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いつもお世話になっております。
少し病的な範囲の質問かも知れませんが、お気軽に回答下さると嬉しいです。

「思索」等と言うと高尚な感じで恥ずかしいのですが。。。
*思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか?
(私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚です)

思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、
(そうではない場合がありましたら、ご教授下さい)
*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?
(私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります)

曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、
*枠でしょうか?
*核でしょうか?
(私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。
言わば「空っぽの容器」の感覚です。以前(二十歳前迄)はとにかく「中身を見つける(無い気がしていたから)」事に必死だったように思います。ひと事件ありまして「今は内容量を増やす受容の時期」かも知れない、と考えてからは「容器の感覚」が強いです。自己暗示の成果でしょうか。汗)

単に表現に固執しているだけかも知れませんし、
個々人の感覚/言語化の違いもあるかも知れませんが、
出来ればこんな感覚に「実感」がある方にお答え頂けたら、と思います。
よろしくお願い致します!

A 回答 (23件中11~20件)

NO9です。

再びのお礼、拝読いたしました。

>きっと、その「果て」は「人智の果て」であり、
>単なる物質的な限界点 なのだと思います。(思います、ばっかりですね。。。大汗)

私のほうこそ、言葉足らずだったようで、すみません。

「人智を超えた存在」についてですが、私も特別な信仰を持っている訳ではないですが、そうしたものは、はっきりと感じていますよ。
ですが、それが果て、つまり限界という認識ではおりませんが。
というのは、人智を超えた存在というものが、結局のところ、人智を持ってしか想定不能であることから、人智とそれを超えたもの(智慧)とを比較することもまた不可能なはずという理由からです。
よって、単なる物質的限界点というのは、生命の限界(寿命)というように捉えていただければ、わかりやすいかと。

例えばですが、人間に寿命がないとして、そういう世界において、人間がどのような思考を持つのか?ということについて、その世界の存在自体が、既に人智を超えたところにあるのですから、その場合における「果て」というものがどのようなものとなるのか?についても、結局は、現在の寿命を持った人間の頭でしか理解できないということです。
ですが、仮に、時間という概念の存在しない世界=寿命という物理的限界点を超えた場合、果てという概念もまた存在しなくなるのではないのか。というのが、私の今一な頭で思いつくことなのです。

という訳で、想像を超えた(人智を超えた)前提が存在する場合、限界点としての果てをその境界として認識するというより、まさしく宇宙の果ては隣合った宇宙の果てでしかないというような状況になりえるのではないかと思った訳です。

いくつもの自分自身ということでいえば、私もあります。
そういった意味でも、宇宙空間のようなものだなぁと思うのですね。
果ての向こうにもう一つの宇宙がある。まあそんなイメージが一番近いかもしれませんね。

思いつくまま、的確な形容ができないままのようで、お読みいただくのも申し訳ない感じなのですが、私の今一頭では、せいぜいこの程度ということで、お許しくださいませ。
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この回答へのお礼

こんにちは、neroli3様。
度々丁寧に回答下さり、感謝申し上げます。
返信が送れました事、お許し下さい。

>「人智を超えた存在」

同じような感覚をお持ちの方に出会い、嬉しく思います。
いえ。。。このような「人間は存在として完全ではない」と言う謙虚な感覚って、日常でなかなか出会わないように思いますので。。。
下手したら「何かの宗教に勧誘するつもり?」と言う疑いから防衛線を張られてしまったりしそうですもの。。。汗

>仮に、時間という概念の存在しない世界=寿命という物理的限界点を超えた場合、果てという概念もまた存在しなくなるのではないのか。

あーーー。。。この文を拝見して、しばらく考えてみたのです。
この世界では、「限界がある(=寿命)」が多数派か? 「限界が無い」のが多数派か?って。
すっかりふわふわ宇宙遊泳です。^^
一体どうなのでしょうね。。。

かなり気まぐれに気軽く立てた質問で、早めに締め切る予定だったのに、色々な視点と新たな感覚の発見が相次ぎ、なかなか着地点が見つからず嬉しい悩みです。^^

ありがとうございました!

