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いつもお世話になっております。

「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか?

要求の有無、期待の有無等に関わらず、誰かから「与えられる」事と物。
与えられた、行為そのものに気付くか否か?、や
与えられた事と物の内容や質も問題になるかと思いますが。。。

勝ち取る(獲る)に関しては、自分の意志と意識の上での結果ですので「気付き」については問題無し。
「事と物の内容や質」が問題となる場合は責任感の問題?とも思います^^

さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。
片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。

私はこのように感じているのですが、これについてどう思われますでしょうか?
やはり二つは同等/同価値ではないのでしょうか?

*「与える」と「勝ち取る(獲る)」ではありません。
 今現在自分の手中に有るものを入手する過程についての話です。

前提となる「与えられる」「勝ち取る(獲る)」と言う行為についての問題点/設定の甘さのご指摘でも構いません。
よろしくお願いします!

A 回答 (25件中1~10件)

お久しぶりです。

体調のほうはいかがでしょうか。

あれは、あなたにしか作れない歌だと思いました。
なかなかに良いですね。 次も秘かに楽しみにしています^^

>生まれたての我が子は小さくて弱々しくて皺だらけで可愛くなくて(汗)なーーんにも出来なくて。。。母なる私はそれを逐一補い、護り、与えて大きく強く丸まると可愛く(笑)色々出来るように育てて来たのです。
>。。。が、それをやったのが「やってあげた」のは母の私だよ!なんて思えないのです。
彼らは「そうなるべくしてそう育った」のであって、私は出来るだけ彼らの成長の邪魔をしないように、妨げないようにとだけ思うのです。
>寧ろ、私の方こそ「害をなす」のでは無いか?と心配でもあります。

いや~、母親っていうのは、子供から教えられることが多くて、秘かに自らダメ出しすることってあったりなんかして。
みなさんそうなんじゃないでしょうかね。
我が家の上の子なんて、ミニ・ニーチェと化してますよ。
まあね、大変でございます(笑)

>「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか?

はい、わたくしは「恵まれている、幸せ」という点においてはまったくもって同等だと思います。
愛しい子供達に囲まれて。それだけで、本当に幸せではないかと。
あなたもね。
…あ!夫たちもいましたね、彼等を忘れちゃイケマセン(笑)

今回も何にも回答になっていなくてごめんなさい。
ま、いつものことということで一笑に付して下さいませ。ではでは♪
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この回答へのお礼

すっかり遅くなってしまいましたが、頂いた回答は多分すぐに拝見しているのです。汗
本当にありがとうございます!(歌への批評も^^)

>まあね、大変でございます(笑)

ふふ。。。はい、その通りですね。汗
たった今も下の二人が「う○こ2連発」してくれましたし、
昨夜は台所の床に片栗粉で山を作ってくれました。涙

>「恵まれている、幸せ」という点においてはまったくもって同等

ああーー!このくだりで思い付きました!
もしかしたら、もしかしたら、、、「恵まれていない、不幸だ」と思った時に「差を感じる」のかも知れません。

勿論「自分に不足するもの」を強く感知して、それを補って「より幸せになる」試みは人生においてとても大切です。
でも、私が感じるように「与えられる、と言う事を過度に軽視」したがっている(様に私には思える)人たちと言うのは、あまり「幸せいっぱい♪」には見えない事が多い気がするのです。

そして、ひたすらに勝ち取る事に主眼を於いて必死になっていた(汗)頃の自分も、やっぱり「あまり幸せじゃなかった」と思うのです。
と言うか、「幸せに気付き難かった」と言う感じでしょうか。。。^^

>今回も何にも回答になっていなくてごめんなさい。

いいえ、
いつも何か「足元に気付かされる」回答を頂いて感謝申し上げます。
ありがとうございました!

お礼日時:2009/05/29 15:12

 ユッキンさん こんにちは。

No.7&11 bragelonne です。

 ★ 《与えられる》
 ☆ のが ほとんど全部である場合の人生〔の一齣〕を描いたものです。果たして どう捉えるべきでしょう?

 〈STRANIERI〉

 目の鮮やかなサルタンバンコ

 三角帽子のサルタンバンコ

 トビリシはどうだった?

 次はトラブゾンかい?

