あなたの習慣について教えてください!!

本当にくだらない質問で済みません。どうか怒らないで聞いて(読んで)下さいね。こんな質問に付き合っていられない方は、どうぞ無視して下さい。もっと困っている人の質問を優先して下さい。
神様っているんでしょうかね?
ちょっと暇な時に(失礼!)、考えてみたのですが、例えばキリスト教(だったかな?)で、昔々ソドムとゴモラという町が神に反した行いをしたために、その罰で消滅させられた、という話を本で読んだような記憶があります。
もしも、そういう神様がいるのなら、町を消滅させずとも、人間を洗脳すれば、それで、めでたしめでたし・・にならないんですかね?
今の世の中、人間が人間をマインドコントロール出来る時代ですから、神様だったら、そんなのちょちょいのちょいじゃありませんか?
「神に逆らう」事が可能なように、わざと人間を作ったのでしょうか?
まさか、ペットでも飼う感覚で育ててみて懐かなかったら虐殺ですか?
まあ、人間の私が神様の気持ちなんぞ分かるはずも無く・・何て、考えてみたりしました。
「お前馬鹿じゃない?」と言われたら、「はい、その通りです」と答えます。ええ、本当に自分でも馬鹿げた質問だと思いますから。
ただ、残念なのは、もし私が死んで神様と会うことが出来たとしても、皆様に「いたいた!本当に神様いたよ!」と報告出来ない事でございます。
神とは人間の作り出した想像上の物なのか、古代の地球に降り立った異性人なのか、本当の本当に宇宙人とかでなく、神様っているのでしょうか?
ああ神様、どうか教えて下さい!
注意:私は基本的に無宗教です。新興宗教や古来からある宗教でも入信するつもりは一切ありませんので、勧誘頂いてもお断りいたします。

A 回答 (27件中1~10件)

神について考える、土俵を間違えてる人が多いです。

それは脳の思考で、脳の世界で考えても、何もわかりません。人の心の中にある神の心の部分、つまり頭ではなくて、心で考えないとダメです。人は恐竜時代に、地球に来ました。その時は神でした。その後、神と人が合体して、合いの子の神人になりました。神人はアトランチス文明時代までいました。その後、人だけになりました。だから人の脳の部分で考えず、脳を休めて、神の部分で考えないと神は理解できません。
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この回答へのお礼

懇切丁寧にご回答頂きましてありがとうございます。

要は元々私の質問自体がナンセンスなものであるという解釈で宜しいでしょうか?即ち、「論理的」に「神」という存在を「考える」=「人間の脳における思考」では、神を認識する事も理解することも不可能(理解という言葉自体が不適切かもしれませんね)なのでしょうね。
「神様がいるのか」という質問自体が既に「思考」で捉えようとしているのですから、私にはeyasi2012さんの仰るようには多分感じることが出来ないと思います。

ちなみに、私の質問にて「神」をキリスト教の「神」として例えましたが、「いやぁ、神様も怒ったり、町を滅ぼしたりして、いかにも人間的(?独裁者的?)だなと素朴に思った次第でした。
「アダムとイヴがリンゴを食べて・・云々」に関しては、そんなもの「神の力」でいくらでも無かったことに出来るんじゃ無いの?」何て甘い考えでした。「えっ?アダムとイヴが食べちゃったの?食べるなっつーの!」みたいな「トンチンカン」な存在では無いのですね(キリスト教徒の方、ご覧になってらしたらゴメンなさい。本当に素朴にそう思ったので。)

失礼致しました。

お礼日時:2009/02/16 22:32

 No.6&19です。

信仰の基礎理論です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ このように 神の存在をめぐって 信仰の普遍的な理論が 得られます。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答を有難うございました。

恐らく、大変に聡明な方とお見受けいたしました。

申し訳ございません、質問するというのは「論理的に納得するように教えて下さい」と言う意味だと思うのですが、私の頭では、あなた様の理論を理解する事が困難でした・・
せっかくご丁寧に回答下さいましたのに申し訳ありません。

色々な方からの回答から、私自身は「神」という存在を「人間の思考」で考える事自体が既に間違っていると思うようになりました。

例えば、人類の如何なる英知を以ってしても観測不可能な物質が宇宙空間に漂っていたとしたら、人類は気付く事なく「観測してみよう」とも思わないでしょう。
単純に言えば、そのような存在なのかもしれないと思いました。

