質問

タイトルの通りです。

文学は何の為に存在するのでしょうか? 社会における文学の存在意義・定義・役割とは何でしょうか? 
無知で大変恐縮ではありますが、他に言い様が無いのであえてストレートに質問させて頂きます。

これにまつわる回答をお持ちの方、意見、ご事情などをご存知の方がいらっしゃいましたら、小さい事でも構いませんので教えて下さい。
同意、反論、ご指摘など何でも結構です。
あるいは私が後述で雑感を記載しておりますので、これに対するご意見があればお願い致します。

尚、私自身は極力本を読むようにしていますが、ここにいらっしゃる皆様方と比べて、読書量は全く少ないであろう事だけ先に申し上げておきます。

佐藤優は亀山郁夫との対談で「文学はインテリと話す為の方便」とバッサリ切っており、私も文学と呼ばれるものに対して、実用にはこの編(会話の種)くらいしか使えないのではないかと思うのです。つまりは実用には耐えないが、芸術的な部分で残っているのかな、と推測しているのですが、そうした場合、大学における文学部の位置が芸術的な位置に行くのかと思いきや、現在はパッと見、実学的な位置に置かれているように思えてなりません。
文学は一見何の役にも立たないように見えるけれども、実はこうした部分でかなり役に立っているんだよ、という部分があるのではないかと現在想像しているのですが、皆目どの部分で現実の社会に対して役に立っているのか分からないので質問させて頂きました。

以下、私が思う雑感です。

1.
「怒りの葡萄」は資本主義における社会的欠陥を問題提起しており、社会に対して注意喚起をするという媒体として役に立っておりますが、これは別に当時のニュースや歴史書でも良い。あるいはその事件を発端とした批判や感想などでも良く、最終的に伝えたいメッセージを搾り出す前に「怒りの葡萄」は不要な描写が多すぎるのです(情景の描写など)。

2.
国語力をつけるというのであれば新書などを読めば事足りるのではないかと思うのです。
無論、基本的な部分で国語力をつける為に必要最低限の本は読むべきなのでしょうが、それが今現在、文学を残す為の理由とするには弱いように思えます。

3.
文学から日本国体の体現の為の下地を作るという実用もあるかと思いますが、
枕草子なんかを読んで「ああ、そうそう」と共感を得たり、
芭蕉の俳句で”閑さや岩にしみ入る蝉の声”を読めば「こんなんあるわー」と思ったり、
そうした感覚というのは文学ありきではなく、日本人として自然に身に付く感覚なのだと思うのですね。
むしろ、日本人の教養としては、古典や名文の前に「学問のススメ」などの社会生活を送る際の気構え入門書のような実学的なものを読むべきだと思うのです。

また、上述で挙げた名文を読む際に感動はあるのですが、それでは近年の文学で良作とされるノーベル文学賞を受賞した川端康成の「伊豆の踊り子」を読んだ時に感動はあるかというと、私見ではありますが感動を受ける事ができませんでした(川端ファンの皆様、申し訳ございません)。

霊長類たる人類が作り得る文化遺産を残す為、あるいは何か人に思想やら感覚やらのテーマを与え、文化的な感動を与えたり、冷酷な事実を突きつける事が文学の役割かなと思っておりましたので、個人的な評価ではありますが、普遍的テーマとしての感動が無い作品郡を書いている方が賞で評価される、といった面を鑑みると、川端康成が世間的に評価されている手前、文学というものの意義というのは私が考えている文学の存在意義と乖離しているのではないのかな、と疑問に思ったのが発端でした。

4.
文章を後世の人の魂が震える綺麗な形で残すのも文学の役割なのかな、とも思っています。
「知もて露西亜は解し得ず。ひたぶるに信ずるのみ。」
「知識を持ってロシアという国は理解する事はできない。ひたすらに信じるしかない。」
という二つの文はどちらも最終的な意味として同じものですが、どちらかというと前者が人に感銘を与える、文学的である、そして上の文を残すべきだと私は思っているのですが、これは当たっているでしょうか? 