 サルタンバンコの口紅が舞って

 サルタンバンコの微笑みが揺れる

 馬車の家のサルタンバンコ

 車輪が軋むよ サルタンバンコ

 弟が泣いているよ サルタンバンコ

 継母が怒っているよ サルタンバンコ

 顎が綺麗だ サルタンバンコ

 ミニが素敵だ サルタンバンコ

 悉曇文字のお通りだ 

 雨は嫌いだ サルタンバンコ

 踊る幌の中で

 明日の心を占っておくれ

 サルタンバンコ おまえの耳輪が傾いて

 おまえの黒髪が回るよ

 ごらん あれがロードスだ

 海の向こうに 年が明ければ いるよ

 さあ 馬車を降りて

 サルタンバンコ ごはんにしよう

 鼻の大きなサルタンバンコ

 サルタンバンコのマントは小さい

 ベルガモの城は 懐かしいだろ

 明日はウシュクダラまで走るか

 サルタンバンコの頬が染まる

 真赤な夕陽に サルタンバンコ

 明日の心はもう出たかい?
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ユッキンさん、こん〇〇は。

丁寧なお礼を拝読したぽこぺろぼです。

 お飼いになっている蛙は、小動物を勝ち取ったつもりでいるでしょう。小動物は自らを蛙に捧げて(与えて)いますね。しかし、蛙に小動物を与えたのは、他でもないユッキンさんなのです。ユッキンさんは、蛙の飼育ケースを司る《神》です。そのユッキンさんは、この世界に与えられたもの(小動物)を勝ち取ったからこそ、蛙に与えることができたのです。このしくみを作ったのが神です。

 しかし、与えることと勝ち取ることに等価性がない根拠は、両者が《対称対偶関係》にないことです。対称とは、相互に対応して均衡していること。対偶とは、《対》になっていること、一揃いのことです。男女がこれに当たります。男と女はどちらが重要ですか?

 先天的に与えられて、勝ち取らなくても、存在可能な以上、与えるほうが割合としては大きいに違いありません。これが二者間の対戦ゲームであれば、《対称対偶関係》が成り立ち、両者は等価であると証明できます。

 与えることと、勝ち取ることを対比させる発想は、興味深いものがありますが、等価性は見いだせません。しかし、与える側と勝ち取る側の役割分担や、力関係に言及すれば、素晴らしく有意義な対話となるでしょう。私も負けずに勉強します。
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済みません、22の補足です。



ちょっと言葉足りなかったと思って追加です。

受動能動が、元々自然現象だ、というのは、
つまり、受動でも能動でも、こちらがそう解釈することで、初めて、そのシチュエーションは、受動になったり、能動になったりする、ということです。
つまり、する必要のない解釈をしてしまうことが、今を生きていないこと、になるかなーと。
受け身の場合でも、感謝の気持ちを抑圧する、という余計なことをしてしまいますし・・・。

追加でしたー。
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こんばんは。

#19ですー。
補足に対してです。遅くなりました。

質問いただいたのは、でも結構本文に書いてたつもりなので、それを書いて、また感想をいただけたらと。

1.この「レベル」について

前回すごく理想論を書いたんですが、
普通そんなうまくはいかなくて、レベルが下がる、というか、まあ普通の場合は、
受身、与えられる場合は、「もらって当然」と思ってます。
主体性能動のときは、「僕が自力で獲得した」と感じます。
こうなると、この2つをまとめると「あなたのものは私のもの、私のものも私のもの」という感じになりますねー。
ほんと人事じゃありませんが。
主体的に勝ち取ったときは「やったーうれしー」ということで、親しい人と喜びを分かち合えればいいなーと思いますし、
与えられたときは「ありがとー」と、ただ言えればいいなーと思うんですが。なかなかこんなのが難しいです。

2.位置関係、崩れ方の問題
>それは雨が降ったり、空が晴れたりするのと同じ自然現象
と、書いたんですが、そう感じません?
言われている認知のゆがみって、ただの自然現象を、何か別のものだ、と思われてることじゃないのかな? とちょっと想像したんですが、あまり自信はありません。

上のように、素直にありがとーといったり、やったー、というのは、普通ですが、
その上にさらに感情が乗る=自我ができる、自然体を失うのは、自然現象に対して別の解釈をしたくなる、というのは、別の心理的な問題だと思ってます。
それは、自己を成立させることで、喜怒哀楽を改めて感じにいく、ということかなと思います。牛の反芻のように、記憶を元にフィードバックをかけてます。何度も何度も喜び悲しみを味わいに行くのは、僕は自分を見て依存症だなーと思ってます。

