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ロシア、ソ連という敵を東西に接するという意味で、近代のドイツ日本は共通していると思うのですが、どうなのでしょうか。

歴史的には、実際に20世紀初頭開戦し(日露戦争、第一次大戦東部戦線、第二次大戦)徹底的に戦い、悲劇の歴史がありました。その戦いが凄惨だったこともあり、戦後も長く捕虜の強制収容などで禍根を残しました。もっとも、対ドイツのほうが日本より格段にすごい戦いをしましたが。

A 回答 (6件)

巨視的にいうなら、思い切り単純な一般論と化すような。


つまり、「超大国の近隣にいたら、どうするか」という問題で、その場合、仲良くするのが基本になりますから、「共通の敵という観点から」との前提は無理があるように思います。
日露戦争だって、イギリスが全面協力を確約したから仕掛けたもので、単独で相手するなら、伊藤博文の主張した日露協商のほうが現実的です。
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この回答へのお礼

日露同盟はやはり開戦の条件だったのでしょうか。
ドイツはかなり挑発的に第一次第二次と戦ってきましたが、これもあまり融和ではないのではと思います。

お礼日時:2009/05/19 07:14

ドイツはポーランドを占領するなどの例外的時期を除けばロシア・ソ連と接してはいません。


国境を接した国はロシアに対抗できる力は無く、それ故一旦勝ちを収めた日本には好意的です。
日本の現状も海を隔てて接したとしても、第二次大戦終了時の様な直接的な侵攻の可能性は限りなく低いです。
日露戦争やシベリア出兵・第二次大戦末期の侵攻にしても、ドイツの例の様に徹底的に戦ったとは言えません。
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この回答へのお礼

日本に対する対ソ戦史は、ドイツのそれとはずいぶん違って徹底的なものはありませんね。しかし、大きく考えれば、近代現代は、日独双方にとって脅威がまじかにあるという感じでしょうか。

お礼日時:2009/05/19 07:16

昭和天皇は基本的に欧米との強調を希望しており、シベリア出兵については批判的であり、欧米を相手にした戦争を望んでいませんでした。


第一次大戦後ではドイツから山東半島の割譲させています。
 大日本帝国憲法をプロシアから学び、ドイツへ片思いをしたのは、陸軍で、海軍は英米よりでした。

>ロシア、ソ連という敵を東西に接するという意味で、近代のドイツ日本は共通していると思うのですが、どうなのでしょうか。

 ちょっと大雑把な捉え方になっているように思いますし、共通性を見つけるにしては、あまりにも違うように思います。単にロシアの西側にドイツがあって、東に日本があったに過ぎないのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

たしかに、大雑把過ぎる捉え方ではありますよね。しかし、ロシアに脅威を受けるという共通性だけはあるのでは。

お礼日時:2009/05/17 17:23

ロシア帝国~ソ連が共通の敵であるという観点は、第二次世界大戦開戦前にはありましたね。


それ以前は、どちらかというと植民地を巡り争ってるという感じでしたね。
第一次世界大戦のドイツ敗戦のどさくさに紛れて、ドイツから山東省や南洋諸島を奪い取ってますから。

この時期は、対露という意味で共通していたのは英国ですね。
この時期、西洋の「資本主義独裁制」が成熟を通り越して徐々に弊害が出てきていました。
で、英帝国の植民地各地で「独立運動」が活発化しはじめ、英国一国では対処しきれなくなっていきました。
なので、それまでの何処とも協力しない「栄光ある孤立」政策を転換し、対露政策で利害が一致する日本を利用しようとし、日本側も権益を列強諸国から横やりが入らないようになることを期待して条約にこぎつけました。


