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「チェンジリング」で。
質問1 最初につかまった男の子は刑事によって死体を埋めた場所にて、スコップで自分で掘らされますが、あれはなぜでしょうか?。場所を指定させて、あとは刑事が掘ればいいのではないでしょうか?。監禁されていた(被害者である)子供に対してひどい仕打ちかと。骨が出てきたらようやくやさしくした。
質問2 アンジーは希望を持ってエンディングを迎えます。それは、第二の男の子が「彼は逃げた」と言ったからです。そのあと再度つかまった可能性があることも自覚しつつ。
しかし、第一の男の子はアンジー息子を見たと証言しており、逃げた後、つかまったのかつかまってないのかは彼に聞けばわかるのではないでしょうか?。なぜそうしないのでしょうか?。

A 回答 (3件)

質問1



最初に捕まった少年、サンフォード・クラークは、犯人ゴードン・ノースコットの甥ですね。この時点で、連続殺人の事実はクラークの供述のみです。そしてヤバラ刑事の上司にあたる警部も、この事件を捜査しようという意思はありませんでした。ヤバラ刑事の独断で、クラークを勝手に連れ出したのです。

まずは、裁判所命令がないのに、警察官が私有地を勝手に荒らすということを避けたかったのでしょう。

その一方、部下二人を連れ立ってその場に立ち合わせているので、クラークを暴力などで強要してはいない(クラークが自ら自供したのだから、自らその証言の証拠を差し出す形にしたかった)、つまりあくまで任意の証拠提出ということにしたかった。

そして、これはヤバラ刑事の目的ではないのですが、結果的に、自分で墓を暴くことで、クラークにとっては一種の懺悔、贖罪となった。(だから刑事はやさしくなった)

というのが、あのシーンから私が感じたことです。

質問2

クラークは、「誘拐した少年のうちのひとりかふたりは逃げたと思う」と、最初の供述で語っています。あのあとウォルター少年(アンジー息子)は捕まっていない可能性がかなり高そうです。

しかし、ウォルター少年がどうなったのかというのは、この映画のミステリーとして、決定的な回答は出さないようにしているのでしょう。

現実的には、アンジーはヤバラ刑事に対して、クラークにもう一度事実関係を聞き出すように要求しても不思議ではありませんが、映画としてはあそこで終わり、というわけです。観客が想像する余地を残しているとも言えますし、突っ込みどころとも言えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
質問1:完璧につじつまがあいました。警官は法的に捜査権がなかったわけですね。
ざんげになったというのもわかりますし、演出的にも劇的ですよね。静止してもやめないところなど。

質問2:クラークは、殺したか殺してないかはさすがに明確にわかるのかと思ったのですが、それもクラークにとってはあいまいなんでしょうかね?。

お礼日時:2009/03/05 20:09

質問2について。


たぶん、一番大きいのは、そもそも囚人と遺族が簡単に面会できなかったというのがあると思います。そして、クラーク少年は、殺人の罪で刑務所に入るのだと、刑事は偽ウォルターに語っていました。

ですが、そもそも「主犯のノースコットが、(アンジー演じる)クリスティンと面会できれば、息子ウォルターを殺したと証言すると言っている」という話が持ち上がりますよね。しかし、いざ面会してみると、はっきりとは言わない。つまり、クリスティンにしてみれば、誰から何を聞こうとも、それを信じていいかわからない気分だったのではないでしょうか。クラークから何か聞き出したところで、それを信じられるかわからなかっただろうし、どうせすべてがあやふやなら、あやふやながらも前向きなことを信じていたかったのでしょう。

でも、一番の理由は、クリスティンが語っていたように、「息子は絶対に生きている。理屈ではなく、そう感じる」からであり、それに反する証言などは意味がないと思っていたのでしょう。第二の男の子の話を聞こうとしたのも、ウォルターの生死を確認したいというよりは、意識してかどうかは別として、どちらかというとウォルターの様子を聞きたかったからなのではないかと感じます。

ちなみに、史実ではノースコットの母も共犯で実刑を受けているのですが、この母という人が、ウォルターを殺した殺さないについて、あやふやな証言を繰り返しています。そんな中で実在のクリスティンは、生涯、息子を探し続けていたという記録が残っているそうです。

この映画のテーマのひとつが「信じること」だと思うんです。つまり、誰も信じてくれず、誰も信じられない状況で、何を信じて生き抜くか、ということです。人って、何かを信じないと生きていけないようなところがあります。独り暮らしの女性なら、なおのこと、その信じられそうな何かを探し求めるものでしょう。もうひとつのテーマは「責任」です。ウォルターが死んでいる可能性がどんなに高くとも、遺体を自分の目で見ない限りは(史実では遺体の大部分は薬品で溶かしたそうです)、一縷の望みを託して探し続けるのが、親としての責任だと彼女は感じていたに違いありません。そして、その責任感が、彼女を生かしていたのだと思います。

映画は史実を少し変えていますが、そういう何も信じられないような状況の中で、どのようにして、何を拠り所にして、人は生きていけるものなのか、それを2時間かけて見せてくれた作品なのだと私は感じました。

ちなみに、史実では、クラークはノースコットに性的暴行も受けていたそうです。しかし、映画ではそれは語られていません。性的暴行まで受けたうえに、遺体の掘り起こしまでさせられていたら、警察がひたすら残酷に見えますが、それがないので、贖罪なのだなと、観客は自然に解釈できるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに、アンジーがいかに確信を持って子供が生きているかを信じるに至るか?というのが後半の物語でした。その意味ではあの展開になるのでしょうね。

お礼日時:2009/03/09 00:07

質問1


刑事は男の子の話があまりに現実離れしたものであったため、
ほらである可能性も充分ある、と思っていたわけで、
「そこまで言うなら自分で掘り出して見せてみろ。」
のような気分だったのではないかと想像します。
わざわざ現場まで赴いて穴まで掘った挙句空振りでは不愉快でしょうから。

それから、
男の子の容疑を確定するため、という面もあるのかなと思って見ていました。
後で、"刑事が勝手に掘った"などと言い逃れをされないためです。

いずれにしても骨が出た時点で、男の子に掘らせる目的は達したので、
そこで止めたのだと思います。

ちなみに
"監禁されていた(被害者である)子供に対してひどい仕打ちかと。"
が意味不明です。
第一の男の子は、監禁されていた被害者ではなく、犯行に加わった共犯者です。

質問2
彼に聞かなかったとは言い切れません。
映画は第二の男の子の再会の場をアンジーが去るところで終わっています。
その後で、第一の男の子に改めて聞くことはできたわけです。
ただ、第一の男の子も誰が逃げたかまでは覚えていなかったはずで、
確定的な証言が得られるとは限りません。
あるいは、希望を失わないために敢えて聞かなかった、とも考えられます。
そのあたりは想像の域を出るものではありません。
ただいずれにしても彼女は、生涯希望を失うことはなかった、ということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
質問1:
空振りの不愉快さを心配したわけですね。なるほど。
或いは、「ウソであってほしい」と思ったかもしれませんね。
確かに監禁されていた子どもではないですが、「強制された共犯者」とは、被害者と言っても過言ではないかと思いました。
質問2:
アンジーは死刑前日の犯人に「真実を知りたい」と食って掛かりましたが、それでもなお、「敢えて聞かない」という選択をするでしょうかね?。まあ、わからないですね。それほど、人間の尊厳と愛が極限の状態にある。確かに「あの子(クラーク)が間違えたかもしれない」とは言ってましたよね。

お礼日時:2009/03/05 20:45

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