一度喜べば、あるいは一度ありがとうーと言えばいいのに、何度も思い出す、あるいは逆にサンキューも忘れて麻痺してしまう、というのは、哲学の言葉で言うと、「今を生きていない」ということじゃないかなーと思います。

能動の場合、その瞬間喜んだり悲しんだりするだけでいいのに、後で思い出してまたその感情を味わうというのは、
自然現象である衝動を、より自覚的に扱おう、という試みです。感情への依存だ、と思ってます。
つまり、その衝動は、誰のおかげか? 誰に所属するものかな? などと考え始めるのではないかなーと思います。誰のものでもないのですが。

受動の場合、もともと人は、何かやってもらったら、必ず「うれしー」と感じます。でも感じなくなってるのは、その衝動を、上の場合とは逆に「押さえつけた」ということです。我慢ですねー。
この我慢と、上の、喜びの反芻は、セットで人間心理についてくるんじゃないか、と思います。

なので崩れ方、とは、感情や自己への依存、と大まかに思います。
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yukkinn66さん。

こんばんわ。
16番の宙ちゃんです、ご返信ありがとうございます。


前回は主に「与えられる・受け取る」について考えてみたのですが、

>ではでは「勝ち取る(獲る)」に関してはいかがでしょうか?
:ということで今回は主にこちらについて考えてみます。
当方は与え魔で、◎◎がジャンジャン溢れて仕方なく、
◎◎を投げつけることを許してくださる受け入れ先、
存在・対象を求めてやまないのですが、

残念ながら「勝ち取り魔」ではなく、こっちは下手っぴです。
これも上手なのが我らがアイドルの学童・幼児・乳児です。


「勝ち取る」ためには、
1.おのれの欲求を「感じる」「わかる」「納得する」。
2.自分のものである「欲求」に対応するべく「考える」。
3.「選択」し「判断」する。
(3’.「選択」のために教えが必要なら声高に教えを請う。)
4.「表現」する・「行動」する。
5.勝ち取りに行って、受け取る。
6.勝ち取ったことを、喜び、誇る。


このような流れになると思うのですが、
年とともに「欠如」「不満」に対して鈍感になるのか、
あるいはケチになってどこかを省略するようになるのか、
「勝ち取った」と自覚して喜ぶ機会が減っていくように思います。
子どもはおのれの欲求を赤裸々に表現します。
乳が欲しいときは大声で泣きわめく、
おむつが汚れているときはこれまた大声で泣きわめく、
友達が欲しいときは「遊ぼ」と言った瞬間同じ遊びを始める、
友達が持っているおもちゃを使いたいときは
「貸して」と言った瞬間ぶん取る。

このような「まちがい」を、無責任に、たくさんすることによって、
すごいスピードで「勝ち取る」方法を洗練させて行きます。

大切なのは「勝ち取った」という自覚なんじゃないかな。
「勝ち取った」ものって本当に愛しくて誇らしくて大切にしますから。



yukkinn66さんはロビンソン・クルーソーの話を読んだことがありますか?
無人島に漂着した人の物語です。
彼は「勝ち取る」ことの仕合せをこれでもかってくらい教えてくれます。
何もないところで「おのれが感じる欠如」をもとに「求め」、
自然から、いろいろなものを自分のために「勝ち取り」ます。
また「勝ち取った」ものを喜び、大切にします。
「神との対話」を「勝ち取った」喜びと、
それをどれだけ大切にしているかもつづられています。



>「「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか?」
:どちらが上等かは、すみません、これだけしゃべっておいて、わかりません、(^_^;)
しかし、
こちらは黙って立っていて勝手にものごとが降ってきて「与えられた」
と思っているよりは、
自分が考えて選択して「勝ち取った」と思うほうが、
ずっとおもしろいだろうし、その「ものごと」を大切にするだろうし、
ラッキーで仕合せなのではないかと思います。



PS.「空」=「くう」です。
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この回答へのお礼

再びの回答、ありがとうございます!^^

頂いた文章、言葉、一字一句、
「書いたひとの心のまま」と「私が読み取ったままの心」。。。
つまり「与えられた意味」と「勝ち取った意味」の両方をちゃんと掬い取りたいと掬い取れているのか?と暗中模索、無我夢中。涙

