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旧約聖書ではアダムは930歳。セツは912歳、エノスは905歳。カイナンは910歳、
・・・・・・ノアは950歳。セムは600歳と大変長寿の人が続きます。

このような年齢の記事。何の意味あるのでしょう。
本当にこんな長い歳月を人は生きられるものなのでしょうか。

今、そんな長生きの人はいませんよね。

ユダヤ教の信者さんやキリスト教の信者さんは、こう聞かれたら、どう答えるのでしょうね。


日本でも100歳天皇。日本書紀や古事記みると、一杯いますよね。

日本ではあれで、みな嘘という論争で喧々諤々でしょう。

皆さまはこういうことを聞かれたら、何て答えるのが正解と思いますか。

とりあえず、聖書の場合について、お答えを戴けるとありがたいです。

西暦とかもああいう形で決められて、後でキリストの生年は4年、いや8年ずれていた。実は紀元元年生ではなく、もっと前の人にされてしまいましたよね。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    まあ、朝鮮の神話では檀君という王は1500年統治して1908歳で亡くなったとありますね。まだこれよりはましな年齢ではあります。
    ほかにも日本神話に出てくる神様はもっと大きな数値ですものね。
    天照大神:105000年
    天忍穂耳尊:1794300年
    瓊瓊杵尊:318542年
    火火出見尊:637893年
    ウガヤフキアヘズ尊:836042年
    318542+637893+836042=1792477
    日本書紀は天祖(瓊瓊杵尊)天下りて神武東征までの年数を1792470年余りとあり、この計算の答えに合う。
    聖書の数値はこちらに比べれば、まだまし。それにしても、昔の神様は長寿ですね。
    どう考えればいいのか分からなくなります。

      補足日時:2019/09/19 17:36
  • どう思う?

    茲は神聖な答えを下さる方を歓迎。馬鹿などの発言はヤジ・罵声とみなす。慎みをお願いします。
    私は坊主&基督教信者にもあらず。唯の庶民。基督教系学校卒業ではあるが、在学資格に基督教信者になることは不要。それなりの学問は受講科目にあり、一応学び、教会もあり礼拝にも行く。邪馬台国は大和朝廷。卑弥呼は祭祀王で古事記の説で崇神帝時代の王たる説を採用。使者の応対をし、使者が統治王と解釈したと判断。祭だけで政は別に天皇が担当。崇神帝は10代。神武帝は初代でもっと古い。考古学的に人は900などの超巨大数値の寿命にあらず120が限界と研究者は言うので、これに従う。一族の寿命という説は拝聴。それなりの説に感謝。建設的意見ありがとうございます。聖書が信仰のための書か、史書かは議論の分かれる処、挙げた年齢は何らかの意味を持つと思うが、かかる長寿とは及びもつかず。それなりの意見を拝聴したく当コーナーを開設。

      補足日時:2019/09/22 05:33
  • 旧約はアブラハムの教えを伝え、モーゼなどの方が編纂と聞く。新約はキリストの弟子が編纂と聞く。キリスト本人が編纂ではない。弟子としての信仰論が含有と解釈。

      補足日時:2019/09/22 05:41
  • 日本書紀では神武紀元は前660年ですが、古事記では崇神帝の時代は258年崩御ですから、古事記と日本書紀は設定年代に差があり、一緒ではありません。古代人の寿命が本当に長寿であったかどうかは疑問が多いのです。皆さま教訓的かつ参考になる意見を下さった方には感謝します。
    馬鹿とか不謹慎な回答はお断りします。慎んでください。

      補足日時:2019/09/23 20:30
  • 一族の寿命とする説や暗号説で今後も考究していきます。皆様ありがとうございました。
    ご意見はそろったようですね。ありがとうございました。

    「聖書に出てくる人物の年齢」の補足画像5
      補足日時:2019/09/24 07:56

A 回答 (16件中1~10件)

ひとつは古典的かつ宗教的・文学的な修辞(レトリック)の可能性を素朴に思います。



たとえば日本人(日本語)の古くからの修辞には「八百万の神々」「八雲立つ」「八岐大蛇」「八幡」など、八にまつわる修辞に特異性があることが多いが、その「八」とか「八百万」は加算や減算に用いる数としての「800万」ではなくて「無数の、かぞえきれない」「すぐれた、立派な、偉大な、神聖な」「あまねく、すべてに、そこかしこに」というような意味。

八雲の八も「幾重にも、あまねく、あちこちに」みたいな意味であって、指折り数えて8をカウントしているわけではない。「千歳飴」とか「千代に八千代に」とかも同じで「とこしえに、永遠に、すえながく、いついつまでも」というような意味になります。

