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『地獄変』の語り手について考えています。この作品は、「堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらっしゃいますまい」の一文に始まり、物語は大殿に「二十年来御奉公」してきた使用人の「私」という人物によって語られています。「・・・ございます」「・・・ございません」「・・・ございました」「・・・ございましょう」という丁寧語を連発させ、それでいて文末を微妙に変化させて単調さを破って行く語りの手法は、芥川龍之介ならではのものだと感じます。作者ならぬ語り手が物語を語り、それを巧みにつづる綴り手(書き手)が存在するとも言えるのかもしれません。
 読み進めると、語り手は芥川龍之介では?と思います。
自身の「芸術と人生」を形象化したもの?
 文学については、ほとんど無知で根拠となる考えができません。
教えてください。

A 回答 (4件)

No.2です。




>この作品は、死者を見舞う役割を果たしている感じもします。

文学作品に正解は無いので、読み手によって、解釈が異なってもいいんですよね。

私の場合、この作品は、超越について芥川が模索していると感じました。
あくまで私の受け取り方です。


極端な悪はその先は善になり、極端な善のその先は悪という理論が、成立するか? とチャレンジしたのかな?とも思えます。



>では、芥川は主人公の良秀に自分を重ね合わせたのでしょうか?

芥川龍之介が、どのような思想を持っていたのか、残念ながら知りません。

いくつかの作品を読んで、死ぬまで極楽 あるいは出口を探してさまよっていたのではないか と思います。


良秀。
彼は憑かれたかのように、だんだん行動に狂気を帯びてくる。
もう 誰も「何をしているのだ」と止めに入るのをためらうぐらいの、圧倒的で崇高な狂気。


狂気も度がすぎれば、神聖なものと捉えられかねない。



芥川龍之介の場合、統合失調症をわずらっていたのではないかといわれています。

統合失調症で思い出すのが、ドストエフスキーの罪と罰に出てくるラスコーリニコフ。

彼は、踏み越えようとした。
踏み越えるというのは、別な言い方をすれば、人間を超越すること。
すなわち神になること。


ラスコーリニコフはこう考えた。
ナポレオンは大量殺人を犯したが、英雄とされる。
ナポレオンは人民に踏み越えたことで、人民に恵みを与え、英雄として賞賛された。


だから誰もが死んでくれと願う金貸しのばあさんを殺せば、自分は英雄として崇拝されるに違いない。
と、ラスコーリニコフは都合のいいように解釈し、殺人を善だとしようとした。


頭痛と混乱の中で、せっつかれるように ある意味使命のように感じ、絶対にやってはならないこと すなわち 人殺しをやった=踏み越えた。
とうとう やった 踏み越えた と思ったが、、、

誤算があり、人々に愛され、高利貸しの老婆にいいように使われていた老婆の妹まで殺してしまった。

もし、このアクシデントが無ければ、彼は苦悩しないで自分は、自分はついに人間を超越した、神になったと思ったのでしょうか。


地獄変では、本来なら、自分の娘を焼き殺す行為は殺人なので、罪人として処刑されるわけですが、一番目の中に入れても痛くない娘を、焼き殺し、その代償として、芸術作品を書き上げようとした、壮絶な芸術家の執念を感じ取り、これはもはや人間の裁ける領域ではない アンタッチャブルなものだ として、人々はそのすさまじさに圧倒され言葉を失い、理解不能なこの現象を、人知では計り知れない何かしら崇高な行為だと捉え、そのことによって人々は敬虔な気分になった としているのではないか と。


果たして人間は本当に実際そうなれるか?
それが芥川龍之介のこの作品のテーマだと思えるのですが、作品でいくら人々の心が厳かな平穏な気分になったと描写できたとしても、現実こんなことが起こったら、とてもじゃないが、敬虔な気持ちになどなれません。