伊豆の踊り子、斜陽、シェイクスピア4大作品、カラマーゾフの兄弟(現在は上巻のみ読了)などを読み、時間を浪費した、という感じが拭えません。
この文学というジャンルはこれからも読む意義や意味があるのだろうかと、時間を割いて読む必要があるのかという疑問が沸いております。
そこで、文学の存在意義、意味を知れば、そうした観点から文学の実用的意義が見出せるのではないかな、と感じました。

乱文になってしまった部分もあるかと思いますが、どなたか思う所がある方がいらっしゃいましたら、ご教授頂きたく宜しくお願い致します。

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回答 (4件)

文学がいらないって言うなら、
数学も化学もいらないと思いますけど。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

個人的意見になりますが、「実学なんて社会に出てからいくらでもできる。真理を探究するなんて事は大学という機構だけでしかできないぞ」と言う言葉をどこかで聞きましたが、”真理を探究する”という点において文学が存在するのであれば、それは最終的に実用として耐えうるものでなくとも、人間の教養として、あるいは我々万物の霊長たる人間が残し得る創作物としてあるので、意義はおおいにあると考えています。

但し、「真理を探求する」、あるいは前の回答の御礼・補足の言葉を繰り返すと「テーマの核心へ迫る」または、「霊長類たる人類が作り得る文化遺産」「事実描写による哲学的思考の誘引」「利器」「美」と研究対象とすべき作品以外にも、多くの作品が文学賞を受賞している。あるいは評価されているように思えるのです。

ここで私が知らない文学の評価尺度なるものがあるものかと、その意義、定義を教えて頂きたい為に質問した次第です。

※全体への補足:
「怒りの葡萄」は余計な描写が多すぎると書いたのですが、客観的に再度自身の考えを考察した所、ニュースや歴史書だけでは、その当時の人々の心情がどうなっているのかというのが分からない。
小説形態での事実描写が非常に有用である事が分かりました。

文学の存在意義あるいは価値については大冊の本でも納まりきれません。私の考えでは、人間の肉体が3次元的な制限で縛られるのに対し、意識は4次元を自由に飛び交う快感があるからです。
 宇宙の果てから、原子の内部まで、ビッグバンから、地球の超新星爆発までも簡単に移動できます。
 そして人間が63億もいれば、その数に比例して4次元の種類があるのです。
 いってみればなんでもありです。あとは品格の問題です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>文学の存在意義あるいは価値については大冊の本でも納まりきれません。
体系図を起こしてその樹形図の枝葉末節まで書くのであればその通りかと思います。
ただ、その樹形図の見出しで、ANo2さんへの御礼・補足にも書きましたが、
文学の意義・役割
┣(1)思想・哲学性
┣(2)感動性(魂の救済として価値があるもの)
┣(3)情報性(未知の情報の社会への展開・摂取)
┃ ┣社会事実の公開
┃ ┣新しい言葉の造成
┃ ┃・・・
┃ ┗その他
┣(4)芸術性
┣(5)娯楽性
┗(6)その他
といった形で、この下の階層で更に細かく分けて書け、ここで評価を与える事ができるのではないかと。
そして、私がその存在に意義を見出せなかった川端氏と村上氏の作品は、
上の(1)-(5)に当てはまらないので、他にきっと文学的に評価できる要素があるのだろうと考えた次第です。
もしくは(4)芸術性の部分で趣味が違う為に自分がその作品の良さが分からないだけなのかもしれません。

>いってみればなんでもありです。
そうですね。多様性は確保しなければならないと思うのですが、テーマが無い文章の存在意義を問うても良い、
そして人が享受すべき知性を時間の無駄なく摂取する為に、一定の尺度で評価を与えるべきだと思います。
私はこの辺が文学賞の授賞理由となっているのかと想像していたのですが、
審査員の考えはどうも違うように感じられるのです。

1.

フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。
情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。

これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現実らしく見せるためだけに書かれる描写もありますが。

言いたいことを物語に仮託する作家の中には、自分のことを直接言うのが気恥ずかしいと思っている方々がいます。照れ屋さんなんです。そういう方々は、物語の中の「私」とか「彼」に自分の意見を言わせるんですよ。物語だと「神を信じる」「神を信じない」というような矛盾した考えが同じ人間に生じたときにも、別々のキャラクターに言わせることができます。そうすれば無神論者だとかつっこまれても言い訳が可能です。
言論弾圧されている場合もしかりです。太宰とかあれな作風なのでナルシストとかいろいろ言われますが、戦時中に戦争礼讃の文学なんて一行も書きませんでした。

何を言いたいか、ということよりも、物語を通して、読者にある世界を追体験させたいと思っている作家達がいます。
ミヒャエル・エンデは読者にこう問いかけます。

「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?」

安部公房はインタビューでこう答えます。

「日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べられるという前提、思いこみ。ぼくの作品も教科書に載っているんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答えられない。 ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。 小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。際限なく読み尽くせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は」

二人ともカフカに強い影響を受けているのは、興味深いですね。

2.

まあ、役に立たないと言えば、立たない。単なる趣味です。でも古典を読むようになって、ときどき身につまされることがあります。それは、今私達が何気なく日常的に使っている言葉でも、昔の作家が発明したり、頑張って翻訳した言葉だったりする、ということ。
例えば、「猟奇」は「curious hunting」を、佐藤春夫が訳したものです。

3.4.

実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。
文学って、そんなどうでもいいものに似ていて、誰にでも届くものじゃないと思っています。メッセージボトルなんですよ。同じように思っている人間には届くけど、届かない人間もいる、みたいな感じ。要するに合わない人にはとことん合わない。川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。

私が大好きな作家に開高健という方がいて、なぜ書くかと聞かれたときに、「助けてくれのひとこと」だと言っています。また、どんなに絶望的なことを書いていても、字でものを書いている限り、作家はヒューマニストなんだ、とも。
信じられないかもしれないけど、世の中に絶望しきっていて、書かないと死ぬってタイプの人間は確実に存在します。
愛する妻の死後に広島で被爆した原民喜、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レヴィ……
二人とも最期は自殺してしまったけれど、本当に物語を書いていてくれて良かった、と私は思います。

こんな風に必死に文章を書くことで、精神的危機を乗り越えている作家が特に多いのは、文学、今では純文学と呼ばれている分野なんですね。なぜって、絶望的なことだけを書いてもエンターテインメントにはなりにくいから。だからサブカルチャーを楽しむことが多い私は、純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。

思うところを書いていたら、長文・乱文になってしまいました。読みにくかったらすみません。

この回答へのお礼

> サブカルチャーを楽しむことが多い私は、
! 純文学はサブカルなんですか! てっきり文化としては細々とはやっているがメインの方かと思っておりましたが・・・。

>純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。
同感です。社会において何故あの地位を確立できているのかがちょっと分かりません。
自分なりに考えたのですが、音楽業界に例えると上手く説明できそうな気がします。

音楽にもクラシック、オペラからアイドル歌謡まで様々なジャンルが有り、
これらがそれぞれ純文学、大衆文学に相当するのかと思います。

しかし、音楽はクラシカルなジャンルと大衆音楽は完全に分離されており、
秋元康さんとつんくさんなんかはクラシカルではないと容易に判断できますが、
個人的にパッと見ると、一般人には文学というのは普段接する事が無い為、
秘密のベールに隠れていて神秘的なイメージを覚えて、皆すごいのだな、と
思い込んでしまう。