それと同じように、キリスト教に於ける聖書の記法にも「とりわけ偉大な、グレートな/普通の人には到底及びもつかない」ニュアンスを強調するときに極端な数字を入れた可能性があるように思えます。

それは現代人が(金銭主義、物質主義、資本主義、経験主義、実証主義などをベースにしたフィジカルな暮らしに浸りきるなかで)身にしみこませている数量の嵩増し誇張とは本質的に異なっており、そもそもは書き手や読み手(信徒)の小ささを相対的に暗示するテクニックでもあり、内省、敬虔さや謙虚さの表明でもあるのでしょう。

卑近な創作物にもそういうテクニックは継承されています。ジブリアニメ「もののけ姫」の世界においてはオオカミやイノシシは現代のそれらより巨大であり、人語を解し「みんな小さく馬鹿になってしまった」と言います。そういう描き方も、古代神話や原初的な宗教書における数やサイズ(スケール)の記述の特異性に一脈通じているようです。

信仰に基づいて対象への深い畏敬の念を示すときに素朴な心理として発生する修辞記法は単なる「オーバーアクション」とか「誇大広告」みたいな意図で読み解くのは文学的比ゆにいちいち「ありえない」とクレームを入れるようなもので、聖書をあまりにもフィジカルに読解するのはこの場合は不適当であろうと私は思います。特に旧約の世界などは。

また別の可能性としてフワっと思うのは、ユダヤ教のカバラの一種である数秘術やゲマトリアを下敷きにした記法、またはそれらに類似の神秘思想や暗示記法に基づいた「暗示数・暗号数」として記述されている可能性。

カバラやゲマトリアを用いて聖書の言葉を詳細に「解読」あるいは「検証」することは私にはできませんし、そういう趣味もない。しかし数の性質に神秘や重要な法則を見出す人々は一定の割合で今も昔も実在しています。

旧約聖書のルーツを考えたら、そもそもユダヤ教の民(ヘブライ人/ユダヤ人)の母語のヘブライ語(一部アラム語)で書かれていた複数の文書を一巻に編纂しなおしたものが旧約なので、現行の「キリスト数」の聖典として書かれたものでもなかった。数字の記法も原初はヘブライ数字で書かれていたと思われます。

ヘブライ語やギリシア語には各文字に固定の数(数価とか霊数というらしい)が与えられており、文字と数字に一種の透過性や両義性、互換性を持たせています。アラビア文字も同じです。その詳細はゲマトリア等を調べると色々と出てきますので興味があったら調べてみてください。

いったん横道にそれますが、今年は日本でトプカプ宮殿の宝物展示が開催されています。
トプカプの至宝にはチューリップをモチーフにした意匠が非常に多い。
チューリップはアラビア語やトルコ語イラン語では「ラーレ」という発音になるそうですが、その綴りの文字を規則にしたがって計算すると数価が66になり、それはイスラム教の唯一神「アッラー」の綴り文字の霊数と一致するそうです。両者の綴りはアナグラムによる互換性もあるとのこと。

そのうえラーレを逆さまに綴ると「三日月」になるので、イスラム陰暦の測定に欠かせない三日月の暗示もラーレに含まれていることになります。

そういう暗号的事情から、トルコ王朝ではチューリップの栽培や品種改良をスルタンが率先して行った時代もあり、トプカプ宮殿にはチューリップモチーフの美術工芸品が大量にある。コーランの装飾文様にもチューリップは例外的に使用をゆるされる花なのだそうです。
中世トルコ王朝下では、チューリップはただの園芸花として愛でられて普及していたわけではない、明らかに宗教絡みで重要視されていた、ということ。でもそういう真実は、外部の文化圏宗教圏にいる人々にはすぐに見抜ける真実ではないので、予備知識がなかったら、なんで中東はチューリップフェチな美術品工芸品がわんさかあるのか、正しく推理することはできない。

それと類似のことが旧約聖書の年齢の記法にもありえるかもしれないなと何となく思いました。旧約も新約も私たちは原語と原語の文化ベースで読解しようとしているわけではないし、数字も普通にアラビア数字に書き直されている数字で読んでいる。なので、ところどころの言い回しや記法には違和感があるのかもしれません。

数字の記法としては、古代ヘブライ数字は、アラビア数字の記法だと2桁3桁になる数字を一文字で書き表す字も結構あったようです。詳細はネットで検索すると出てきます。アラビア数字では0をあたりまえに使用しますが、ヘブライ数字やギリシア数字には「0」という記法が無かった。そのへんも、聖書の文字読解になにやら深入りする場合には真面目に注目する必要があろうかと思います。

