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今日、新千歳空港でアイヌの工芸品を買い求めました。この機会に今までずうっと胸に引っかかっていた疑問について質問させてください。
大和(ヤマト)朝廷の原型はヤマタイ国でそれは今の大和地方の三輪山のふもと、桜井辺りだったと考えられています。元々は宮崎の高天原に流れ着いた朝鮮民族だったのでしょう。つまり、縄文時代の人々は大陸から来た弥生土器を作った人々により徐々に征服されし隷属するか土地を追われたということでしょう。ヤマタイの頃には旧支配階級の大物主命(大国主命)は出雲にあって殺されるのですが、一族の残党は日本海を北上して逃げ延び、秋田や青森、北海道で生き延びたのではないでしょうか。そうすると、平泉の頃の安倍氏や清原氏、あるいは安藤氏と出雲の末裔との関係についてどう考えますか?そして・・・縄文人と蝦夷(えみし)、そしてアイヌとは深く関わっているように思うのですがどうでしょうか?もっと言えば。縄文人の末裔として色濃く特徴を残しているのは北の最果てアイヌ民族と南の最果て沖縄民族であり、したがって両者は人種としてかなり共通点を持つのではないかと思うのですがどうでしょうか?もちろん、鎌倉時代以降のさまざまな混血要因を棚上げにして考えた場合です。

A 回答 (6件)

まず、縄文人=蝦夷=出雲ですが、これはアイヌとは違います。


縄文人は出雲族で、大和に敗れ東国に逃れ蝦夷になりました。
そこには原住民アイヌがいました。
縄文人がアイヌとどのような関係を持ったかはわかりませんが、
アイヌも蝦夷の一部に加わったかもしれません。

>一族の残党は日本海を北上して逃げ延び、秋田や青森、北海道で生き延びたのではないでしょうか。
そうだと思います。ただし北海道には南部の渡島半島を除き、到達していません。

>そうすると、平泉の頃の安倍氏や清原氏、あるいは安藤氏と出雲の末裔との関係についてどう考えますか?
安倍氏や清原氏、安藤氏は出雲族の末裔でしょう。

ともかく、アイヌ≠縄文人です。
なお、縄文人はズーズー弁を話していました。
現在、ズーズー弁はかつての彼らの本拠地、出雲や
蝦夷の本場、東北で話されています。
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NO.3です。


とても興味のある質問なので回答がつくのを楽しみにしていました♪

kiroranさまの回答、とても面白く拝読させていただきました。

>方言から出雲と東北が繋がる

『砂の器』は私もよみました。面白かったです。
大物主が鎮座する奈良県桜井市三輪山の近所に出雲という地名があり、気になっていました。
大物主とは物部氏の祖神のニギハヤヒのことだと私は考えていますが
出雲族と物部氏は繋がりがあるのではないかと思ったりします。
もっとも地名の由来など詳しく調べていないので断定はできないのですが。

>東日本が蕎麦好きなのに対し、西日本ではうどんが主流派と言われているのに、なぜだか出雲は蕎麦好きだそうです。
>地理的に離れているものの言葉や食生活から、出雲と東北はやはり繋がりが感じられます

三輪山の名物といえば三輪素麺ですが、三輪山の近所にある笠荒神の近所は一面蕎麦畑になっており、秋には白い絨毯を敷き詰めたように花が咲きます。
この地方での蕎麦栽培がいつから行われているのかは調べていないのですが
この土地が蕎麦栽培に適した土壌であるとは言えるのでは、と思いました。

>牡鹿の群れ、牝鹿の群れが二つに分かれ空を走り去っていく”
>このような表現はユカラには度々出てきます。

記紀神話でも鹿は登場しますね。
仁徳天皇紀にトガノの鹿という物語があり
雄鹿は雌鹿に「全身に霜がおりる夢をみた」というと
雌鹿は「霜だと思ったのは実は塩であなたは殺されて塩漬けにされているのです」と偽った夢占いをした。
すると翌朝、雄鹿は本当に殺されて死んでしまったそうです。