お礼日時:2009/02/05 14:39

またぞろ、ピント外れの回答をさせていただくことをお許しいただきたく願い上げます。



私は頭が悪いだけに、これまで「思索すること」よりも、「思索するとはどういうことか?」を考えることの方に、より興味・関心を寄せてきました。

>*思索する時、皆様は「どんな感覚」でしょうか?

「『「オレはこう思う』とオレをして思わしめているヤツはどこに隠れているのか?」、「そいつはどういう正体をしているのか?」といったことばかり考えてきました。
ですから、私には「自分の心に潜って行く」というよりも、自分を操っているモノの正体を暴きたいという「感覚」ですね。

>*自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?

「自己」も「思索」をも確たる実体として考えられない私には、当然ながら「反発/拒絶」も確たる実体としては実感できません。
ただし、娑婆に生まれ出てから現在に至るまで、自分が様々な迷妄の虜になってきたことは認めざるを得ません。

>思索する時「前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)」と思うのですが、

ハイ、われわれがのほほんと信じ込んでいる(と自覚できないでいる)種々の「前提を疑って掛かる」ことの重要性を訴えたのがいわゆる現象学だと思います。
「白紙撤回」とは「思索」を成り立たしめている大前提、根本条件それ自体を見つめることですよね。
ハイデガーの「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」という発想も、一種の「白紙撤回」だと思います。

そのためには、自分の思索の一切についても、いったんはニヒリズムの浄火をくぐらせてやる必要があるような気がします。
すると、すべてのことがそれ自体で何か意味や価値をもっているわけではなく、一種の因縁、因果関係の連鎖によってそう思わされているだけにすぎないのではないかと思うようになってきました。

>曖昧な表現になりますが「自己認識の感覚」は、
>*枠でしょうか?
>*核でしょうか?
>(私は「枠」と感じます。あまり自分の内部に「中身」を感じません。

申すまでもなく、自他の差異を弁えない乳幼児は「自己認識」とは無縁です。
ですから、「自己認識」の前提となるのは、自己客体化(他者化)なくしてはありえないはずです。
しかし、そうなると、客体化された「自己」とは、認識主体としての「自己」にとっては一種の別人格となりますから、いつまで「自己認識」を続けても、ついに「自己」の「核」にはたどり着けないはずです。
本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか、そのとき他者によって照らし出されるモノとしてしか「自己」はありえないような気がしてなりません。
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この回答へのお礼

あ、kadowaki様、お目に止めて頂き光栄です。^^
彼の君が居なくなられてしまって、ちょっと戸惑い気味です。。。

>『「オレはこう思う』とオレをして思わしめているヤツはどこに隠れているのか?」、

「オレ」と読んで、どきん!としてしまった不届き者です。^^
いえ、いつもきりりっとしていらっしゃいますからその意外な呼称が。。。^^;

>自分を操っているモノの正体を暴きたいという「感覚」

#9の方へのお礼欄に書いたのですが、
中学の時に実験をしました。
「一つの事に対して、幾つの思い/考え/印象が現れるか?」と言う実験です。
その結論は「同列同等に複数の心/人間?が存在する」でした。
其処迄折角突き止めたのに、その次の
「その中からどのような選別が行われ、表出の過程はどのようなものか?」には挑まなかったのです。。。

その選別の主体は気になります。
が、またあの実体が無くフワフワと苦しい実験を試みるのは躊躇します。

>「そもそも、われわれは何かがあることを自明の前提にして思索を始めたがるのか、本当は何もないことを前提にすべきではないのか」

はい。
何事も恐れずに白紙撤回を試みたい所ですが、先入観/迷妄/常識。。。様々に厳つい「枷」が何とまあ、本質/中身も見えない程に絡まっているものか。。。と毎度思ってしまいます。

