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クリスチャンは聖書の教えを守っているのですか?

<例>
教会で性被害21万人超 仏でカトリック神父ら3千人関与との報告書

質問です。
カトリックやプロテスタント問わず、聖書に書かれていることは「努力目標」みたいなものですか?
神様にお祈りするとき、聖書に書かれていることを守れていないことに、自己矛盾を感じませんか?
聖書の守れない部分は、お祈りをすれば神様が許してくださるから、最初から守る努力もしないクリスチャンも多いのが現実ですか?

A 回答 (17件中1~10件)

たぶん質問者さんは聖書を読んだことがないのでしょう。


聖書に書かれているのは神の御子イエス・キリストによる救済です。
もちろん、こうすべしと定めた掟はありますが、
聖書自身がその掟を守り切ることのできる者は存在しないことを語っています。
しかし、自分が神の御心に逆らう罪人であることを悟り、イエス・キリストの十字架による罪からの解放を信じるなら、罪を赦され、救われます。
それだけなく、キリストを信じて依り頼む者には聖霊が注がれます。
聖霊の神が信じる者の内に働き、その人をキリストに似た者に造り変えるのです。
掟に示された善い業は人間が行うのではなく神が人間に行わせるものです。
従って、人間が努力して掟を守ろうとするのは不信仰な態度であり、自力救済を願う人は、そもそもクリスチャンではありません。
必要なのは神の導きを信じる信仰であり、聖書に書かれていることを「努力目標」として神の御手を払い除けようとする不従順ではありません。
クリスチャンのふりをしている人ではなく、本当のクリスチャンであれば、神に祈る時、自己矛盾を感じるのではなく、自分には掟を守ることができないと自覚しているからこそ、より熱心に祈り、罪の赦しと救済を求め、自分が善い業に励むことができるよう、より一層、神に依り頼むのです。
自分の方ばかりを向いて矛盾を感じて苦しんでいる内は、神の方に向き直っていない、すなわち悔い改めていない状態なのですから、その人はキリストによる救済を確信しておらず、半信半疑の状態なのです。そういう脆い信仰は捨ててしまい、堅い信仰を神から頂けるよう、更に祈り続けるべきです。

性暴力を犯した神父たちは恐らく自分を変える努力もしていなかったでしょうが、彼らには信仰もありませんでした。敬虔な態度で人を欺いていたのです。そのような不信仰な人間の事例を持ち出しても無意味だと私は思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

例えば、モルモン教は、戒律が厳しい(お酒、タバコ、コーヒーもダメなど)と言いますが、それらの戒律は、人間が作ったものだからあまり重視しなくてもいいのでしょうか?
モルモン教は、聖書より、モルモン経を読むみたいですが。

お礼日時:2024/02/06 06:56

私の回答にお返事いただきありがとうございます。



あなたの示したデータが正しいとすれば、
それはアメリカ人でクリスチャンを名乗る人の多くが
本当は神を信じていないということを示しているのではないでしょうか。

終末が近づくと戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、そのような中で惑わされずに耐え忍びなさいと主イエスは勧めておられます。不法と不信仰が蔓延るのは預言されたとおりであって、訝しく思うことではありません。

使徒パウロもこう書いています。
「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。
そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、
好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、
作り話の方にそれて行くようになります。
しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、
苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、
自分の務めを果たしなさい。」
(テモテへの手紙二4章3~5節)

あなたも私の質問に答えてください。
あなたは神を信じないで人間を信じ、
勝手に期待して裏切られ、嘆いています。
なぜですか?
もうそんなこと止めたらどうですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> なぜですか?
→何が正解かわからないから、です。

色々と教えてくださり、ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/07 20:34

私の回答にお返事いただきありがとうございます。



質問者さんは、キリスト教国であるアメリカの大統領のしていることに腹を立て、キリストの教えと矛盾しているではないかと書いておられますが、私は逆にあなたに問いたい。人間に一体何を期待しているのですか?

預言者イザヤは主なる神の御言葉を告げてこう言いました。
「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。」
(イザヤ書2章22節)
その人間の中でも権力者は最も神に背きやすい存在です。
詩編の詩人はこう歌って私たちを諭しています。
「君侯に依り頼んではならない。人間に救う力はない。」
(詩編146編3節)
そして使徒パウロはこう書き記しています。
「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、
霊と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、
神の力によって信じるようになるためでした。
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。
それはこの世の知恵ではなく、
また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、
神がわたしたちに栄光を与えるために、
世界の始まる前から定めておられたものです。
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。
もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
(コリントの信徒への手紙一2章4~8節)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> キリストを信じて依り頼む者には聖霊が注がれます。
聖霊の神が信じる者の内に働き、その人をキリストに似た者に造り変えるのです。

→今回のアメリカによる報復攻撃も、殆どのアメリカ国民が支持しているとのこと。
 国民の8割がキリスト教徒です。
→どう思われますか?
 (決してキリスト教を批判していません)