本のタイトルは忘れましたが、「昔謀反の罪で殺された人は塩漬けにされることがあった、鹿は謀反人の象徴である」と言う趣旨の文章を読んだ記憶があります。
ユカラでいう鹿も謀反人を意味しているのかもしれません。

>私は少なくとも縄文時代の日本列島には、アイヌ語が広範囲で行き渡っていたと考えています

私はこの意見に賛成です。

http://www.dai3gen.net/izumo3.htm

上記によれば、アイヌでは、疱瘡(天然痘)を pa と言い、「年、季節」なども同様にpaというとあります。
つまり、疫神と年神は同一神ではないかとおっしゃっています。

記紀神話に登場するスサノオは疫神として信仰されていました。
(現在では厄除の神となっていますが、もともとは疫病をもたらす神で
「疫病を流行らせないで下さい」とお祈りするうちに
神格が180度変わって厄除の神となったようです。)

神の世界においては神の分霊(化身)を「子」と記しているとする説があり、
だとすれば、スサノオと年神は同一神となり、アイヌ語と合致します。

質問者さまやkiroranさまの文章を読んでいるうちに
アイヌの文化について勉強したくなってきました。
いろいろと興味深い話をありがとうございます。
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この回答へのお礼

明けましておめでとうございます。御回答有難うございます。祖父江孝男氏の「県民性」という本の中に日本語の方言分布があり、津軽方言が島根県雲伯地方の方言と同一性があると書かれています。これは北前船の往来だけでは説明できない話でしょう。14世紀の福井県羽賀寺(勅願寺)縁起に「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ、奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス」とあるように海上交易での両地域の関わりは浅からぬものがあったとしてもです。私は・・・大和にあった旧勢力(縄文からの系譜を持つ大物主=物部氏系)が神武の東征(鉄製の武器)により大和を追われ、出雲に敗走したのかなと思います。ニューヨークがイギリスのヨークから名づけられているように、出雲の地名は大和の出雲から来ているではないでしょうか。結局、そこも追われた・・もう先は海
・・・大物主の息子の一人は越の国、つまり、新潟で殺されていますが
生死をかけた逃亡劇ではさらに沿岸を北上した可能性は十分あるでしょう。もともと、大和を仕切っていた一族ですから、北の未開の文化の地においては抜群のリーダーシップを発揮できたでしょうし、その地に色濃く影響を及ぼしたことは想像に難くありません。明治期に政府がアイヌに対し土人として言葉や名前まで同化政策を強行しましたが、古にそのようなことがあったとしても不思議ではありませんし。
北京オリンピックの柔道重量級に出場した泉浩選手。彼は青森県大間出身です。本州の袋小路のもっとも奥。下北半島には興部(おこっぺ)、老部(おいっぺ)などアイヌ由来の地名が数多く存在します。泉選手の二重で毛深くて濃い顔をした風貌にアイヌそっくりだな、いや縄文人そのものだと言った友人の言葉が印象的でした。貴兄の投稿を楽しみにしております。

お礼日時:2009/01/02 15:38

皆さん古代史に博識なので、私がここに参加すると落書きのようで気が引けますが、子供の頃に古事記を読んで(もちろん子供向けですが)大国主命は国譲り後、何処へ行ってしまったのだろうと思っていました。




原作はまだ読んでいないのですが、数年前テレビドラマで松本清張さんの『砂の器』をやっていました。(すみません、細かいことは良く覚えていません。)
駅の操車場で起きた殺人事件を調べていくうちに、被害者と加害者と覚しき人物の間でやりとりされた会話から浮かんだ謎を解く鍵。
それが東北訛りと、「カメダは変わりないですか?」という言葉。
当初「カメダ」という人物を割り出そうとしたものの捜査は難航。
試行錯誤の末「カメダ」は人物名ではなく、秋田にある地名「亀田」ではないかとの推測を立て捜査を進めるも、またもや捜査は行き詰まります。
そんな中で、一筋の光明が。
――島根県の中で“出雲地方に東北弁に似た方言がある”ことがわかったのでした。
(そして島根にも「カメダ」に似た地名があることも)
方言から出雲と東北が繋がる…とても興味深い一場面でした。
また、出雲弁は島根だけではなく岡山の一部でも使われているというのも更に謎です。