有難うございました。

お礼日時:2009/02/26 16:30

神の存在についての疑問との事ですが、まず創造主(父)は万物の生命として全ての生き物の内部に特に人間の場合は宇宙の意識(叡智、命、神、魂、潜在意識等)として内部に存在します。

人間は創造主の息子や娘として創造されました。それで潜在的に創造主の無限の進化の可能性を秘めています。才能や知識、そして超能力等です。私は宗教団体の信者ではありませんが・・神は全ての生けるものの魂として化身して生命(万物)として具現しています。所が人間の心は自身の内部の宇宙の意識と分離している為に内部の神の指示が解りません。何故かと申しますと神の意思は貴方に直感、閃き、ささやき声、警告、アイデアー、映像、衝動、魂の知覚等で人間の言葉で伝えている訳ではありません。ですから自身の心が静寂になり話中ではない状態の時でしか聞く事が出来ません。貴方の意識が神なのです。つまり触覚が貴方の命で神であり叡智なのです。貴方の心は知るものではありません。貴方が他人の生命を知覚出来た時に命の何たるかが解るでしょう。貴方の目は肉体を見るでしょうが貴方の魂は相手の命である魂にきずくでしょう。それが神で叡智です。
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この回答へのお礼

ご回答頂きまして有難うございます。

個人的には、人間には「神(の力?)」の一部が潜在能力(?)として宿っているように思います。
しかし、宇宙を含めて万物を創造したのが「神」だと仮定してしまうと、その「神」自体はどうやって「誕生」したのか、等と「宇宙の外側はどうなっているのか」のような疑問となり、自分の中で際限が無くなってしまいます。
ですので、「理論的に」神を考えず、「心」やもっと深い部分で感じる事が出来ればと思います。
「神」とは、少なくとも「気まぐれで」街を滅ぼしたり、「アダムとイヴに禁断の果実を食べられてしまうようなトンチンカン」な存在では無い事だけは分かったような気がします。

有難うございました。

お礼日時:2009/02/26 16:43

つい最近民俗学者の人から講義を受けたんですね。


民俗学者は、第三者的に集団を捉え、分析はするが、批判的な見方はしないのだそうです。

  「この集団はこう考えるんだ」って捉え方をするのだとか。

民俗学者は現地のグループと一緒に生活し、研究をするわけですが、フレイザーは文献を分析したので、フィールドワークで研究する人からは、「書斎の学問」「安楽椅子の人類学」と批判されたのだそうです。

で、私自身はフィールドワークっぽいこともしましたが、かなりフレイザーっぽいかなって思います。


<昔々ソドムとゴモラという町が神に反した行いをしたために、その罰で消滅させられた>という話を聞いたあなたは、<町を消滅させずとも、人間を洗脳すれば、それで、めでたしめでたし・・にならないんですかね?
「神に逆らう」事が可能なように、わざと人間を作ったのでしょうか?>と考えたわけですよね。

私の場合は、<全くの善の神が、何故裏切るような要素を持つ人間を作ることができたのか>という疑問がわきました。

白からは白しかできないですよね。
後にグレーになるってことは、劣勢遺伝子であるグレーが入っていて、ある時、表に出たってことですよね。
つまり、神もグレーの要素を持っていたから、後々その神によって作られた人間がグレーになった。
神のせいなのに、人間だけを悪いって言うのは、あんまりじゃーないか。
おかしなことするなぁ~ と思った時期もありました。


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96 …

この作者は考古学者とジャーナリスト。
フィールドワークで現地まで調査して、ソドムのゴモラ伝説ができた原因を地質から考察した。
火山の噴火が多い地域で、火山が噴火して、反映していた島が突如崩壊するってことは十分ありえた。

火山の噴火の原因は地下のマグマだってその頃はわからず、神の怒りだと考えられていた時代の人は、「あの街は悪徳だったから神の怒りによって滅ぼされた」と捉えやすいのではないか。

そう考えた。

ソドムの地質を調べ、古代は火山活動が活発だったことがわかったから、そう分析したわけです。


人々は自然の現象に対して、物語を作り語りつぐ。
例えばルルドの奇跡とかファティマの奇跡など、嘘。
一つのなんてことないことが、話の内容が変更され、変更されたものが真実だと思い奇跡ってなって、その話が別の地域に伝わり、また話の内容が変り、奇跡話が誕生し、それが現実あったことだって、他の人に伝わってしまった。

しかも フィールドワークして実際を確かめなかったので、口から口に伝わり、嘘話が現実起こったと伝わっていった。



>神とは人間の作り出した想像上の物なのか、古代の地球に降り立った異性人なのか、本当の本当に宇宙人とかでなく、神様っているのでしょうか?
ああ神様、どうか教えて下さい!

