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マタイ26章31 で、ドイツ語訳では多くが In dieser nacht werdet ihr alle aergern an mir. のように aergern という単語を使っています。辞書で調べたら「怒る」となっていて、「つまづく」の意味が載っていません。別のドイツ語訳では abwenden となっており、こちらは英訳の fall away と日本語訳の 「避ける」と同じです。

聖書協会の日本語訳は、「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」となっています。ある英語訳は fall away となっています。なぜドイツ語訳では aergern が使われているのですか?私の知らない意味でもあるのでしょうか?

A 回答 (4件)

#2です。

少し考えてみました。σκανδαλισθησεσθεのもとになった語はσκανδαλον(skandalon)です。このσκανδαλονを独希辞書で引くと次のようになっています。
*Fallstrick, Anstoss, Aergernis
Fallstrick(動物を捕まえる罠)が原義で、一般にはAnstoss, Aergernisという意味というわけです。ただ、この語は古典ギリシア語の作品ではほとんど使われず、ギリシア語訳旧約聖書(Septuaginta)で多用され、新約聖書でも多用されています。この語の用法で特に注目に値するのがpetra skandaluという表現、これがドイツ語ではStein des AergernissesあるいはStein des Anstossesと訳されます、日本語では「躓(つまづ)きの石」です。この表現はAnstoss, Aergernisのニュアンスを変え、Anstoss nehmen、Aegernis nehmenも「(宗教的に)躓く」のニュアンスを強く持つようになったとように思えます。sich aergernを使っても同じことです、したがって、問題の
In dieser nacht werdet ihr alle aergern an mir.の場合も、やはり「つまづく」と訳した方がよいような気がします。
 つぎのドイツ語のサイトを参照しました。
http://www.soundwords.de/artikeldr.asp?id=562
また、小学館大独和でAergernisを引くと、次のような訳語が載っています。
<<聖>>つまづき(宗教的・道徳的感情を損なうもの):ein Fels des Aergernisses<<聖>>つまづきの岩
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この回答へのお礼

おかげさまで、つまずくとした事情がすっかり理解できました。ちょうど「琴線に触れる」という言葉が「感動する」より視覚的に感覚を伝達できるのと同じように、私も「つまづく」の訳のほうがいいように思います。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/07 10:48

聖書の原典はヘブライ語とギリシャ語、その通りですね。

戦前に神学を学んだある人の言葉を思い出しました。
「聖書の細部に拘り、キリストの言葉が見えなくなっている、分かり易く話しかけているのに・・・」です。

数学や物理の世界の1対1対応が決められている専門用語と違い、日常会話の言葉は多義とも言えます。
この質問に関しては、躓く、不愉快にさせる(離反させるabwenden)、怒る等が有るようです。
興味有るのは、なぜ日本語訳では躓くで、独英では離反と怒るなのでしょうか。日本では原典に忠実だったのでしょうか、
それとも直接的な表現を避けたのでしょうか。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく(離反する、怒る)。(書に書いて有るように)
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』
ここは素直に、「今夜、あなたがたは皆わたしを怒る。『わたしが羊飼いを打つと、羊の群れは散ってしまうからだ』としたほうが、
イエスの言葉を簡単に理解できると思うのですが。

神学を学んだその人は、戦後も変人扱いを受けました。嘲笑的に「群衆がキリストに従い、昼食の頃になりキリストが何も無いところから
食べ物を集め、群衆全員が食べなお余ったという奇跡(荒唐無稽)はどういうことですか」と聞かれ、次のように答えたそうです。
「あの当時、村を出てどこかに行こうとした人々の多くはは何らかの糧秣を携えていたか、中には予備の食料も携帯していたろう。
イエスの呼びかけに応じて、皆が持っている物を素直に出し合い、遠慮しながらも皆で食べ合うことができた。
その話が誇張されて伝わっただけで、奇跡でも荒唐無稽でもない。イエスは、皆にそうさせる人格と神性を備えていたのだろう。」
誰でもが判り納得する平易な語りがイエスの言葉だとすると、日本語訳は残念ながら不自然な感じがします。

小学館大独話が存在する以前に、和訳聖書が有るわけですから、辞典が単に聖書訳文を解説してるだけとも考えられます。
因みに1958年版相良大独和辞典にはそのような記述は有りません。

取り憑かれた眼差しで、信奉者を従え、当時の常識を越え現在も信奉される普遍的な教えを語り、身の破滅に向かって進む青年イエス。
タイムマシンが有れば、彼とドブロクやワインでも酌み交わしながら、神の子とされる心境を聞いてみたいと思います。
イエスと濁酒を酌み交わすサタン息子。亡き変人はどういう思いでこの光景を眺めるでしょう?