でも結局「与えられたままの状態で受け取る」と言う事は不可能なのかも知れませんね。
手から手へと渡る、その瞬間に物事は変化してしまいます。

>残念ながら「勝ち取り魔」ではなく、こっちは下手っぴです。

そうなのですか?
私はどちらも下手っぴです。涙
折角勝ち取った!と思ったものを、気付けば手の中でぐちゃぐちゃに丸めて使い物にならなくしちゃってベソをかいているちびっ子のようです。
頂き物を嬉しくって大切にしまい込んで、しまい込み過ぎて忘れてしまい(爆)、次に見つけた時にはやっぱり使えなくなっている。。。汗

書いてくださった「勝ち取る為の諸段階」。
(主題からずれますが、このような分類と言うか分析は自力で編み出されたものなのでしょうか?
何か参考にされた文書等ありましたら、ご教授頂きたいと思います。)

「与えられる」も「勝ち取る(獲る)」も、その難易度や自覚の度合い、入手のスムーズさ等は「成長の対価の退化」のようなものかも知れません。
自意識や社会常識等の「周辺事項」の影響が、暗に明にがっちりと忍び込んでいそうです。

>:どちらが上等かは、すみません、これだけしゃべっておいて、わかりません、(^_^;)

では。即席で(汗)言い換えてみます。
「neutral様が下さった文章とその心、
やはり「書いたままの心」を受け取れない以上、
そこから「最大限の収穫」を得るのは不可能と思われませんか?
取りこぼしがあるのではないでしょうか?
となると、
やはり「勝ち取る」は「与えられる」よりも下等?若しくは欠陥が大きい?
そもそも「与えられる=そのまま受け取る」は不可能である?」

あーーー余計にややこしくなっている。。。爆
いえ、思いっきり単純化したら以下になります、
「お前(=質問者)、ちゃんと私の回答(心)を読んでいるんだろうな??」

いかがでしょうか?
(無視してくださっても構いません!^^)

お礼日時:2009/05/29 16:18

こんばんはー。



一番高いレベルで、
謙虚、という意味での受け身受動、与えられること、と、
主体性がある、という意味での能動、勝ち取りに行くことは、同じだと思います。

主体性があるから時に謙虚にもなれるし、
謙虚でいるには、主体が存在しないと、なれません。
自分を持っていない人は、卑下はできても、謙虚にはなれないですし。
与えられることに感謝できる、与えられる、という受け身に対して、能動的に感謝を発揮できるのは、主体的な人です。

なので、上の2つは同じです。
依存心がないなら、受動も能動も同じですから。受動も能動も、その価値は、自然体でいるなら、それは高くも低くもなく、
それは雨が降ったり、空が晴れたりするのと同じ自然現象です。
それにどう価値観を置くか? は別問題として考えると、すっきりします。

もし依存心があれば、受動なら、与えられることに慣れてしまって当然になるし、能動なら、力み返って、他を蹴散らしてでも奪い取る、みたいな形になりますよねー。
このレベルで、同じなので、より低いレベルでも、話は同じだと思います。


後は、この本来同じ2つの受動能動の、「崩れ方」の問題、として、僕は考えますが。

この設問が、ちょっと、下の方が言われてるとおり、意味がうまく把握できなくて、誤解してるかもしれません。
多分こんなんちゃうかなー、と思いました。

この回答への補足

>一番高いレベルで、
>より低いレベルでも、

この「レベル」について、具体的に教えて頂けたら。。。

と、のろまな質問者の厚かましいお願い(大汗!)なのですが、
お気が向きましたらよろしくお願いします。

補足日時:2009/05/22 22:28
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この回答へのお礼

すっかり遅くなってしまい、申し訳ありません!

整然と場合分けしてくださり、自分でうんざりするくらい雑然とした私の脳内にも結構すっきりと収納出来たように思います。汗

>与えられることに感謝できる、
>与えられる、という受け身に対して、能動的に感謝を発揮できるのは、主体的な人です。

ううむ。。。
そう、「何故与えられている事に気付かなかったのだろう?」と言う自省も質問の動機にあるのですが。。。
そうで無くとも「社会全体の意識として」、与えられることに対して何か「本能レベル(?)で認識の歪み」があるように感じたのです

その歪みが「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」の相互の位置関係を把握させ難くしているのかな?と今考え始めています。
#18の補足欄に書いたのがその思いです。

>後は、この本来同じ2つの受動能動の、「崩れ方」の問題、

「崩れ方」と言う表現、上手く掴めません。。。
何の力が加わって「崩れる」のでしょうか。。。?