番組では日本地図を方言で色分けしたもので分かりやすく説明していましたが、まるで取り残されたかのように、出雲地方だけぽつんと東北訛りに分類されていました。
(ちなみに関東でも茨城は同様に東北訛りになっていました。)
ある地域だけ言葉が独立しているなんて何とも不思議です。
大国主の国譲りとつい重ねて見てしまいます。
出雲の残党が言葉と一緒に東北へ落ち延びたのかしらなどと想像してしまいます。

また今回、出雲のことを調べていくうちに分かったことがあります。
東日本が蕎麦好きなのに対し、西日本ではうどんが主流派と言われているのに、なぜだか出雲は蕎麦好きだそうです。
小麦もそばも縄文、弥生時代に日本に伝来していたということですが、殊にうどんが人気を集めたのは江戸中期の上方(関西地方)だそうです。
地理的にいって西日本の出雲で伝統的に蕎麦が食されているのは不思議です。
地理的に離れているものの言葉や食生活から、出雲と東北はやはり繋がりが感じられます。(出雲と東北で検索すると興味深い話がたくさん出てきます。)


出雲や大国主から離れてしまいますが、十和田湖の女神の伝説で有名な『赤神と黒神のけんか』は物語全体を包む雰囲気がどことなくアイヌの口承文芸のユカラと似ています。
http://www10.plala.or.jp/kasuga3/museum/hp-24.htm
(私からみれば、スサノオのヤマタノオロチ退治も含めヤマトタケル以前の神話とユカラは似ているように思えます。神通力を持った英雄の物語だからと言われれば確かにそうなんですが…。)
この物語では十和田湖の女神を娶るため赤神と黒神が闘うのですが、その戦いを観戦する神々の様子や、殊に二柱の神の戦いに巻き込まれて、牡鹿の群れ、牝鹿の群れが二つに分かれ空を走り去っていく描写がユカラと似ていると思います。

“牡鹿の群れ、牝鹿の群れが二つに分かれ空を走り去っていく”
このような表現はユカラには度々出てきます。
知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』の中で紹介されている物語、――小オキキリムイが自ら歌った謡「この砂赤い赤い」――では、魚を根絶やしにしようとした悪魔の子を少年オキクルミ(小オキキリムイ)が諫めます。これに腹を立てた悪魔の子が今度は鹿を根絶やしにしようとつむじかぜを起こし、空に舞上げられた鹿達はそれぞれ牡鹿の群れ、牝鹿の群れに分けられてやはり天空を昇っていきます。
〈ユカラでは鹿や魚は、鹿を司る神(ユクコロカムイ)、魚を司る神(チェプコロカムイ)によって空から下界におろされるシーンも度々出て来ます。このように鹿は神の手によって空と大地を行き来したりします。〉

『赤神と黒神のけんか』の物語の終盤で黒神に赤神は敗れるのですが、その赤神を追って十和田湖の女神は男鹿半島へ去っていてしまいます。
このことで落胆した黒神の深い溜息で津軽と蝦夷は離れてしまい、今の津軽海峡ができたというところで物語は終わります。
このことも唯単に地理的なことを言い表しているとは思い難く、津軽から蝦夷へ渡っていった(もしくは追われていった)人達のことを暗示した物語のようにも思えてしまいます。
赤神は前漢の武帝(孝武皇帝)であるとの伝承があり、なまはげと縁があったり、古代の東北は異民族、異文化の交流が盛んであった事が窺われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_ …


ご質問には殆ど答えられていませんが、奥州平泉の藤原氏は予てから蝦夷の血を引く氏族だったのでははないかとの見方がありましたが、残された遺体のDNA鑑定から否定されたという(和人との見方)記事を見たことがあります。
しかし、遺伝子解析の進んだ昨今、母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める事が可能になりました。
首都圏では弥生系が約7割と多数派で、東北や南九州など縄文社会が発達した地域では縄文系が7~6割とこちらも多いそうです。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080804/trd08 …