お礼日時:2024/02/07 19:21

私の回答にお返事いただきありがとうございます。



使徒パウロは、「律法は私たちをキリストへと導く養育係であり、
私たちはもはやこの養育係の下にはいない」(ガラテヤ3:24-25)
「キリストは、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」(エフェソ2:15)と書いています。
そして主イエスは最後の晩餐の席で弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とお命じになりました。
そもそも、ユダヤ人の社会でも律法の中で最も大事なのは「神と隣人を愛しなさい」との掟であると考えられていました。
しかし、「律法の掟を遵守することによって神との契約を履行すれば義とされ、天国に入れる」と考える律法主義が聖書の教えを捻じ曲げ、神の憐れみに依り頼むという信仰の本質から、人々を遠ざけてしまっていました。
そこにキリストが現われ、十字架の上で神の愛を完全に顕わされたのです。
自分が罪のために滅びそうになっていることを自覚し、十字架に示された神の深い愛を受け入れて生きるなら、どんな人でも救われます。
戒律を守っているか守っていないかは関係ありません。
そして、キリストを信じる者は、救われるために善行を為すのではなく、救われたからこそ善行に励むのです。
掟が命じているから仕方なく善いことをするのではなく、自由に、聖霊によって導かれるままに、神の御心に適う業を行うのです。
具体的には、分け隔てなくどんな人をも愛し、労り、慰め、励まし、泣く者がいれば共に泣き、悲しむ者がいれば共に悲しみ、重荷を共に担うのです。なぜなら、主イエスがそうやって地上を歩まれたからです。

一方、神に依り頼まず、掟を守っている(つもりになっている)ことを誇り、自分の力に依り頼んでいる者は救われません。
人間が勝手に拵えた戒律はもちろんのこと、聖書に記された掟(それを守り切ることは誰にもできません)であっても、それを守ることで義と認められようとする者は不義なのです。
なぜならそれは、無条件で罪を赦し、救おうとなさる神の御心を踏み躙ることであり、キリストの十字架による贖いの御業を否定する悪行だからです。

以上のことを前提に申し上げますが、
モルモン教が聖書にない掟をでっち上げたのはナンセンスそのものです。
もっとも、カルトを立ち上げるには既成の宗教との違いを強調する必要がありますし、一般の社会では非常識だと考えられるような戒律で縛れば縛る程、教団内の結束は固くなり、信者たちはカルトの教えをますます信じ込み、教祖への帰依の程度も強くなっていきますから、彼らにとって戒律はなくてはならないものなのです。
キリスト教から生まれた異端は全て、キリストを信じない言い訳をたくさん作り上げ、それを体系化して教義としています。
キリスト教に対する恨みや妬みによってできた教えなのです。
モルモン経は教祖の妄想の産物であり、読むに値しない紙くずです。
とは言え、モルモン教徒の信仰は尊重しなければなりません。
悪いのは教祖(という名の山師)ですからね。

結論:モルモンの戒律は無視しましょう。
ただ、これは全く私の個人的な思いなのですが、酒やたばこやコーヒーを禁じる戒律の一体どこが厳しいのでしょうか?その程度の掟すら守れないのは自制心がなさすぎるのではないでしょうか。
嗜好品を敢えて摂取しないことで得られる境地もあると思いますよ。
そうすることで魂の救いが得られることは決してありませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

アメリカはキリスト教の国ですよね?
大統領が就任式で聖書に手を当てるなど、
例えば、最近「米軍が報復で空爆 イランの軍事関連施設など 45人死亡か」
これらについては、どう考えますか?
因みに、現在のバイデン大統領はカトリックのクリスチャンとのこと、国民も約80%がキリスト教徒であり、かつプロテスタントの比率が高く・・・・。
決して、キリスト教の批判ではなく、矛盾しませんか?

お礼日時:2024/02/07 15:21

それができないことでみずかの原罪(出来損ない具合)を思いしらされてるんでしょうね。

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人は元来ろくでもない動物なので厳しい戒律が必要なんです。

それを努力して実行する事で良い人間になるよう努力するのです。そのための宗教です。
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聖書の教えなどマトモに守っていたらキリスト教など信仰していられないっていう部分があるんじゃないですか。


だから、キリスト教の信仰の裏には、数え切れない虐殺や弾圧の歴史があったり、クリスチャンとしての信仰を続けるためには、その暗黒面にはひたすら目をつむって気づかないふりをするしかないですね。

キリスト教というと、弾圧されるスメージですが、ローマの国教になって百年あまりで、逆に他者を弾圧する立場になってるんですね。
映画「アレクサンドリア」

この映画でヒロインを弾圧し殺害する司祭は実在の人物で、現在に至るまで聖人としてクリスチャンに敬われています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/03 20:18

一つ勘違いしている。


聖書は理想の到達点である。
その具現化が守護聖人である。
そこに至れるように努力しているのが信徒である。

努力もせず他人をあげつらってばかりいるやつよりは1万倍マシである。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/03 17:55

カトリックだから問題が大きいと言えます。



カトリック  :神父、神の代理人で教える立場、信者よりも格上。
プロテスタント:牧師、信者と同等。

神の代理人が性加害者ですからね。

まあ、ローマ法王は世界のカトリックの頂点ですが、プロテスタントからすれば、ただの人ですからね。

神父が何をやらかしてもおかしくないということですが。

ただ、牧師は結婚できますが、神父は結婚できませんから、人としての肉欲に勝てなかったのでしょうね。

こういう人にとっては、聖書は性書なのですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/03 17:56

聖書を丸暗記しているクリスチャンはほとんどいないでしょう。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/03 17:56

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