>「自己認識」の前提となるのは、自己客体化(他者化)なくしてはありえないはずです。

そうですね!
これが、「完全な他者」の考えを辿る時の「手がかり/触媒」となる部分、なのでしょうか。
そうすると、一体人間の「他者に対する自己の確認」の意味での自己認識/自我境界の線引きはどうなるのでしょうね。。。

他者(の自己認識)との中和域が存在するように思います。
でもその「他者の自己認識」は、自分の想像のでっち上げでしかない、ようにも思えますし。。。
もしかしたら、人間はその「でっち上げ」に惑わされて、他者と不要な距離を置いている、なんて事はないかしら?と今ふと思いました。

>本当の意味での「自己」とは、他者と交わったとき、その交点においてはじめて発生するのではないか

「自己認識」に囚われて、大事な点を見落としていました。汗
人間の思考は常に「化学反応」なのですね。。。
自分以外の何者(何物)かとの中間に発生するもの、なのですね。

ありがとうございます!

お礼日時:2009/01/30 23:12

言語化は苦手です(汗)。


人間は人間にとって最も、尤もなエネルギー源となりますね。
核にはエネルギーが沢山貯えられています。
でも自己認識の感覚は量の問題なのかです。枠や容器にそれを満たすならば全ての形、表現の根源を纏める以前なものであり、何の集まりもない場だけのもの。核=エネルギーの源泉として「質」を考えると、きっと「憧れ」がそのようなものだと思う。
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この回答へのお礼

miko-desi様、こんばんは。
傷めた足は大丈夫でしょうか?お大事になさってくださいね。

>人間は人間にとって

この「人間」は前者が自分でよろしいですよね?
では後者の「人間」は
*他者
*自分の内部の自分
*自分の内部の自分も含めた他者
どれでしょう。。。。?

>核にはエネルギーが沢山貯えられています。

言葉、というのは不思議です。
化学で「(原子)核」と言うと、具体的に凄まじいエネルギーを持っている物、ですよね。
それと同じ「核」と言う言葉を「自分の核」「人間の核」とした場合も、やはり、その核はおそらく未知数に大きなエネルギーを持つと考えられますものね。

>でも自己認識の感覚は量の問題なのかです。

容器と内容物(量)と源泉(核)でしょうか。。。。
私はちょっと、自分の「自我の境界」に不安を感じているのです。
この不安もこの質問の動機の一つなのですが、まあ、前回のような重篤な(!汗)ものではないのでゆるゆると考えて行こうと思っております。

ありがとうございました!

お礼日時:2009/01/30 22:28

#2です。

お礼拝読しました。
>入り口を変え、鍵を変え、道を変え・・
ああ。またそれだと違っていたかも知れません。
私は、1本調子だったんですよ。
でももう、踏み込まないでしょうね。

>「性差はない・・
書き方が悪かったです。うまく表現できないので。。
私は女性ですが、「自己認識」に私も性差はないと思ってます。
枠としたほうが、ラクなんです。

面白い質問でした。
昔、漠然とですが、そのようなことを疑問に思っていた時期があったのです。
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この回答へのお礼

こんばんは、Yseult様。
また回答下さり、嬉しいです。^^

>でももう、踏み込まないでしょうね。

これはどうしてでしょうか?
よろしければ理由を教えて頂けないでしょうか?

私は「知らない事」が好きです。
世界も社会も自分も、とにかく「知りたい!」と思ってしまいます。汗
不思議な事に、何かをひとつ知ると、反対側の事も一つ知る事が出来るように感じるのです。
例えば、自分について一つ知ると、世界についても一つ判った気がする、と言う感覚です。
うーーーん。。。具体的に何を知った?と尋ねられると困っちゃいますが。。。汗

でもこの感覚も穿った見方をすると、「自分と他者を重ね/同一化し過ぎる(自我境界が曖昧になる?)」ようにも思えてしまうので、あまり自信は無いのです。。。。

自己認識の性差について、ですが、
申し訳ありません! 私は「有るのではないか」と考えているのです。
あやふやな文章で誤解を招き、反省します!