私がそうした中で現代の文学作品をいざ読んで見ると、
『オナニーしてセックスした。相手が死んだ。』
『出会った踊り子にドギマギ』
『没落華族が遊ばれて子供ができてしまった』
『ホモにキスされて学校中退して死んだ』
などと書いており、何の意味があるんだこれは、となった訳です。
全く共感できないし、読み物として面白くないし、為にもならない、テーマの核心にも迫らない。
流行歌を書いているだけなんじゃないかと。
もしかして読む本に関しては立て続けに貧乏クジを引いたのかもしれませんが・・・。

読書量が足りない時点でこんな事を断言するのもマズいかもしれませんが、ここら辺が現代純文学を読み止める為の引き返し地点なのかな、と。感動を与える、人間の原点をえぐり込む、という部分においては現代純文学の有用性が無いように思えます。
その他、良質な教養と娯楽の集約として山岡荘八や塩野七生、教養として渡部昇一、世界情勢を知る事のできるノンフィクションとして佐藤優、完全なエンターテイメントとして舞城王太郎、森見登美彦などがあるでしょうが、これらは純文学に入れられないでしょう。

後は落語や古典が洗練されているのでそちらの方面に読み進めようかと思っています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
無用な描写にこだわりがある、というのは理解できました。
私は読むものの立場を尊重した形で文学作品が作成されると思っていたのですが、芸術という観点から見た場合、文学における作家の人間臭さを表現する為の作者の自己主張の余地が残されているという事ですね。作品の自己主張と公共性のどちらに軸足を置くかという点で、自己主張寄りの作家達に対する許容といったものが文芸を読む方達に許容されているように思えます。
それが新しい方向性を与えんが為に、公に理解されなくとも作者がチャレンジした結果であれば良いのですが、今の文学にはそれが無いように思えます。

キャラクターに複数の主張を持たせるという点についてはOKです。
ただ、安部公房の主張を読んでしまうと、それでは文学というものは必要ないのでは、という感覚が拭えません。
無限の情報も体系的に整理し、そこにテーマを見出す事により、文章に意味のある生命が生まれる。
生命に置き換えて言えば、テーマというコアがなければそこにあるのはただの蛋白質だけであり、生命としてなり得ず、ドラマが生まれない。
大意=主張=テーマとするなら、一貫したテーマ(大意)がなければ文学としてある意味が無いように思えます。
これは最近の作家全般に言えるように思えます。
カフカは未読なので、読んでみます。

> 実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。
あります。それこそが人間である証です。このテーマの極大点は、最終的には魂の救済という部分につながるかと思います。
では現代にそうした人に感銘を与えうる文学はあるのか、と言った所で個人的に疑問を憶えているのです。
現代での賞を受けている有名な文学作品とされるものについて、そうした人の琴線に触れるものがあるのかと疑問に思うのです。
ただ、私が求めうるもの、慰めてくれるものが、繰り返しも含みますが、テーマという球体の中心に不恰好ながらも切り込んでいって、世界の真実の回答を求めうる作品なのですね。セネカの「人生の短さについて」等は直球で良いと思います。しかし、表現は悪いですがテーマという球体に羽箒でさらりとなぞるような、格好が良くて誰も傷つかないという行為に癒される方がいるのかもしれません。
無論、文学自体の革新や改革を目指した結果で今現在はこうした体系になったのでしょうが、純粋に文章を読む形でみると、テーマが無い文章に意味があるのかと。

しかし、美術に心が癒されるような形で文学にもその役割がある、と解しました。

> 川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。
ここで私個人の意見になるのですが、私にとっては川端は×でございました。太宰はもう少し読み込んでみようかと思います。他は森鴎外○、谷崎潤一郎○、武者小路実篤○です(著作全て読んだ訳ではありませんが・・・)。が、邦楽で言うと平松エリ「部屋とYシャツと私」やGreeeeeN「愛唄」を聴いているような薄っぺらでテーマが見えて来ないものがあるのも事実です。もっと三輪明弘「ヨイトマケの唄」のように魂をえぐり込めよと。
トルストイはNG。人生論では「人生とは○○である~」の○○に文字を羅列しているだけとの指摘に読むのを止めました。
面白文体の舞城王太郎、森見登美彦はOK(ここは文学と呼んでいいのか微妙ですが)。
山岡荘八、塩野七生、童門冬二は好きです。人物史、歴史を物語にする事には有用性があるし読み物として面白い。
ヘッセはあってもなくても良いが、よく分からず。