>この設問が、ちょっと、下の方が言われてるとおり、意味がうまく把握できなくて、誤解してるかもしれません。

いいえ。。。きっと把握出来ていないのは私の方なのです。
「言葉の操り方」や「他者との言葉を介した相互理解」を学ぶ為の手段としての質疑。。。そんな風に捉えてくださって結構です。
(余計にややこしいでしょうか。。。汗)
何かと「言葉の鎖」に絡まり易い私です。
その悪癖?を和らげる為の訓練のつもりでもあります。

我が侭な「goo利用法」です。。。

お手隙の時、お気が向いた方にお相手頂ければ、それだけで身に余る充実した対話なのです。^^

お礼日時:2009/05/22 23:01

与えられることを考えていました。


結論、世の中で与えられることというのは、なにもない。
全て自分で勝ち取ったものではないか。

人はお腹に生を宿すその瞬間から、勝ち取っているのです。
与えられると思うのは、与えられることを勝ち取っているからに過ぎない。
赤ちゃんも母親の母性を勝ち取って、生きている。
与えられることというのは、はなにもない。
よって、価値を比べることはできない。
しかし、この考え方は全く逆の見方も出来るはず。

他の方の回答は読んでいません。
読もうかと思ったけど、時間がなかった。
他者からみれば下衆の浅知恵、自分の中では神という自分の意見。
以上

この回答への補足

回答頂きましたのに、 nonameになる前にお礼を申し上げられなかった
無礼をお許し下さい。

>与えられることというのは、はなにもない。
>よって、価値を比べることはできない。
>しかし、この考え方は全く逆の見方も出来るはず。

はい。
全く同じ事を「言葉以前の感覚」では捉えておりました。汗
それを言葉にはっきり表してくださり、感謝申し上げます。

でも、此処で「比べる事は出来ない」と言う事は、
「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」と言う行為?の位置関係?が気になり始めてしまいました。

この二つは、「相反する」のか?「同質」なのか?「凹凸」のようなものなのか?。。。
「比べられない理由」が私には掴めません。。。汗
「掴めない」のは、現象として、なのか?言語化出来ない、と言う事なのか?判然としません。。。

まだお付き合い頂ける方がいらっしゃいましたら、どうかご教示下さい。。。。

補足日時:2009/05/22 22:06
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ユッキンさんこんばんは、フランス文学で愛を語った、ぽこぺろぽです。



 はたして与えられたものと勝ち獲ったものは等価といえるのでしょうか?うーん、与えられたもののほうが価値が高いような気がしますが。と申しますのは、あなたがこの世に生まれたこと、様々な恩寵を受けているもののほとんどは、ご自身が作り出せないものだからです。

 アプリオリな性質を巧みに活用して、その生を全うすることがわれわれに与えられた使命(アポステリオリな性質)ではないでしょうか?確かに主に恋愛などの人間関係においては、受動性、能動性といった対比が相応しいかと思いますが、そもそも生きとし生けるものが与えられた恵みは主体的な努力以前の段階によるものが大きいと考えます。

 ニーチェの「ツァラストゥストラはかく語りき」などを読むと、私の主張も揺らぐかもしれませんが。人間は先天的な本質には抗えず、それを甘受し愛するべきだと考えます。しかしニーチェのいう、神を超越することや、自己の堕落した内面の克己よりも、自然的性質を活用した、自他を含む包括的な献身が必要なのではないでしょうか?

 勝ち獲ることを善とする弱肉強食、優勝劣敗の自然界においても、与えられた性質、自然の摂理には逆らえませんね。われわれは勝ち獲ったものは誇示し、つぶさに観察しますが、与えられたものには無関心、あるいは過少に評価する傾向があると考えます。

 お薦めしたフランスの恋愛小説は、身を滅ぼすほどに与えた男の物語です。彼らが勝者であるかは定かではありませんが。お薦めいただいた小説は読んでみますね。ユッキンさんの問答に、もう少し加えてください。お返事お待ちしております。
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この回答へのお礼

ぽこぺろぽ様、すっかり遅くなり申し訳ありません!
なかなかに深く鋭い回答に感謝申し上げます。^^

>うーん、与えられたもののほうが価値が高いような気がしますが

そうお考えの理由を、意志や感情を排した所からお話し下さったので、
のろまで言葉の鎖に絡まり易い私にも分かり易いです。^^

>そもそも生きとし生けるものが与えられた恵みは
>主体的な努力以前の段階によるものが大きい

>勝ち獲ることを善とする弱肉強食、優勝劣敗の自然界においても、
>与えられた性質、自然の摂理には逆らえません

この二つの文に、同意です。
一文目に関して「どうしてこれに反発を憶えないのだろう?」と些か不安です。
こんな事を言われた日には「私は絶対に与えられたもの以上のものを生み出すんだ!」と意気込んでいた学生の私は何処に行ったのかしら。。。?と。汗
うーーーん。。。