「自己認識」と言うか、「他者に対する自己の確認」と言った感覚です。
これを女性は「他者と自己の間/或は他者そのもの」に置き、
男性は、「自己の内部」に置く、そんな気がしたのです。

そう言っても私は女性ですので、男性の認識は想像でしかないのですが。。。
未就学児三人の子育ての日々で、そんな事をふっ、と考えたのです。
でも、何せ三人の怪獣に追いまくられて視野は狭まり、外出は侭ならず、サンプルが少な過ぎるので妄想でしかない考えです。。。

>枠としたほうが、ラクなんです。

そうですね、存在する物事は存在する以上認めざるを得ない物ですから、
核を設定していちいちその核に「お伺い」を立てる手間を考えると、「まずは放り込んで、それから考える」方が楽ちんですね。^^
(なんて適当な質問者。。。。大汗)

ありがとうございました!!

お礼日時:2009/01/30 22:16

NO8です。

お礼拝読いたしました。

>人間の思考力の届く範囲なんて、たかが知れているってことなのでしょうか。
>それとも、こうして捉えようと挑み続ける事によって、いつかは「果て」に辿り着くのかしら。。。

「果て」についてですが、

果てを捉えようと挑み続るということは、そのチャレンジ自体が広がりのスピードをアップさせるという考えですので、果てにはいつまで経っても辿り着けないものと、私は考えます。
(というより、辿り着けないからこそ、面白いと私は思いますが)

私は、思考力も含めて、自身の内部で起こる現象や対象物は、宇宙のように常に広がっていくものという認識でいます。
時間の流れがある限りは、そこは常に広がりを見せるものだということですね。

「たかが知れている」と言うと、なんとなく劣ったイメージですね。私のイメージでは、優劣とは全く次元の異なる、単なる物質的な限界点として「果て」は存在しているというだけです。
つまりは、命に限りがある限り、持ち時間に限りがあり、ゆえに「果て」という物質的限界点があるのだ。ということです。
ですので、人間の思考力に限界があるというより、一人の人間の思考力には限界があるというほうが適切かと。

共通点から探す場合も、そうでない場合も、理屈は同じような気がします。
自身内部の宇宙には、様々なストックがある訳ですが、私が自分と異なった考えを辿る際には、そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探すということですね。これが、私にとっては、内部を探る感覚です。でも決して内側に入っていく感覚というより、やはり外から探している感じなんですね。内側から探すとなると、触媒の正確な位置がわからなくなりそうです。

私の場合は、核の存在を一つと限定できるかどうか、実は核と呼べるものは、複数存在しているのではないか・・・と、自身では感じています。質問者さんはどうですか?

こういった問いかけに対して、的確に伝達可能な言語のストックを私が持ちえていないせいだとは思うのですが、言葉での表現の限界を感じてしまいますね(笑)
でも、質問者さんのこの問いかけで、また一つ小惑星が誕生した感じがしますね。ちょっとした宇宙旅行のような楽しい気分です。
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この回答へのお礼

neroli3様、また来てくださり、感謝申し上げます!^^

>「たかが知れている」と言うと、なんとなく劣ったイメージですね。

あ。。。ごめんなさい。
私は「人智を超える存在」を漠然と感じていて(特に何かの信仰がある訳では無いのですが)、その存在の智慧に対しては必然として「劣っている」となってしまうのです。言葉足らずで申し訳ありません。

きっと、その「果て」は「人智の果て」であり、
>単なる物質的な限界点
なのだと思います。(思います、ばっかりですね。。。大汗)

>私が自分と異なった考えを辿る際には、
>そのストックから、対象物とリンクしそうな「触媒」を探す

はい。#4の方へのお礼欄に
>「否定を怖がる」弱さが選ぶ入り口かしら、とも思います。
と書きましたが、そうですね、わざわざこんな不必要に卑下する事も無いかも知れませんね。。。悪い癖です。
只の「触媒」、効果的な「触媒」。。。それでいいのですね。