私の魂を救済してくれたのはゲーテと福澤諭吉だけです。

ここで、文学の意義・定義を私なりにちょっとまとめますと
文学の意義・役割
┣(1)思想・哲学性
┣(2)感動性(魂の救済として価値があるもの)
┣(3)情報性(未知の情報の社会への展開・摂取)
┃ ┣社会事実の公開
┃ ┣新しい言葉の造成
┃ ┃・・・
┃ ┗その他
┣(4)芸術性
┣(5)娯楽性
┗(6)その他
という形になるでしょうか。

現代における純文学作品の大半、9割以上からは魂の救済が得られない、芸術性、感動性、テーマの存在が認められないというのが私の結論です。
回答で記載頂いた、開高健、原民喜、プリーモ・レヴィは私は未読ですが、回答を読ませて頂いた限りですと、魂の文学に近いものがあるので、これはそれなりにテーマを含んだものなのだと思います。
メッセージ性、テーマ性を含んだものは文学として有用なのだと私は思っているのですが、シェイクスピアなどは個人的に話しのタネとする以外には有用性を憶えないのです。

「文学」という言葉自体が誤解を与えかねないつくりになっています。
質問者様の長文を拝見し、貴方が疑っておられる「文学」は、どうやら日本人が最初に創りだした「文芸作品(いわずとしれた”源氏物語”ですね)」、主として小説といわれるジャンルの芸術のことを仰っておられるようです。それ以外にも、役に立たない文芸は小説よりも長い歴史を持つ詩作品がありますが、当然ながら貴方は詩といわれる文学そのものの存在自体も否定されるのでしょうね。
それらの効用としては、既に貴文中で書かれておられるように、人間の言葉による芸術作品、文化遺産としての存在があげられるでしょう。その通りだと思います。
皆分かっていて、にもかかわらず、こうして文芸というものを否定される貴方の意図はなにか、私なりに考えてみました。
ひとつは、一般に言われる膨大な文学作品中で貴方はたまたま出遭われたものに恵まれず、ゆえに感動されることがなかったということがあると思います。芸術というものはなかなか個性的なもので、ひとりが素晴らしいと思っても、他の一人がこれを取らないということはよくあることです。ドフトエフスキーや川端康成にしても、一応世間でかくれもない評価を得たものですが、これを無価値だという人間が現れても不自然ではないと思います。それは貴方の個性のひとつでしょうね。
でも、これをもって世にあるすべての文芸を否定されるに至ったことは、あなた自身にとっても非常に不幸なことだったと考えます。
これだけの理路整然たる思考と文章がつくれる質問者様でありますから、多分、文芸のみならず、美術や音楽芸術なども全否定されることはないのではと思うのですが、どうなのでしょうか?世にある美しいもの、実用にはならないけれどどうしても心惹かれる美しいものの存在を貴方が知らないわけはないと思うのですがどうでしょうか?世の経済活動が全く実用的であることだけで動いているわけではないこと、多少家事には疎くても美人であるということでそうでもない多くの女性たちよりも愉しく幸福な人生を送った人々の少なくない事は事実として認めていただけるでしょうか。
佐藤優というひとを私はあまりぞんじあげませんが、確かに多くの芸術作品についての知識を、ただ自分を飾り立てて他人と差別化する道具として使っている人たちもおられるだろうことは分かります。しかし、そういう事実をもって、人間が営々として創り上げてきた作品群を無意味であると一蹴する理由にはならないと思います。
特に、人間が知性を持ち、有史以前からの膨大な知的財産の蓄積を可能にするに至った言葉という道具をより鋭く、緻密に、高度な利器として磨き上げる力になった文芸という芸術の存在は、他の芸術よりも数倍実用的なものとして評価するべきであろうと私は考えます。
「学問ノススメ」に代表されるいわゆるハウ・ツーものも確かに社会人の即効薬として有用なものではありますが、最近のケータイ小説を含めて、世にある少なくないひとたちがこれを愉しみ、感動し、涙を流していることは事実です。要は、質問者さまは、まだ自分の心にしっくりくる文学作品に出遭っていないだけだと思うのですが、どうでしょうか。もうすこし別の作品も読んで見ようという気にはならないでしょうか。
「怒りのぶどう」は私が高校時代に徹夜で読み、感動を受けた小説です。私達は、ただ金儲けのためだけに生きているのではなく、時には感動したいという衝動から時間を割いて未知の小説を読むことをします。もちろん落胆することもありますが、ハウ・ツーものの読破より数倍の様々な人生の教訓を得られることも多く、そういった充実した時間をそれら小説から得られることもしばしばです。小説の存在理由とはまずそういったところにあるのだと私は考えています。