自然界を眺めての文には、新たに拓ける思いを抱きました。
今、我が家では蛙(手のひらサイズ!^^)を飼育中なのですが、
その蛙に青虫/クモ/蠅等を与えています。
それらの獲物を「獲って」蛙は生きて来た訳です。
そして、いずれは蛙自身が自分の身体を、食物連鎖の更に上位の捕食動物に「与える」のですよね。

食物連鎖の外側から見ている私には、それぞれの意志とは無関係に「獲られたり(=与えたり)」、「獲ったり(=与えられたり)」する様子が「崇高」にさえ思えます。
人間が「地球よりも重い」と表現する「命」を与えたり与えられたり。。。

この質疑は、人間が食物連鎖の歴史を崩しているから考えてしまう疑問なのかも知れませんね。。。

ツァラトゥストラは。。。拾い読み状態でニーチェの言わんとする所、迄行き着いておりません。
不勉強者です。。。

お礼日時:2009/05/21 14:22

yukkinさん。

こんにちわ。
与え魔の根無し草です。

数年前、恋人からリビドーという言葉を教わったのですが、
このリビドーというのは、
「与えたいという欲」のようなものでもあり、
「愛」のようなものでもあり、
形を変えて、セックスになったり暴力になったりです。
とにかく、対象に向かって「投げつけたい」という思いであり、
この「投げつける」という身勝手な行為を
あつかましくも「受け取ってもらいたい」という思いです。

受け取って差し上げるのがとても上手なのが、
われらがアイドルの学童・幼児・乳児ですね。
彼らには嫉妬と羨望を感じます。
「与えられる」というのを上手にやってくださるから。

また彼らは「与えてちょうだい」と「求める」のもお上手。
大人は彼らのリビドー(ここでは欲求)を
「聞いてやってる」ようにも思えますが、
(ここでは欲求)を「投げつけていただいている」ことになります。

さて。
与える側と与えられる側と、どちらがパワーが必要か。
たぶん、どっちも同じぐらいなんじゃないでしょうか。
「与えられ」て差し上げるために(受信するために)
みづからを差し出さなくてはいけませんからね。

近所にこんなポスターがありました。
「元気が無いんじゃない。元気のやり場がないだけだ。」

じいちゃんばあちゃんが、孫にいろいろ買い与えます。
元気の生み手と受け手、施す者と施される者、
需要と供給のバランスが取れていて、
どちらも仕合せをやっているようです。
モノを買い与えるのがどれだけラクか、とときどき思いますが。


受け取って差し上げる者の寛大さには頭が下がります。
器の容積が大きく、
器を空にするのが上手な人には頭が下がります。
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この回答へのお礼

こんにちわーー!^^
すっかり遅くなってしまいましたが、回答頂きありがとうございます!

>「与えたいという欲」

よく「愛されたい欲求」と言いますが、
実はひとって「愛したい欲求」の塊ではないかしら?と考えています。

小さい頃からいつもいつも「寂しい」だの何だのって「愛されたがって」来た私でした。
でも、自分が愛されている事はとても良く知っていました。
それなのに何時だって寂しかった。。。

子どもを産んで「心いっぱいで愛する」「思いっきり好きになる」事に慣れて来た頃(そう、「慣れ」が必要です。^^)、唐突に、
「あ。。。私は心いっぱいで愛したかったんだ。愛されたかったんじゃない」と気付きました。

>「与えられ」て差し上げる
neutral様のこの言い回し、何度か拝見しておりますが、何だか「心にスポッ!とはまり込む」言葉です。^^
この
「「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか?」
と言う疑問への何とも言い難い程含蓄の多い回答です。

>受け取って差し上げる者の寛大さ
>器の容積が大きく、器を空にするのが上手な人

うーーーむ。。。「器」ですか。。。
以前「思索するとき。。。」の質疑とも通じるものがあります。

ではでは「勝ち取る(獲る)」に関してはいかがでしょうか?
(「投げつける」はまた違う意味でお使いですよね。。。?)
そうは言っても「与えられる」の方の分析の方が難しい気がしています。。。

ありがとうございました!^^

お礼日時:2009/05/21 13:41

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