こちらの質問にあげられている寿命を見ると、とりわけ900歳をベースにしているような印象があったり「600」という数字があったりしますが、ユダヤ教~キリスト教文化圏では「3」という数とその倍数は特別好んで使われました。幾何的には正三角形を2つ組み合わせたらダビデというユダヤ教のシンボルマークになることは、あまりにも有名です。

キリスト教に限らないですが、3や3の倍数である6、または9は宗教的な聖性や神聖、永遠性や祝福を示唆することがよくあります。それじたいはキリスト教ゆえとかユダヤゆえというよりは、人類のフィジカルな知覚システムによることで、正三角形のようにシンプルで幾何的均衡のよくとれてる形とか、三分割/三段階の思考を人間が直感的に好むせいではないかと思われます。旧約の世界の人物の寿命数に900歳ベースや600歳という数字を使っているのは、たとえばそういう故あってのことかもわかりません。

日本古代のレトリックに見られるような「8の大きさ、全体性、完全性、無限性」みたいなものも、素朴には2の立方数で幾何的または力学的なバランスがいいことが関係している気がするし、正六角形や正八角形はビジュアル的には真円の暗喩たりえるので、原初的な宗教や建築様式に、その数字や図形を効果的に使うことがよくあるみたいです。正六角形はハニカム構造が有名ですが崩壊しにくい形でもあり空間重点的です。というような性質から「永遠に/安定的な」「すぐれた/完全な」「無数に、あまねく」という意味を帯びるんかなと。

その他、ヒトが天寿を全うした場合は神の意志をあらわしたと見なすなら、寿命数は公転周期(星の運行)によりカウントするので、賢い天文学者たちが複雑な天文的真理をこめて「アダム950歳」という風に何かを書いたんかもしれませんね。まあ私はノストラダムスとかを信じる性質ではないし計算は大の苦手だから、かもしれないね、と思うだけで確認するすべもないですが。

フィジカルな法則とか統計と大幅に食い違ってることについて、ただのインチキとかデタラメとか事実の誇張だと思うことは容易いけど、自分を賢く深くしないというデメリットもあります。ただの印刷物をそのままそっくり書いてるとおりに信じる態度というのも私には無理かな(出版物の文字校正を仕事にしていた時期があるし…学者も僧侶も政治家も普通に誤字脱字もあれば勘違いでトンデモ説を決め付けることもある、誰もがただの人であり神様ではないって当時しみじみ思い知ったので…無論自分もその一人)。

聖書に限らず全てにおいて「正解」なんかは誰にもわからないことかもしれないし、色々な読解の可能性を思うのは、結果的には聖書に熱心に触れて親しむことにもなるので、まあ他者を攻撃する目的とかの悪質性がないなら、自由に楽しい読み方がゆるされているんではないかなーと自分は思ってます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2019/09/23 20:09

No.13だが、


日本古代王朝に対する学者の通説を信じているのですか。おめでたい奴だな。お前は死んでも幸せだよ。
お前の幸せはうらやましいが、唾棄する。
福音書は弟子の編纂ではない。後世のクリスチャンの霊感に優れているものが、霊に導かれて綴ったものである。
常識だよ。お前は馬鹿だな。

お前の(思考上の)幸せは、私にとって幸せではない。
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この回答へのお礼

そういう罵声は慎んでくださいと申し上げたはずです。

お礼日時:2019/09/23 20:09

古代宇宙飛行士説とか


シュメール人説とかは

否定的でしょうか?

神代文字とか
ヒエログリフとか


死海文書なんかも
まだまだ
解明されてないですもんね
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この回答へのお礼

否定せず歓迎します。魅力を感じる説ですね。神代文字もヒエログリフも考究。感謝拝聴。

お礼日時:2019/09/22 05:47

>誇大数値として小さくできたら理解しやすくならないかと考えたいです。


それが、字句どおりに真に受ける、という馬鹿です。
分からないのならば、分からない。お前より賢い考え。
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この回答へのお礼

コメントを参照してください。

お礼日時:2019/09/22 05:34

聖書は字句どおりに読むと間違いを犯すと、知らないんでか。

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この回答へのお礼

だから字句通り解釈せず、誇大数値として小さくできたら理解しやすくならないかと考えたいです。

お礼日時:2019/09/21 18:25

聖書なんだから



現代人の感覚で
読むべきではないと
自覚してますよ
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2019/09/20 07:16

日本や朝鮮の神様は非常に短命ですね。

今の人間の寿命と大差ないと思います。

ヒンドゥー教のブラフマーの寿命は、311兆年です。
ブラフマーよりは遥かに短命ですけれど、道教の伏義は216億年は生きています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/09/20 08:00