この回答へのお礼

質問を投稿した後に、余りにもストレートな表現で殴りこみをかけたような記述に非難の嵐が来るかとヒヤヒヤしておりましたが、ええいままよ、これでなければ自分の心にかかっている靄が晴れない、という感じで削除せぬまま置いておきました。このようなご回答を頂き、モヤモヤは晴れておりませんが嬉しいやらほっとするやらです。ともかくも回答ありがとうございます。
ファウスト冒頭の言葉を借りれば、劇団座長のどういう劇をすれば良いのか相談させて欲しい、という言葉に、詩人が「数十年経っても面白い、と言えるような世界の真実、物事の核心を伝えるような劇が良い」と応えるのに対し、道化が「そんなものは関係無い、今面白ければいいのだ、それでなければ劇とは言わん」と言ったのが文学に対するゲーテの回答のような気がしますが、これも少し現在ある文学の定義の中心線からは外れているのかと思います。

尚余談ですが、佐藤優さんについて少々説明致します。
この方は外交官で活躍し、現在は文筆業を中心に活動されている方で、インテリジェンス(昔風に言えばスパイ)の世界と外交上何度となく交渉されてきた方なので、超がつくほどのシビア、ストイックなものの見方をし、実学を体現されている方と言っても良いかと思います。鈴木宗男氏の逮捕の時に外交の偽計背任で逮捕されてしまいましたが、エリツィン体制時のロシア外交で世界各国がロシアとのロビー活動を展開している中、この方が、神学、哲学、歴史、民族、宗教、国際情勢など自身が持っている巨大な知の体系を持って交渉に当たった為、日本が各国を出し抜いて最もその中枢に食い込む結果を見せました。勿論、文学に関してもロシア文学、日本文学、宗教書、哲学書、経済書を中心によく読みこんでおり、最近話題のあった、カラマーゾフ亀山訳と他の方の訳も、亀山氏との対談時に比較されています。

この回答への補足

丁寧なご回答ありがとうございます。
感動を得る為に文学があるとのご回答ですね。

一寸補足させて頂きます。
少し言葉足らずでありました。私は文学作品を全否定している訳ではありません。
芸術・美術に関しては、これは後世に残すべき価値あるものとして、無学ながらも一定の理解を示しているつもりです。
ダヴィンチの"岩窟の聖母"は必ず後世に残すべき作品だと思っています。
ターナーの"雨、蒸気、速度"も同様です。人間が表現できる既成概念にチャレンジした結果が分かります。
興福寺阿修羅像は日本が出した傑作であります(本来戦いに明け暮れる阿修羅ですが、正面からだと良く分からないが、少し斜め横から見ると悩んでいる顔がよく分かる)。これも同様に必ず後世に伝えなければならない作品です。