遺伝子の解析から関西は弥生系、そして沖縄、アイヌは縄文の直系と言われています。
古代の沖縄の民とアイヌは近縁である事も分かってきました。
また、アイヌ文化の母体となった擦紋文化が縄文文化の流れを汲んでいる事も明らかです。
上記のサイトだと北海道のデーターが載っていないのが残念ですが、沖縄は遺伝子解析でも縄文系の割合が96%と最高になっています。


私は少なくとも縄文時代の日本列島には、アイヌ語が広範囲で行き渡っていたと考えています。
東北に多く見られる「~内、~別」という地名はアイヌ語「ナイ=沢、ペツ=川」に対応しますし、遥か離れた種子島の「タネ」はアイヌ語で“細長い”を意味します。
巫術を行う青森のイタコも沖縄のユタも語源はアイヌ語の「イタク」(この場合は託宣を)“言う、話す”から来ていると言われています。
また、魂を表すアイヌ語に「ラマッ」と言う言葉があります。
もう20年以上前になりますが私は、記紀の時代から謎とされてきた「皇尊らまと」のように表現される「らまと」がアイヌ語の「ラマッ(魂)」に対応させると意味が通じるという記事を読みました。

そこでは他にも霊を表すアイヌ語は日本語と良く対応することが指摘されていました。
カムイ(神)、タマ(魂)、ピト(半神半人の霊能力者、人物の敬称)、イノッ(魂〈命と関連があるとの見方がある〉)などです。
以前からカムイは日本語の神の借用語だとされてきましたが、元々アイヌ語には霊を表す言葉が十一語あることが分かっています。
このことは今では古書でしか読めませんが、アイヌの信仰を研究なさった藤村久和さんの『アイヌの霊の世界』小学館創造選書で詳しく解説されています。

藤村さんも研究当初は、これらの言葉をこれまでの慣例通り日本語からの移入と考えていたそうですが、梅原猛さんから日本語とするのはまずいのではないかと指摘を受け、考えを改めたと自著に記しています。
古代のアイヌは自然=神々を敬ってきましたし、私も古来からの信仰と関連する大切な言葉が借用語だとは受け入れ難く思います。
これらの言葉はアイヌ語から日本語へと流れていったと見た方が自然だと思います。


長々と文章を書いてしまい上手くまとめることが出来ませんでしたが、質問者さん、回答者さんの大変興味深いお話をここで読ませて頂けて大変参考になりました。
日本列島の古代史がもっと様々な方面から研究されて行くのを期待しています。
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この回答へのお礼

明けましておめでとうございます。御回答有難うございました。国譲りのあと、大国主はどこに行ったのか・・・。梅原先生の本を読むと、禊について、元来は水で行っていた神事を海水で行わざるを得なくなったという話が出てきます。それが現在の清めの塩につながっていると・・。なぜ、真水から海水にならざるを得なくなったのか・・それは大和という内陸の「国」を譲って(東征に敗れて敗走し)、日本海に面した島根県出雲に隠れ住んだからではないかと思うのです。青森県内には平家の落武者伝説のある集落がいくつかあります。八戸市南郷島守地区、十和田市梅集落・・これらに共通しているのは、その地区の支配勢力の及びにくい山を越えた、さらに山あいにあるということです。今でも奈良から島根の出雲に行くには大変な時間がかかります。当時はさらに大変だったことでしょう。出雲族と呼ばれた人々はその新天地で何から何まで新しい生活習慣を作り上げざるを得なかったことでしょう。国譲りを我がことに置き換えればそんな想像が湧いてきます。
話は変りますが、南東北まで行くとどうなのかは知りませんが、青森県内には三内丸山遺跡をはじめ、ほとんどと言っていいぐらい、ご指摘のアイヌ語由来の地名に満ちています。江戸期の津軽半島北部の住宅地図?を見ると、はっきり沿岸部に「戎」という表記があります。その時代には、和人とアイヌとはちょっと生活様式に差異が明確になっていたようです。和人であるのか、そうでないのか・・。アイヌはまとまって
海産物や狩猟で得たものを和人と交換して生活していたようです。赤神と黒神のけんかのようにある紛争を期に蝦夷地(北海道)に渡ったアイヌもいることでしょう。しかし、和人に都合の良いさまざまな諸法度が整備されてくるにしたがってアイヌが住みにくくなったのは事実でしょうし、その結果松前藩しかなく統治が完全はない蝦夷地に少しずつ移っていたと考えるのは自然でしょうね・・。十三湊が大津波で一夜にして滅びたのでなく、岩木川河口に砂が堆積して大型船が停泊できなくなったために秋田土崎港にとって代わられたのが衰退の真の原因であるように・・。そういえば・・松前藩のルーツは南部氏の家臣蠣崎蔵人という説の他に十三の安藤氏という説もありますね・・。そうではなくて、安藤氏は秋田氏であり、福島三春に行ったという説もありますが・・。また楽しい話をお聞かせください!