久しぶりに聖書を開き、想い出に浸りました。質問者の方、回答者2の方にこういう機会を頂いたことにお礼申し上げます。
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この回答へのお礼

たしかに「今夜、おまえたちは皆私のことでカッカさせられるだろう。」のほうが直接的に意味を伝えられます。私も音楽の歌詞を通じてドイツ語を学んでおりますので、市販音楽CDの歌詞カードについている訳が意訳をしていて、言語の直接的な意味を伝えていないときにもどかしさを感じるときがあります。
「私のことでつまづくだろう」の訳で問題なのは、日本語の「つまづく」の一語だけで「挫折する、スランプに陥る」などの意は表せても「カッカさせられる、憤る」の意味を通常は表せないことでしょう。日本語で「躓く」の同義語でなおかつ「怒らせる」の意味も表せる言葉があれば訳者もそれを選んだのでしょうが、なかったので、訳者は(1)精神的側面を忠実に訳して「怒らせる」とするか、(2)視覚的側面を忠実に訳して「つまづかせる」と訳すか、の二者択一せざるを得なかったのだろうと思います。

これに類した話なのですが、先日NHKの特派員が、GMの労使交渉のことをレポートしていた中で、「ボールは○○のサイドにあります」と言っていました。これは英語ではよく聞く表現で、意味は主導権を握るの意味でテニスからの比喩ですが、日本語では明らかに定着していません。その特派員は英語に接する機会が多いのでその表現からすぐに意味することはわかるのですが、多くの一般人からすると瞬間的に意味がわからないと思います。普通はそういう表現はNHKのレポーターは控えるものなのですが、情報の受け手にとって、視覚的訳が本質的な意味の訳と一致したとき、その効果は絶大になります。すなわち、本来ならNHKのレポーターが、一般視聴者のことを慮って「今や主導権は労働組合側にあります」と言うことで、言語がもつ視覚的表現(テニスコートのイメージが喚起され、一方の側に有利な状況にあることを視覚的に伝えること)を省いてしまいます。しかし、「ボールは○○側にある」という言い回しだけで、受け手に「テニスコートで、ボールが片方のサイドにあること」というイメージを瞬時に理解する環境が備わっていたなら、本質的な意味(ここでは「主導権は労組側にある」)を伝えられるのみならず、視覚的なイメージ(テニスコート、ボール片側)も伝えられることができるなら、訳の言語忠実再現度が格段に上がります。

お礼日時:2009/03/07 11:13

まず、聖書の原文はギリシア語です。

ドイツでもイギリスでもアメリカでも日本でもギリシア語原典から訳されています。決して、ドイツ語から日本語に、あるいは英語から日本語に訳されたりすることはありません。
英語版でかって権威を持っていたのは欽定訳Authorized Versionと呼ばれるもので、それでは次のようになっていました。
Then saith Jesus unto them, All ye shall be offended because of me this night:
 明確に「腹を立てる」という意味です。
さて、ギリシア語原典はどうなっているのでしょう。
τοτε λεγει αυτοιs  ο  Iησουs  παντεs υμειs  σκανδαλισθησεσθε εν εμοι εν τη νυκτι ταυτη
σκανδαλισθησεσθεという動詞が使われています。この動詞は他動詞では「つまづかせる(原義)」から「不愉快にさせる、怒らせる」というニュアンスを持ち、ここでは受動態ですから、「つまづかさせられる、つまづく」、「不愉快にさせられる、不愉快になる」という意味になります。
結局、もとのギリシア語自体「つまづく」と「不愉快になる」の両義を持っているのでどちらにも訳せるのだと思います。原義を強調して訳せば「つまづく」ですね。「腹を立てる」という訳が誤訳というわけではありません。
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この回答へのお礼

よくわかりました。つまづかせる、と怒らせる、の両方の意味をギリシア語は持っていたのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/04 19:22

手持ちのDie Bibel(Deutsche Bibelgesellschaft)にこの箇所の文は In dieser Nacht werdet ihr alle Aergernis nehmen an mich.


と書いてあります。
an jm.(et)~nehmenで或人(事)に付いて憤慨する の意味になります。字義通りに訳せば「今夜、あなたがたは皆わたしに
憤慨する。Sacharja13.7に書いてあるように『わたしは・・・・』と続きます。
聖書を日本語に訳した時に、日本語であまり一般的で無い概念に新しい表現を与えたり、神に対しての言葉使いを工夫しました。
イエスに対して憤慨するという表現は不遜なので婉曲的に「つまずく」と表したものでしょう。
日本で最初に訳された聖書は、当時キリスト教的な神の概念が日本に無かったため、「賢い者がござった・・・」の文で
始まっていると聞いた事があります。
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この回答へのお礼

不遜というのが理由というのも納得です。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/04 19:23

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