>実は核と呼べるものは、複数存在しているのではないか・・・

中学の時に実験した事があります。
「一つの事に対して、私は幾つの思い/考え/印象を抱くのか?」って。
毎日毎日自分の心に潜り込んで遊んでいました。(ネクラな。。。大汗)

その結果「人間は複数の人間を抱えて生きている」と結論が出ました。
優劣/強弱/好悪。。。関係無く、両極端を含む複数の「心」が私の中に同時に息づいているのを見ました。^^
何人もの「私」が、仲良くか、仲悪くか?(笑)共存し、この具象化された「私」を形成し、生かしている、と実感するのはなかなか面白い体験でした。

思い付くままに書いているのでめちゃくちゃですね。。。
申し訳ありません。

お礼日時:2009/01/30 21:55

質問者さんの意図をきちんと理解できているのかわかりませんが、私なりの回答をしてみたいと思います。



核を感じる瞬間というのは、確かにありますが、日常において思索する際には、確実に「枠」として自分を認識しています。
枠というのは、つまりは、思索する際、外から自分を眺め回す感覚があるので、枠のようなものの存在を認識しているということですが。

対象の内部にどんどん入り込んで行き探るというよりは、対象の内部から表出してくるものをあらゆる角度で捉えるという感じでしょうか。

ですから、前提としては、懐疑を抱く対象だけとは限りません。

中身が空っぽというようなイメージより、私の場合は、自分自身の内側は、宇宙のような暗黒空間で常に広がりを持っているイメージを持っています。(自分でいうと何だか妙な羞恥心を覚えますが・・・(笑))
ですから、見えるもの(認識している対象)も見えないもの(認識できていない対象)もあり、追いかけても追いかけても辿り着けない「果て」の存在も感じています。

ですから、私の場合は、自分の心に潜っていくと、果て(枠)を見つけられなくなり、感じるのはただの空間のようなものということになります。
核の存在は感じますが、中心がどこかはわからないので、これが核というはっきりした認識は持てずにいます。

という訳で、どちらでもあり、どちらでもない、というのが私の自己認識における「感触」ということになります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>枠というのは、つまりは、思索する際、外から自分を眺め回す感覚があるので、

そうですね。。。
ん?あれ?私はあまり「外から眺める」感覚じゃないのです。
只ひたすら「空の容器に放り込んでいる」感じです。(適当だなあ。。汗)
それで、「考える」時にはそのごちゃごちゃの容器の中をごそごそ探しまわっているのです。。。と言う事は、中身を探しているのは誰(何)?と言う疑問になりますよね。

これってつまり「核で感じている」って事でしょうか?
あれあれ??

人間の思考力の届く範囲なんて、たかが知れているってことなのでしょうか。
それとも、こうして捉えようと挑み続ける事によって、いつかは「果て」に辿り着くのかしら。。。

ありがとうございました!!

お礼日時:2009/01/29 16:01

うわ~まぶし~


見て!見て!光線が全身から
直視できない!!!
もっもっもしかしてあれは。。。

たった一言でも
生きている言葉は場で光を放つものだと思うんだけどさ。。。
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この回答へのお礼

こんばんは、m_cosmos様。
再びの回答、ありがとうございます!

>たった一言でも
>生きている言葉は場で光を放つもの

生きている言葉。。。。それです!
私が何かと「言語化能力」にこだわってしまうのは、「生きている言葉を生み出したいから」です。
一言一言が、一文字一文字が、躍動し光を放つような文章に時々出会います。
研ぎ澄まされた感性と鍛え上げられた言語化能力と暖かい人間性で築き上げられる文章。。。。

でも、「生きている言葉」って、生み出すものじゃなくて、
溢れ出るもの、沸き出すもの、かも知れませんね、自然と。

ありがとうございます!^^

お礼日時:2009/01/30 21:37

最後の一文、 ちょっと・・ぱたんって・・


余計な一言が・・すみません。無意識に書いてしまった・・

さっき締め切った問題考えすぎて頭疲れてたんですねー。
僕も外からいろいろ取り込みたい時期です~~
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こんばんはー。