キリスト教信者です。

カトリックの皆さんは、どうなっているのかわかりませんが、新教徒ですので、旧約聖書は、とばし読みです。何度か、聖書を最初から最後まで読む、という、クラスをとりましたが、創世記は、一日しか割り当てられませんでした。熱が入るのは、アブラハムが、国を離れてさまようところからです。ユダヤの民を思わせて、示唆的です。で、最終的に新約聖書に来ると、一字一句、検証しながら読んでいきます。

例えば、マタイ伝のこの章は、旧約聖書のここを反映している、といった具合です。旧約は、新約聖書を指し示す、大きな預言の書である、という考えです。

人間は、いかに生きるか、というのが、重要で、私は、新約聖書に書かれていることを選び、その通りに生きてゆこうと決めた。それが、信じるということです。字面ではないです。一般的信者の立ち位置です。

それとはまた別に、聖書学者は、聖書の一字一句を検証しています。現在でも、紛争地であるのに、考古学者は、発掘に余念がありません。

永遠に生きるはずだったアダムが、楽園から追放されたのち、労働と死を享受するわけですが、それでも950年生きます。でも、永遠に生きるはずでしたから、950年しか生きなかった、ということも、できます。代が下がっても900年以上生きていた人間の寿命が、ノアの洪水の時以降、めっきりと短くなる。そして、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の”父祖”と仰がれるアブラハムは125歳で亡くなります。これは、現在でも、長生きではありますが、不可能な年齢ではないでしょう。

で、ノアの洪水以降何が起こったかというと、いくつかの現象がたて続けに起こって、人間の寿命が短くなっていたのではないか、といわれます。環境の変化による、DNAレベルでの突然変異、極端な人口減少による近親交配、など、など。1960年現在では、人間の体の中の一つの細胞を、プレパラートに入れて、養分を与えると、細胞分裂を50回繰り返したところで、死が訪れるそうです。それが、アダムの時代には、500回であった可能性があります。

現在、ごみ処理の不備から、あらゆる生物の体の中にプラスチックがたまっているといわれます。たぶん、今後、私達の寿命は、これからも、どんどん短くなってゆくことでしょう。そんなことを考えさせられる、素敵なご質問でした。

回答としては、研究者でない限り、重要視していない、です。

(蛇足ですが、ユダヤの経典では、ノアの洪水のあと、神は人間を生かすつもりはなかったと書かれているらしいです。手違いで生き延びた。その手違いも、お見通しだったでしょうが、神から託された地球を、あまり、上手に経営しているとは、言えません。)
「聖書に出てくる人物の年齢」の回答画像9
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
何か誇張は感じはします。

お礼日時:2019/09/20 08:02

事実でなく寓話なのだから、それでよいと答えます。



修養書です。
事実がどうだったかは二番目です。
人の心を動かすのが最優先なのです。

仏教の経典によると、
ブッダは母の脇の下から出で、生まれた瞬間7歩歩いて点を指さし「天上天下唯我独尊」
と叫んだそうです。

それだけ高貴な出であること(脇の下から生まれる)を強調し、
世の中や真理を見通す素質を持っていた(7歩、天指呼、絶叫)ということを印象付けたいのです。
普通の人間は、何の変哲もない人間が大をなすより、最初から特別な人間であった方が心に刻まれます。
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この回答へのお礼

仏教の経典によると、
ブッダは母の脇の下から出で、生まれた瞬間7歩歩いて点を指さし「天上天下唯我独尊」
と叫んだそうです

これは伝説で、インドでは高貴な人は右わきから生まれるものであるという説に基づくようですね。仏陀も王侯貴族の王子ですから、そういう位置付けなのでしょう。
天上天下のことは1つは理想を高く掲げ、現実にしっかり足を付けるという表現だったといわれています。(出典:「おしゃかさま」-大道社)

ということで私も誇張表現とは思いますがね。それにしても大きな数値でびっくりはする次第です。
ありがとうございました。

お礼日時:2019/09/19 17:49

旧約聖書は、地球物語と理解しています。

物語なので奇想天外があっても当たり前。

新訳聖書にして、キリストの行いと言葉を口伝えで、やっと180年ほど後に書き物に。180年もの口伝えであれば数年の誤差が出ても何も不思議なことじゃないです。誕生にしたって12月25日ではなく4月。全体の構成が間違っていなけりゃいいんです。重箱の隅をつついて嘘とか大さわぎするのは、日教組思想。

それに、900年とかは、900年も忘れさらることもなく、民の心の中で生きていたです。爺ちゃんには、聖徳太子様がいまだに元気にいきていると感じるようなものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/09/20 07:25

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