お礼日時:2009/01/02 16:25

>大和(ヤマト)朝廷の原型はヤマタイ国でそれは今の大和地方の三輪山のふもと、桜井辺りだったと考えられています。



九州説もありますが、私はそのとおりであると考えています。
というのは魏志倭人伝に記された内容は、記紀に記された崇神天皇記と合致すると思うからです。
すなわち崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼。
籠神社の系図によると、始祖の彦火明命の9代目の孫に「日女命(ひめのみこと)」とあり、
その脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
また『日本書紀』は「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」と記しており
籠神社の系図にある「神大市姫命」の「大市」と一致します。

http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai08.html

魏志倭人伝では邪馬台国の王はもと男王だった、と記されていますが
これが大物主命のことだろうと私は考えています。

>元々は宮崎の高天原に流れ着いた朝鮮民族だったのでしょう。

記紀の記述によれば、初代神武天皇はもとは日向にいたがあまりに国の端であるために東征を決意します。
その際、神武は「東にはニギハヤヒが天の磐船を操ってすでに天下っている」と発言しています。

ニギハヤヒは正式名称を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) とあり
籠神社の系図にある「彦天火明」と同一視されています。

また大物主命は倭大物主櫛甕玉命という別名もあり
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と櫛・玉が一致するところから同一神ではないかと言う説もあります。

ここから、神武以前に畿内に王朝があったと考えられます。
ニギハヤヒは物部氏の祖神とされていますから、その王朝は物部王朝であったという説があります。

つまり日向にいた神武は、東征して物部王朝のある畿内に入り、物部王朝を征服した。
一部の物部氏は北へ逃亡し、一部の物部氏は神武に服して仕えたと思われます。
この物部王朝が邪馬台国ではないか。
神武はもともとあった政権を滅ぼすのではなく、自分に従わせる形で政権をとったのではないかと
私は考えています

>ヤマタイの頃には旧支配階級の大物主命(大国主命)は出雲にあって殺されるのですが、一族の残党は日本海を北上して逃げ延び、秋田や青森、北海道で生き延びたのではないでしょうか。

神武が東征して畿内にやってきたとき、ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコという者が神武に闘いを挑んでいます。
ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に服したと記されています。

このナガスネヒコにはアビヒコという兄がいて、東北に逃れたということが
「東日流外三郡誌」に記されているそうです。
そしてこのアビヒコが安部氏の祖であるとされているようです。

>そうすると、平泉の頃の安倍氏や清原氏、あるいは安藤氏と出雲の末裔との関係についてどう考えますか?

出雲大社の大国主命については梅原猛氏が、大神神社の大物主が出雲へ追放されたものではないかとしておられます。
出雲には古くから文化が栄えていたと考えられる形跡もあり、その文化との関係も考慮する必要があると思いますが、私は梅原氏の説は支持できるものと考えます。
しかし、安倍氏や清原氏については東北へ逃れたアビヒコの子孫であると考えられ、蝦夷とは神武東征以前に
畿内に住んでいた民族のことだと思います。

>もっと言えば。縄文人の末裔として色濃く特徴を残しているのは北の最果てアイヌ民族と南の最果て沖縄民族であり、したがって両者は人種としてかなり共通点を持つのではないかと思うのですがどうでしょうか?