えっとですね、現実実在します。
今日は特に天気もよく 元気に輝いている神様が見えますね。

太陽信仰です。
空の星を人格化して、物語を古代の人は作ったんです。

どうして太陽が神様ってなったかというと、古代の人は太陽が食物を育てると知っていたから。
農耕の発明で、太陽は特に重要だったので、観察されていたわけです。
いつ種をまけばいいか とか 時間とか 太陽を基準に考えたので。

生命は月の方と関連づけられた。
月が生命を運んでくると考えた。
どうしてかというと、たまたま人間の女性の生理の周期が月の周期と同じだったから。


どうして西洋の神話では、神は人間に対して絶対的な権力を誇っているとされるのか。

イラクの土地って、世界で最古の古代文明があったとされるところ。
シュメール、アッカド神話が今まで見つかっている最古の神話。

それによると、ティアマートとアプスーってのが初源の神で、ティアマートはどんどん神を生んでいったことになっています。
そうなると、うるさくなって、アプスーは安息できないと悩み、助言があり神々を殺そうと考えた。
ティアマートはうるさくってもかわいい子供たちだから殺しては駄目って言った。

ところがアプスーの息子、、、エアだったかな? アプスーが自分たちを殺そうと計画していると思い、逆に父親のアプスーを殺してしまったのです。
父親殺しです。
しかも、ティアマートに最高地位をくれって言った。

夫を殺してさらに最高地位もくれという反逆する神々に対して、ティアマートは怒り、エア側からのメッセンジャーを八つ裂きにしてつきかえした。

これには恐れをなしたエアですが、エアの息子マルドゥックはひるまず、ティアマートに戦いを挑んだ。


天界はティアマート側の神々と、マルドゥック側の神々とで、二手に分かれて戦争をしたわけです。

(キリスト教の最後の審判の、神側についた天使たちとサタン側についた天使たちが大戦争をするってハルマゲドン伝説の元ネタがこれ)


ティアマートはいろいろな獣を召喚し、自らも竜のような姿に変身し戦った。
(絵画ではティアマートは巨大な蛇として描かれています)


で、初源のすべての神を創造したものすごい力を持った神様のティアマートに、マルドゥックは苦戦するのですが、ティアマートが口をあけて、マルドゥックを元の自分に取り込もうとしたとき、マルドゥックは大風を起こして、ティアマートが口を塞げないようにした。

そして矢を射てティアマートを殺して、肉体を八つ裂きにして、大地を作った。
ティアマートの涙はユーフラテス川になった。

ティアマートもアプスーも殺してしまったので、彼らがやっていたことを自分たちがやらなければならなくなった反逆した神がみは、マルドゥックに「これじゃ忙しくて身の回りのことができない。」と苦情を言った。

それで、マルドゥックはティアマートから石版をもらい軍の指揮官として認証されたキングーを殺してその血とティアマートの肉体の土をこねて人間を作り仕事をさせた。

彼らが神と神に仕えるために作られたことを忘れないよう、契約のしるしとして虹を作り、人間は虹を見るたび、神様に仕えるために作られたと思い出すことになった。


で、その変形が聖書の創世記。
アダムとイヴは神様の代わりに農場を耕していたわけです。
そこに「イヴさん イヴさん あんたはん 騙されとります。神様の農場でこきつかわれていますぜ」とささやいた。
ティアマートが蛇となってここで登場。