質問文読んだんですが、すごく共感するものがあります。方向性が、僕と似てるー、と思いました。
質問そのものより、こういう疑問が出る過程が近いです。

>私は只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚
僕もこの感覚が今でもメインです。

>前提を疑って掛かる(=白紙撤回の限界に挑戦?)
これも一緒です。

>自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?
同じかどうかわからないですがよくあります。
自分の直観は正しいというのに、感情は反発する嫌がる、と言うときがあります。個人的に。それは、僕は自分の偏見や思いこみを壊せるチャンスだと思ってます。でもそれをやってしまってややこしいことになるかも、ですが。一度それをやったら解決するまで止まれない感じです。

>*枠でしょうか?*核でしょうか?
ぼくはどちらもです。
この場合の自己認識は自己本質、という意味に取りますが、その場合、自分を枠と取るのは、自分の中の外向的な一面の性格ですし、その場合、外部を認識する視点で自分を捉えるので自分は枠だと感じます。逆に内向的な視点の時は、自分の中心ー核こそ本質と感じます。でも内も外も、本来同じもので、それは、内、や、外、という視点を使わないと直感すら働かない人の脳の限界だと考えてます。内も外も共に現実の一部に過ぎないのに、内、と思ったら内のことで頭がいっぱい、外と思ったら外のことで頭がいっぱいになる、というのは人の把握能力が、現実を全部丸ごと一度に把握する力がない、というじゃないでしょうか?
今中身を増やす時期、と書かれてるので、それは、自分の行動を外向きにーつまり外向性の強い期間に入ってる気がします。そのため、核と言うより、枠というほうがフィーリングにぴったり来るのかなー?と想像します。

ぱたん・・・
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この回答へのお礼

sheep67様、お久しぶりですね。^^
回答ありがとうございます!

>質問そのものより、こういう疑問が出る過程が近いです。

そうなのですか。。。いえ、何とも私は「自分の為だけに思索している」ような気がして、あまり良い状態とは考えられないのですが。。。
自分に囚われ過ぎている、とも感じます。

>それは、僕は自分の偏見や思いこみを壊せるチャンスだと思ってます。

同感です。
人がやらない事とか、難しいと言われる事とか、これは大変そうだなあと思う事とか、そんなことばっかりに闘志が沸いてしまう面倒な性格です。汗
要は戦闘好き、なのですね、私。。。笑

>でも内も外も、本来同じもので、それは、内、や、外、という視点を使わないと直感すら働かない人の脳の限界だと考えてます。

これは「あーーー!」と思いました。
形や言葉は違えど物は同じ、と言う事ですね、「人の脳の限界」。

>人の把握能力が、現実を全部丸ごと一度に把握する力がない、というじゃないでしょうか?

あーーー!!凄いですね!!
そうです、自己認識やら自我の形を捉えようとする時って、捕まえる傍から溢れて行く感覚で魂が叫び出したくなります。(変な表現!大汗)

