでしょう。
県の方は、使っていなかった用語なので、その時の政治状況で変わった、つまり県が合併していき昔の国の領域に統合された。
この結果 県の方が郡よりも大きくなったわけです。
廃藩置県の瞬間には大きさ的には 国 > 郡 > 県 のところもあれば 国<県のところもあった
例 1871年(明治4年) 廃藩置県により薩摩、大隅、日向の3ヶ国のうち薩摩藩の範囲で鹿児島県が成立。同年11月14日(新暦12月25日)に日向と大隅のうち本土部分を分離し都城県とした。(WIKIPEDIA鹿児島県より)

以上より逆になったのは明治維新直後の廃藩置県の頃となります。
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