あくまで空想の中でのみ成立する理論。
芥川龍之介は、リアルではそれは駄目だと知っており、だから空想の世界のみにとどめてくれたんじゃないかと。

空想のみにとどめず、本当にやってしまっていたら、芥川賞なんてできず、狂気の末殺人を犯した作家って歴史に残ってしまいます。


彼は理性がブレーキをかけ踏み越えたい衝動をとどめたため、欲望は成就せず、体内に残り苦しかったと思いますが、作品に描くことで、欲望を外に排泄したのではないか と思います。


彼の作品はサディスティックな描写があまりにも多い。
人の残虐性をテーマにしていたんじゃないか とも思いますが、もしかしたら、彼の内に秘めた残虐性が、この世をゆがめて彼に見せていたため、こういうサディスティック 無常の世界を次々発表できたのかもしれない。


彼の作品の主人公は、超越した存在となろうとしていますが、そう考えると、芥川自身が超越を望んでおり、だから主人公に自分をだぶらせ、作品の中で主人公に自分の代わりに超越させたのかもしれないですね。

この回答への補足

お早いお返事ありがとうございます。
そのような読みも十分できます。素晴らしいです!!
 私は、国文学系の人間ではないので、自信を持って芥川龍之介のことを述べることができません。
 でも、『地獄変』を読み芥川に興味を抱きました。
回答者さんのご意見も参考にさせていただきます。

補足日時:2009/01/13 23:12
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 「語り手」という言葉がどういう意味で使われているのか、分からないのですが。

この物語はかつての奉公人が思い出を語るという形で展開しています。だから語り手はかつての「奉公人」。ただ、登場人物は作者という創造するものの手中にあるのだから、登場人物の言動はすべて作者のものとするなら、小説の語り手はすべて作者……。申し訳ないことですが、質問者さんの「語り手」とはどういうものなのかを教えていただけないでしょうか?

「良秀」は芥川の理想の人物か。芥川の人生の結末を知るものは、どうしても「良秀」と芥川を結び付けたくなります。ここで考えてもらいたいのは「地獄変」を書いたときの芥川は絶頂期にあったことです。巧みなストーリーの中に多様な人生を描く、別の言い方をすれば、多様な人生を作品の中にコレクションする。芸術至上主義に近づいていく芥川にとって「良秀」の生き方も「あり」だったと思います。しかし、芥川の理想は「良秀」そのものではなく、その「良秀」の人生さえも作品として創造できる自分自身にあったはずです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>質問者さんの「語り手」とはどういうものなのかを教えていただけないでしょうか?
 私自身が、根拠がなく上手く説明できないのですが、
>奉公人が思い出を語るという形で展開しています。だから語り手はかつての「奉公人」。ただ、登場人物は作者という創造するものの手中にあるのだから、登場人物の言動はすべて作者のものとするなら、小説の語り手はすべて作者……。というのは、私自身も理解しています。
さらに、その語り手の意図を読み取りたいということです。
 例えば大殿の非凡をたたえるはずのエピソードも、その一つ一つを取り上げてみれば、大殿の権力大きさをさし示すものはあっても、その人間の偉大さを積極的に物語るものは、ほとんどなにもありません。むしろその一つ一つのエピソードは、裏返せば、大殿の人間性の酷薄非常ぶりを暗示する感じがあり・・。逆に良秀は、語り口によってただ闇雲に「横道者」としておとしめています。そして、「たった一つの人間らしい、情愛あるところ」を、意味ありげに示している感じがします。
 語り手の作者、芥川がなぜそのような語り口にしたのか・・といことです。(言葉足らずですみません。)

補足日時:2009/01/13 13:43
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この作品は、あまりにも恐ろしいもので、1度読めば十分だと思い、それ以降読んだことが無いのですが、、、




芥川龍之介の作品の中に、キリスト教系の思想が入った作品がいくつかあります。

この作品もそうだと思えます。

ユダヤ教には贖罪という概念があり、穢れを炎で清めるため、自分の身代わりを黒焦げにするという儀式があった。



イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の祖アブラム(後にアブラハム)
神はアブラムに<一番大切なものを、神に捧げよ>と命令したと、アブラハムは思いました。
つまり天の声を聞いたとアブラハムは思った。