私はこの意見に賛成です。
今後、さらに多方面からの研究がすすめられることを期待します。
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この回答へのお礼

私の愚考への丁寧なご回答に感激いたしております。心から御礼申し上げます。「梅原氏は歴史は情念で見よ!」とおっしゃったそうですが、固定観念や机上で組み立てた理論には落とし穴がある場合があります。つまり、自分自身がその時代に生きていたならどう行動しただろうかという感覚が極めて大切だと私も思います。理屈ではないんですよね。青森県下北半島にあるむつ市田名部地区には紀伊の熊野本殿でとっくに滅んだ熊野権現舞が現在も脈々と息づいています。このことは、下北半島が地理的に本州の袋小路であることと無関係ではないでしょう。なべ底に一番濃い具が残るように、うわ汁はどんどんなくなっても最後の最後まで痕跡が残される条件があったという事です。そういうことを考えてみると縄文人と蝦夷、そしてアイヌ民族、そしてアイヌ文化との関係にもいろいろなイメージが膨らんでくるのです。まつろわぬ民・・・そして大陸との距離や海流の関係で上陸先が関西に多かったこと、中央政府の支配が長い間及ばなかったことなどの要因も気になります。青森県東北町にある巨石「日本中央の碑」、ひのもと中央の碑のもう一つの日本ひのもと国、これも空想の話ではないように思えるのです。

お礼日時:2008/12/15 00:42

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm
上記は
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480062254/re …
この書籍のまとめのようです。

高天原云々というのは、喜界カルデラの大爆発前の記憶じゃないかな。

朝鮮民族が流れ着いた
→ 日本人も朝鮮人もハッキリしないような時代でないかな弥生時代というのは。高句麗が朝鮮系だったのか中国系だったのかも未確定なほどですから。
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この回答へのお礼

有難うございます。私は神々の流ざんは読みました。だいぶ前はヤマタイの熊本説を支持していました。しかし・・・ことばとは重いものです。ヤマタイ→ヤマト・・これはずしりと重い。梅原氏の慧眼には全く敬服のいたりです。先日の世界ふしぎ発見でも梅原先生の説をなぞるような見解が堂々と展開されていましたし、私はそのことに違和感はありませんでした。私の立場はアイヌを異文化として、真正面から彼らと同じ目線できちんと礼をもって向き合うこと、黒人や白人、インデオ、アボリジニが私達と異文化であると同様にアイヌの人々の文化にもきちんと敬意を払って偏見なく理解しようとする姿勢が肝心だということです。一方で自然な流れとしての歴史を考えた場合、縄文人がどういうふうに「現在」の日本人に関わっているかということについてもじっくり考えてみたいのです。縄文人=アイヌ、これは乱暴な議論でしょう。しかし・・・アイヌ独特の文様と縄文遺跡で発掘される土偶やさまざまな出土品にはどうもアイヌと共通する意匠があるように思えてならないのです。北海道も日本の袋小路だからこそ、一番濃い原日本人の特性がそのまま色濃く残ったのではないかと思えるのです。とはいえ・・青森県内では実は本州アイヌとして、つい最近までアイヌの生活習慣をかなり残した集落があったのを私は知っています。また、ぜひご意見をお寄せください。

お礼日時:2008/12/15 00:29

一応失礼とは思いますが、宮崎(南九州の古墳)からは鉄器は出土しますが青銅器は全く出土しません。

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この回答へのお礼

有難うございます。ポイントはまさにそこです。武器のしての鉄が青銅を制したということ、これがまさに日向から大和への東征の大きな原動力になっているのだと思います。一方で出雲での砂鉄製鉄技術の北上は良く知られています。岩木山の御神体は山そのものであるとともに鉄の塊であるという説もあるほどです。岩木山には安寿と厨子王伝説があります。厨子王のモデルは安倍則任だと言われています。つまり・・・大物主の頃には製鉄がなかったのではないか・・つまり、製鉄技術は大物主が滅びた以降の文化ではないかと思うのです。また、ぜひご意見をください。

お礼日時:2008/12/15 00:17

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