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賤ヶ岳の合戦後、丹羽長秀は秀吉に協力した功により、越前・若狭・加賀南部2郡が与えられ、100万石以上(一説には123万石)といわれる大大名になりました。そこで私の疑問なのですが、この100万石という数値はどこからきているのでしょうか。秀吉の太閤検地によれば、越前は約50万石で若狭は8万5千石、加賀は約35万石です。加賀のうち北部2郡は前田利家の領地ですので、丹羽長秀の領地は南部の江沼・能美2郡で石高は約14万石余になるはずです。(関ヶ原合戦の直前の加賀南部2郡は山口宗永が江沼郡大聖寺6万石余、そして丹羽長重が能美郡小松12万5千石を領地としていました。しかし丹羽長重の12万5千石のうち4万石は加賀北部の石川郡のうち松任城周辺の土地にあたるため、能美郡の石高はその4万石を差し引いた約8万5千石であると考えられます。その6万石と8万5千石を足した約14万5千石が加賀南部2郡の石高になるのではないか。)それらを足すと、50万石(越前)+若狭(8万5千石)+14万5千石(加賀南部2郡)で約73万石になります。仮にその直前まで領有していた近江のうち滋賀・高島2郡(2郡で10~15万石程度か?)を足したとしても80~90万石程度です。小説やドラマ、歴史の本を観ていて疑問に思いました。これらの石高の数値の誤差がでる理由について、説明だきる方教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

越前の石高は太閤検地では45~50万石であり、全体ではどう見ても70万石以下です。


123万石の数字が最初に書かれた本は知りませんが、著者は何等かの根拠によったものでしょう。
先賢の書かれた実高、それも後世江戸末期の最盛実高なら可能性があります。
この場合著者は明治期の人で、石高は当時の正確な値というより、どれ位の大きさかを示すのが目的だったのでしょう。
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pinhole-09  用事で中断し続きです。


100万石というのは、大雑把な数字で大大名という事と思います。   この辺の表現はまあまあ、あたっているでしょう。
長秀は秀吉に宛てて「大国領知の恩遇を賜ったが、ご用に立たず死ぬのはいかにも口惜しい。あとの事はせがれめの器量に従って指図されたい」というような遺書を贈っています。
この大国から来ているのでしょう。
秀吉はせがれの器量不足という事で、親父の所領などを取り上げたのです。
123万石はさらに調査が必要です。
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#1様の数値通りです。


それ以前は貫高制ですので、検地帳を基準に推定しています。
拝領した当時の国と貫高を指していません。

また、江戸時代の実高は含まれていないとは思いますが、
注意すべき点です。
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部分回答のみ。


私は越前出身でよく地元の史跡・博物館巡りを行なってますが、
越前は太閤検地以前は約50万石ですが、太閤検地の結果68万石に変更されています。

この回答への補足

早速回答ありがとうございます。その68万石はおそらく1590年代後半から1600年代初頭にかけての慶長検地の結果だろうと思います。そうすれば、越前68万石、若狭約10万石、加賀約45万石なので南半分で約20万石、近江のうち2郡で10~15万石と仮定すると100万石を超えますので辻褄はあいます。丹羽長秀が死去したのは1585年ですから時代は前後しますが、慶長検地の結果の石高で照らし合わせて領地の規模が100万石以上だったといってるのかもしれませんね。実際の当時(1580年代前半)の領地の規模は80万石前後ぐらいだったのでは?

補足日時:2009/01/04 13:10
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