まだまだ何か「考え」と呼べるような物を熟成するには中身が足りない!!と思うのです。

お礼日時:2009/01/29 15:47

 ★ 病的な範囲


 ☆ という表現を使うのは どうしてなのかと いぶかっていたら どうも
 ★ 白紙撤回
 ☆ の過程に入ると どうも そこまでの状態になるかも知れませんね。けっきょくは 《ここ》に つまりは 《わたし》に戻って来ますが よほど面白い内容であれば 相手の考えの中に浸って行きますね。
 あるいは 批判を受けた場合だとか 自分の考えとは 正反対であった場合などには それこそ 我れを忘れて 
 ★ 只ひたすらに「自分の心に潜って行く」感覚
 ☆ になりますね。と言ってみたとき さらに わたしの場合に しっくり来る表現は こうです。
 ○ 相手の場の只中に――つまりこれは むしろあたかも相手の心の中に沈潜するといったことなのでしょうか――入っていく。
 ☆ という感覚でしょうか。
 そして あまりに深く相手に成り替わった感覚になったときには これは やられたかな とか うわぁっ わたしは完全にまいったということか とか 思って その感覚のときだけは 我れに帰るようです。
 つまり とことん 相手の論理に合わせて 推論を 最後まで 導いて行っていますね。考えてみれば。
 ただ こういうふうに 相手の思想を吟味・検証する場合には たいてい こちらの考えのほうが より一層 妥当である場合が ほとんとです。どういうわけか そうですね。
 相手の思想が 上である場合には ほとんど 最初に出会い知ったときに ただちに 感覚的に分かる場合が 多いようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 *自己の内部(?)に反発/拒絶を感じる事はありますか?
 (私は磁石が反発し合うような感触で「近付く事も許されない」と言った感覚を感じる事があります)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは よく分かりませんが ないようです。何が妥当であるか どちらが妥当であるか それの判断に かかりきりだと思います。《反発 / 拒絶》 よく分かりませんが ピンと来ないということは ないのでしょうね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「自己認識の感覚」は、
  *枠でしょうか?
  *核でしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも どちらも ないようです。
 ★☆ 「枠」と〔も〕感じ〔ないで〕 あまり自分の内部に「中身」を感じません。
 ☆ という状態です。
 ★ 言わば「空っぽの容器」の感覚です。
 ☆ というのではなく
 ○ ただ 白紙の状態〔において 相手の思想を 先へ先へと推理して行っている状態〕
 ☆ です。《容器・枠 あるいは 核》とは 感じないですね。つまり 《自己認識》の感覚は 《その相手の理論を行きつくところまで 導いて行って あれっ 打ち負かされたかな と感じたときに いちど 我れに帰ることがある》だけです。

 おそらく 能天気という生地の上で 相手の思想を転がしていく というのが わたしの思索だと思います。
 自分の考えを述べよという場合には――つまり いまこの質問に答えるような場合ですが―― たしかに 《自己の心の底に落ち着くかたち》で 考えるかも知れないのですが でも こういう場合には ただ 問いに対して 反応しているだけのようにも 思えます。意味は 思索という作業を介さずに 記憶にたずねて そこから 引き出してくるだけのように感じます。

 面白そうでしたので 筆が伸びましたが こんなんで いいのでしょうか。
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この回答へのお礼

面白そうと言って頂けて光栄です。^^
回答ありがとうございます!

ポルノの質問を締め切りながら漠然と浮かんだ思いをそのまま立ててしまいましたので、判り難いですね。。。汗
とにかく皆様の「思索の感覚」が知りたくての質問です。

人は誰かの考えを辿って行く時、「自分」は何処に置いているのでしょうか。
私は「自分と同じと感じる所」から入り込んでいるように思います。
「否定を怖がる」弱さが選ぶ入り口かしら、とも思います。

「自分の中に潜って行く」と書きましたが、それでは誰かの考えを辿る時は?と考え直してみました。
「誰かの考え」を辿っているつもりなのに、気付けば「自分を潜っている」気がします。これはつまり「道を間違えて」いるのか?、それとも「誰か」と自分が「重なっている状態」なのか?どちらなのでしょうか。。。。

「反発/拒絶」の件に関しては、嫌な記憶だのトラウマだの深層心理だの、と言った辺りが関連しているのかな?とも思います。
封じ込んで忘れた振りをしている記憶とか。^^

考え事だの思索だの、といい雰囲気の言葉を並べていますけれど、
私は結局、自分の中の「こんがらがった糸玉」と格闘している感じです。
なので、現金で日和見と言う反省がいつも付きまといます。汗
純粋な意味での思索ではない、と思うのです。

>おそらく 能天気という生地の上で 相手の思想を転がしていく というのが わたしの思索だと思います。

私はイマイチな薄暗がりから闇の中で、握りしめた物の正当性を確かめる為に進んでいる、かな。
「転がす」なんて、怖くて出来ません。
自分の手から離れるのが怖くて仕方が無い感じです。
。。。この辺が「病的な範囲」と書いた理由です。^^

ありがとうございました!!

お礼日時:2009/01/29 15:23

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