「知恵をみにつければ、見えなかったものが見えるよになります。」

『でもあの神様はあれを食べると死ぬって言いました。』
まるで白雪姫みたいですねぇ。

「死にません 食べてごらんなさい」

パクン、、、死なないどころか、見えなかった現実が見えるようになった。


なんてこったー いいように神様にこきつかわれていたーー

知らなければ幸福だったのだが、知恵を得たことで現実を知り、深い悲しみに襲われた。


さて、ここまで聞いた信者はどう思ったでしょうね。

「創造主を殺し最高地位をまんまと手に入れ、奴隷として働かせうために自分たちを作ったのであって、決して愛しているわけではなかった。

しかも自分たちの創造主は、神々を生み出した創造主を悪魔だと自分たちに教えて遠ざけさせていた。
どこまでズル賢い反逆神なのか・・・。

でも我々の肉体は初源の神と、発言の神が選んだ男の血でできている。

そうだ 我々は清い。」

ちょっとまったーーー 初源の神様 どうして裏切る要素を持つ神様を作っちゃったの?
誤解からですよね。
自分たちをアプスーは殺そうとしていると思ったから。
すべてを見通せなかった神の悲劇。。。。
まるでギリシャ悲劇みたいな神々の話。


神々はもともと全知全能って概念はなかった。
プラトンあたりから、神は全くの善に違いないって話になった。
で、自分たちはもともとそういう世界にいたが、肉体を持ったため純度が弱まり、悪いこともするようになったと考え、じゃあ 肉体から開放され、生まれる前にいた全くの善の世界に戻ろう と考え出した。


そういうファンタジーもいいのですが、残念ながら現実を生きているので、「それは子供向けの御伽噺、ハルヒの憂鬱のキョンの脳内妄想と同じ」と分別がつく。
つかない人はヤバイ。


ところが全くの善の神が人間を創造したと信じながら、人間が誕生する前に恐竜はいたと知っているし、無機質から有機質ができて、人間もできたって知っている。

この矛盾をうまく両立させて、片方で夢をみながら、現実もちゃんと生きているわけです。


で、のんきなときは、「神が大人の人間をいきなり創造したんです」と言えるが、生命の危機に直面したとき、どっちをとるか。

イラクが内乱状態の時に、のんきにイラクにキリスト教を布教しにいった韓国人の牧師。
その映像がテレビで流れた。
身をよじり、割れんばかりに泣き叫びならがらテロリストにせいいっぱい命乞いをする牧師の映像。

これが信者の真実なのかもしれないですね。
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この回答へのお礼

ご回答頂きまして有難うございます。

天空に光り輝く太陽が神様・・。そう思うと、我々の住む地球も神様だったりして・・。
しかし、地球は決して人類に優しいだけの存在では無く、天変地異も起こします。それは地球自身に取っては、天変地異でも何でも無く、火山が一斉に噴火しようが、大洪水や無数の竜巻が発生しようが、人類が生きようが死滅しまいが、そんな事は全く関係なく、「普通」の活動の一部なんでしょうね。
それを「科学的に」理解出来なかった過去の人類が、その出来事を理解しようとした時に丁度良かったのが「神」の存在であり、「神の怒りに触れて」火山が大爆発して街をマグマで飲み込んだ、という事になるのでしょうか?

私は、今でも人類は「サル」から進化したとは思いにくいです。
何らかの影響が働いて「人類」が誕生したのだと思っております。その影響を施した存在を「神」と呼ぶかどうかは微妙ですが(私は個人的に、地球外の生命体の関与を疑っております。では、その地球外の生命体はどうやって誕生したのか、と考えると袋小路ですが)。

やはり、「神」がいるとしても、物質的、3次元的に確認出来るような存在では無いような気がします(つまり、科学的に証明不能な存在)。

様々な宗教における「神」の行いを、当時の人類が理解不能な現象なので「神の仕業」として理解しようとした、という風に捉えました。

あなた様の、最後の件にてイラクへキリスト教を布教しに行った牧師様の事が記載されていました。
信仰心は大切ですが、「盲信」は危険ですね。これは、「神」や「宗教」だけでなく、通常の社会生活でも重要だと思います。
横道に逸れてしまいますが、色々な出来事に「本当にこれが正しいのか?」という疑問を持つ事は大切な事だと思うのです。
まさに、「禁断の果実を食べて正解」だったと思います。

お礼日時:2009/02/26 17:19

なんかすごい盛り上がりを見せているご質問ですね。


神の話でこんなに盛り上がるとは。(笑)

>何で町ごと焼くくらいなら「人間に自由意志を持たせたのかな?」と素朴に不思議でしたので。

読み落としていたらごめんなさいですが、ご質問の内容に
ちゃんと答えているご回答がないように思えましたので
老婆心ながらご回答を。

 禁断の果実をアダムとエヴァが食べたという話も
ご存知かと思いますが、人間が自由意志を持ったのは
旧約聖書上は、事故だったということになっています。

 全ての動物に意思を持たせなかったのに、
人間だけは食べてはいけない果実を食べてしまった
ので、意思を持つことになったという設定になっています。

>まさか、ペットでも飼う感覚で育ててみて懐かなかったら虐殺ですか?