かつ、文学でも芭蕉の句や、あるいは枕草子、西行の句「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」なども素晴らしいかと。
繰り返しも含みますが、上記の文章は霊長類の一人種である日本人が成した芸術品として、必ず後世に残すべき作品郡だと思うのです。
こうしたある種の"テーマ"を含んだもの、人を感動させるものについては評価を受けるべきだと思うのです。
時代の洗礼を受ける為か、洗練されたものは昔の文化に多いように思えます(駄作もあったでしょうが)。

翻って、近年の作品を見てみると、そうしたテーマが無い、あるいはテーマ性の薄いもの、テーマが分からないものに関して賞が与えられている。これは何故か、という疑問が沸いているのです。感動も何もなく、それでは過去のものと並べてみると価値があるものなのだろうかと悩むのです。
テーマ性が濃い、ゲーテやサン・テグジュペリが評価されるのは分かります。
では、飽くまで私から見た際のお話なのですが、テーマの無い作家達が何故評価されているのでしょうか。
村上春樹を例に取りますと、飽くまでテーマという球体の表面をなぞるが如き文章であり、これがこの時代を象徴する文章であった、美であったとするにもただそれだけであり、それ以上の評価は受けられないように思えます(私の想像力が足りないだけなのかもしれません)。ただ、美であるならばテーマという球体の中心に切り込んでいかなければならないのではないかという思いで、個人的に考え込んでいるのです。

> 膨大な知的財産の蓄積を可能にするに至った言葉という道具をより鋭く、緻密に、高度な利器として磨き上げる力になった文芸という芸術の存在は、他の芸術よりも数倍実用的なものとして評価するべきであろうと私は考えます。
ここですが、最初の質問に回帰すると、文学の定義は何か、社会における有用性は何か、という事を言えば「利器」か「美」か「(芸術としての)表現方法の挑戦」か、あるいは「霊長類たる人類が作り得る文化遺産」「事実描写による哲学的思考の誘引」という所でモヤモヤしているのです。回答としては上記の要素が複合されたものが「文学の価値」なのでしょうか? 
かつ、上記点の観点から見ても私は川端や村上(春)が評価できないので悩んでおります。
※文学の価値としての要素が他にもありましたらご教授下さい。

ただ、そうした表現技法を持つ川端や村上(春)を美として捉えている方が大勢いらっしゃり、且つ私はそれを美として捉えられなかったのが原因なのではないのかな、と推測しています。東南アジアのアルカイックスマイルは私は特にどうとも思わないのですが、欧米の人間等が新鮮な美を憶えるようなものでしょうか。
美術などでは、古美術を愛する人間が、アンディ・ウォーホルやジャクソン・ポロックを否定するのにも似ていますが、既成概念を超えた新しい表現方法としての思想の結果として、私はこれを評価する事ができます(キュビズムは未だよく分かりませんが)。
翻り、音楽において現代クラシック「Mycenae Alpha」等を聞いてみますと既成概念を超えた新しい表現方法だとは思いますが、これに感銘を覚える事はできません。純粋なポリリズムの方が表現技法としては既成概念を打ち破ったものとして価値があると思います。私が現代文学に納得できないのはこの辺りに似ているのかと反芻しています。

> もうすこし別の作品も読んで見ようという気にはならないでしょうか。
今手探りで今探している所なのですが、今一つという所です。お金と時間があれば、山岡荘八と塩野七生を片端から買ってみようかと思いますが、貧乏暇なしと言った所でして。
思えば私は現代における映像の洗礼を受けすぎたのかもしれません。遠い昔、小説が主流のエンターテイメントとして認知されていた頃と比べ、私は幼少から社会人に到る迄全く本を読まなかった為にこうした消化不良を起こしているのかもしれません。

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