それで、息子イサクを連れて山に登った。
イサクはそんな儀式があり、自分が父親に殺されるなど思わず、父親に言われるがまま、自分をこれから焼き尽くす薪を背負って、ついていった。


アブラムは、今まさに息子イサクを刃にかけようとした、その瞬間、山羊が出現し、アブラムは、神は息子の身代わりに、これを焼き殺せと命令したと受け取り、山羊を殺し血をぬいて大地にしみこませ、焼きつきし、神に捧げました。

何故血を全部ぬくかというと、血の中に魂が入っており、大地に戻せば、また生まれ変わって世の中に戻ってくるので、殺しても大丈夫 て考えがあったから。

そうはいっても、かわいい息子を殺すのはしのびなかったでしょう。



さて、それから何千年か後。
イエスって人が、人々の穢れを清めるために殺されました。
実はイエスは神の一人子で、神は人間を愛していたので、アブラハムが自分の息子を自分の穢れを清めるために、焼き殺そうとしたように、神は自分の一番大事な息子のイエスに、人類の罪をすべて担わせ、贖罪させた という話になりました。

神の息子が身代わりに殺されたことで、全人類から穢れが消失し、世の中の人々は、幸福に包まれました。


とさ。


さて、それからさらに時は流れ、絵描きは自分の一番大事な無原罪の娘を焼き殺しその様を絵にしました。
絵が完成し、それを見た人たちは、厳かな敬虔な気持ちになり、なんともしれぬ幸福感に包まれました とさ。


というわけで、自分の身代わりに、全く罪の無い人を焼き殺すことで、穢れた人がハイターで漂白されたように清められるというお話。


罪がある人が焼き殺されるのではなく、全く罪の無い人を焼き殺し、神に捧げることで、罪深い人が永遠の命を手に入れられるって考えが、キリスト教なわけです。
だから今もって、その儀式を模倣しています。

「このパンを食べなさい、これはイエスの肉である。飲みなさい。これはイエスの血である」

昔の人は、生贄を食べることで、自分の中に取り込めると思って、人間を殺して食べていた。
その名残がユダヤ教に影響を与えたが、やがて、それはよくないとして、アブラムの話をもってきて、共食いではなく、身代わりに動物を生贄として捧げるってなったようです。


その穢れを清めるって儀式が、この作品も登場する。


淡々とした語りは、時には厳かな雰囲気をかもしだします。
むごい鬼畜にも劣る行為なわけですが、その残虐行為を善き事として尊ぶためには、「この行為は清めるための荘厳な儀式である」とするのが、古来よりのやり方。

<儀式>がポイントなわけです。

儀式なので、感情の介入しない淡々とした語りになるわけです。

本来なら、「これはイエスの肉である。食え」って言われたら拒絶反応を起こしますよね。
でも儀式なら別。
これは敬虔なる儀式である とすることで理性がどっかに飛んでいってしまい、正気ならできないことも、儀式だとなると人間はやれてしまう。

地獄変なわけです。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。
「儀式」については、全く考えていませんでした。
言われてみたら納得できます。
 この作品は、死者を見舞う役割を果たしている感じもします。
では、芥川は主人公の良秀に自分を重ね合わせたのでしょうか?

補足日時:2009/01/12 23:34
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何を教えてもらいたいのか、よくわかりません。



> 読み進めると、語り手は芥川龍之介では?と思います。
自身の「芸術と人生」を形象化したもの?

小説なので、その辺の判断は読者の勝手にゆだねられるものかと思いますが、考察する上でのヒントを。

『地獄変』が宇治拾遺物語の話をアレンジしてできていることはご存じでしょうか。『羅生門』もそうですが、そこに芥川龍之介がどう、関わっていこうとしたのかを見極めたければ、まず、オリジナルとの違い(=芥川が改変した点)に注目していけばどうかと。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84% …

この回答への補足

 回答ありがとうございます。
言葉足らずですみません。教えてもらいたい点は、
(1)語り手は、いったい誰なのか?
(2)『地獄変』に登場する良秀は、芥川が理想とする人間像なのか
?ということです。

補足日時:2009/01/12 23:28
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