 「バベルの塔」という話をご存知でしょうか。
日本ではアニメのバビル2世で有名になってしまい
ましたが、人間はバベルの塔という天にも届く
建物を建てて、その天辺から神のいる天に矢を
放ったんです。つまり神に攻撃をしかけたという
ことです。ペットで言うなら、人間は飼い主を
食い殺す狂犬になり果てたわけです。





 
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この回答へのお礼

まず、お礼の前にこの言葉を言わせて下さい。
「ギャフン!」

ありがとうございました。
こんなにたくさんのご回答を頂けるとは思ってもみなかったので、驚いております。

まず、「禁断の果実」の件ですが、別のお礼の中でも書きましたが、「万能の神の力」をもってすれば、そんなもの食べなかった事にいくらでも出来たのでは?とか、「食べて欲しく無いのなら、最初からそんな果実全て自分で処分しておけば?」とか、屁理屈みたいですが、素朴にそう思いました。

また、バベルの塔の話も(バビル2世も知ってます)存じており、罰として人々が共通の言葉を持たなくした・・と記憶しております。
その上で、「万能の神」ならば「飼い犬に手をかまれる」ような失態は無いと素朴に思ったのです。
人間と犬に例えると、私としては噛み付いた犬よりも犬に躾を上手く出来なかった人間に非があると思うのですが、これを神と人間にそのまま当てはめるのは、浅はかな考えなのでしょうね。

お礼日時:2009/02/16 22:44

こんばんわ★


神ですか・・・私はいないと思う人間なので居るなら一度会ってみたいものですね。
神がいるならその神を誰が創ったのかって事になりますしね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そう思いますよね!
神と対面出来たら色々聞きたい事も相談したい事もあるのですが・・
その前に、皆に「いたいた!本当にいたよ!大スクープ!」って言って回りたいのですが。
神を作ったのは誰か、それは宇宙の外には何があるのか、みたいな、それこそ人間の「頭」では理解出来ないかもしれませんね。

もしかしたら、宇宙創成から数百億年(?)の時を経て、本当にどこかの惑星でダーウィンの進化論的な事が起こって、知的生命体が誕生し、その知的生命体が宇宙に拡散していき、地球もその一つだった、みたいな事は無いんでしょうかね?
そして、地球に最初に降り立った知的生命体が「神」という存在で・・と言う事を考えると・・・別の方の回答に辿り着く?

お礼日時:2009/02/16 22:52

>ダーウィンの進化論、確かに学校で教えられましたが、私個人的にはしっくり来ません。

サルから進化して人類になったのなら、現在のサルは数億年先に知的生命体へと進化するのでしょうか?>

 実は僕もそれは思うところです、どうやって進化したんだろう?という疑問が付きますよね、一種の進化を促す作為を宇宙人がしたとかそいうことを予測しても極端に変な理論ではないと思います、フランクドレイクという人が居ますがおそらく100%に近い確率で地球外知的生命体は存在しているだろうと言及していますからそう考えてもおかしくないと思いますよ
 また猿と宇宙人を掛け合わせて作ったとか、宇宙人をそのまま地球の環境に慣らすためにアダムとイブを地球に住まわせたとか、色々考えられますよね、とりあえず選択網は次のどれかであるということですね

・地球上の生命体が進化した
・地球上の生命体の進化を宇宙人が促進した
・地球上の生命体と宇宙人のDNAを掛け合わせて人を作った
・宇宙人のDNAのみでありその子孫を住まわせた
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この回答へのお礼

ご回答頂きましてありがとうございます。

ちょっと考えてみたのですが、「本当の神」(人間の知識では到底認識不可能な存在で物質世界とは違う超次元の存在?)と「擬似的な神」(いわゆる、宇宙から飛来した知的生命体を人間か、あるいは彼らが自らを「神」と表現した)の2つが存在する、なんて事は無いのでしょうか?

そして、キリスト教(何度も名指しで済みません)等で語られている「神」は実は後者なのでは?と思ったりします。
度々で恐縮ですが、「アダムとイヴに禁断の果実を食べるな!」と言っておきながら「あら?食べちゃったの?あれほど言ったのに~。もうエデンから出てって頂戴、お願いだから!」みたいなノリかどうかは分かりませんが、そんな「神」は、やっぱり後者なのでは無いんでしょうか?(本当にキリスト教関係の皆様、済みませんでした。これでも幼稚園時代はキリストの教えを牧師様からご教授頂いておりました)

話が逸れましたね。私は根拠など毛頭無いのですが、あくまでも直感的に、下記の3つ目が「怪しい」と思っております。もちろん、「擬似的な神様」という前提の下に。
そして、「本当の神様」は、その「宇宙人」でさえ抗う事の出来ない、物凄い存在なのでは無いかと思ったります。

・地球上の生命体が進化した
・地球上の生命体の進化を宇宙人が促進した
・地球上の生命体と宇宙人のDNAを掛け合わせて人を作った
・宇宙人のDNAのみでありその子孫を住まわせた

この質問に関して、明確な証拠を提示して「神の存在証明」を行うことは難しいと思っております。
しかし、今回の皆様からの回答を拝見して、少なくとも「本当の神」であれ「擬似的な神」であれ、人間以外の人間以上(?)の存在はいると思いました。

お礼日時:2009/02/16 23:09

補足質問に、お答えします。

宇宙つまり神界は、完全調和の世界です。宇宙が拡大するために、不完全、不調和を、完全調和に変換する、必要があります。そこで不調和を、調和に変換するための、仮の場所として、地球という物質界、三次元界が誕生しました。だからこの世界は、脳と自然が交わる、シュミレーションの世界です。人の数だけ自我があり、争い、戦争ばかりの、不完全な世界です。だからこの世界を、仏教では、神界の実像界から、投影された虚像界といいます。いよいよ地球の仮の世界も終わり、人は神界へ帰ります。 2012年を、順調に迎えるために、日本に別の者が、先に現われて、その調和のパワーの、地均しが行なわれています。だから別の者は、神界の宇宙調和のパワーです。あなたもパワーを体験できます。
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 No.6です。



 神の物語の中から ほんの一節を 抜き出してみましょう。
 あのモーセに語ったというくだりです。

 ▲ (旧約聖書・出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~
  また〔主は〕 言われた。
  ――あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、
   なお生きていることはできないからである。
 
  更に、主は言われた。
  ――見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに
   立ちなさい。
    わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入
   れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。
    わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの
   顔は見えない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いろんな面白い文句がありますから 探してみては いかがですか。
 わたしたちは 《神の背面を見るであろう》と言われたもののようです。

 * かえって なぞを濃くしたかも知れませんが それは いぢわる根性に満ちているわたしの常習手段です。あしからず。
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 一般的にキリスト教では、“神の存在は証明されない”とある文献がありました。

無論、反論もあるでしょう。聖書にも神を“証明する為の記事”は無いようです。聖書は、神自身の啓示や人々の証言の記録とも言えます。では、何故それを信じるのか?との命題が生まれるようです。

 ソドムとゴモラの物語は、その様な事実が有った。それは、阪神淡路大震災のような自然災害であった。それを、当時の人々は神の裁きとして記録に留めた。史実や考古学との整合性は別にして。マインドコントロールと言われるのは、人が人をコントロールする訳で、信者が変だと思わなかったらそのまま信じられる訳ですね。永遠に信じられる場合は、真実になるわけです。理論と証明の関係が成立します。歴史的に見ると産業革命や、宗教改革までカトリックが信じられました。その期間は1000年以上になります。反対論が有ったとしても。産業革命や宗教改革、啓蒙思想などの社会変化を経ながら世界が大きく変わった。では何を信じるようになったか?科学・数学・物理学・医療・心理学などの新しい分野。それを支えたのが経済活動など。

 キリスト教では、神の証明は行なわれ無いのが常識のようです。そして、マインドコントロールは、そうした不信仰な指導者と信者達から始まった。実際は、中間的な人も居たでしょう。

 現代では、阪神淡路大地震や中国四川大地震を、神の裁きと見る人は殆ど無いでしょう。でも人間の知性や理性を超えた出来事に、自然の脅威を感じ、ずさんな工事で壊れた建物を見る時、人間を超えた摂理と受け止めるべきなのかも知れません。東海地震が起こる前に、日本は最大限の備えをするべきだと思います。
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