その後も日本は中国での権益を巡ってロシアと対立していました。
仮想敵国はロシアであると高言する政治家や軍人なんかも居ました。
特に、関東州を管理する関東軍はしばしばロシア(ソ連)に対して挑発行為を行ってました。
相手が挑発に乗って開戦に持って行き、ロシアの領土をも奪い取ろうと考えていたわけです。
ただ、弱体化していくロシア帝国~ロシア革命後のソ連建国の間、混乱する国内問題を解決することに注力していたロシア側は巧みにかわしていました。
また、日本国内でも軍部の暴走をなんとか押しとどめようという元老や民権派の政治家・活動家、また日露戦争後に重税を課された民衆の不満などから、開戦にまで持って行くことは出来ませんでした。
また、朝鮮半島や満州国内で活発化する「独立派」のテロ活動にも邪魔され、資源供給と商品を売る市場という東アジア経済圏を確立するという目的もなかなかうまく行きませんでした。
また、1929年10月24日に起こった大恐慌の影響で、各国は保護政策であるブロック経済政策が広まっていきます。
そんな中で起こったのが、満州事変です。
この関東軍の暴挙に対し、軍法会議で裁くか行政処分ですますかで軍部派と元老派の間で色々と駆け引きがあり、結局軍部が勝利し、日中戦争へと突入していきます。

この時期の各国との関係で言えば、満州をはじめとした中国権益を恣にしようとする日本に対し、英・仏・蘭などは不信感と警戒心を募らせていきます。
また、大恐慌からの経済立て直しのためブロック経済政策を各国がとり、輸出が減少する一方、高まる軍需物資を賄うために輸入超過となっていきました。
そこで、日本は太平洋地域に目を付け、その地域で利害が対立する米国と徐々に対立も深まっていきました。
そして、満州事変が勃発すると、国際連盟で列強国が日本に介入し、日本が認めた満州政府は否認されます。
それに対して、日本は連盟脱退という行為にでました。
このことは、「満州政府は認めないが、その地域を国際連盟の共同管理地に置く」という折半案で妥協するだろうと踏んでいた列強諸国に大きな衝撃を与えました。
まさか、日本が「常任理事国」という有利な立場を捨てるとは思ってなかったんですね。
その後、英・仏・蘭・米なんかとの関係が急激に冷え込んでいきました。

一方、ドイツは第一次世界大戦で科された膨大な賠償金の支払いが国庫と国民の懐に重い影を投げかけていました。
そんな中で、遅延する賠償金支払いを理由に、資源なんかが豊富でドイツ経済の生命線でもあるルール工業地帯をフランスが実力行使で奪い取りました。
これにより、国民の不満は一気に高まり、その不満を上手く誘導し政権を奪取したナチス党ヒトラーが台頭していきます。
ヒトラーは、対外膨張主義を取り英・仏・蘭などと対立を深めていきました。

ということで、英・仏・蘭・米・露と対峙するという点で共通点を見いだしたドイツは、「英・仏・ソ」を敵国とする同盟を日本に提案してきました。
日本軍部は、日中戦争によって華北を奪い取り、そこを足がかりとしてソ連と対決しようという妄想(?)を抱いていました。
ドイツに惚れ込んでいた陸軍は、その提案を全面的に受け入れようと主張しましたが、海軍と外務省はソ連に限るべきだとして対立しました。
何十回と会議をするも、結論は出ませんでした。
その間に、「独ソ不可侵条約」をまとめ上げたドイツは、日本を置き去りにしてポーランドに侵入、英仏がドイツに戦線布告し第二次世界大戦が勃発しました。

ドイツは、電撃的に進軍しデンマーク・ノルウェー・ベルギー・オランダ・フランスと次々と支配下に置き、ドーバー海峡を挟んでイギリスと対峙するようになります。

その間の日本は、経済情勢がさらに悪化し、戦力として戦地に人材を取られ、物資の欠乏・食糧難に悩まされるようになっていきました。
そのため、南洋進出論が軍部内でたかまっていきます。
そして、ヨーロッパ戦線でドイツが快進撃を続けイギリスがドイツに釘付けにされアジア方面が手薄になったのを見て、南進を開始。
仏領インドシナ(ヴェトナム)を占拠しました。
それを見た米国は、日本に対する態度を硬化させ、日米通商航海条約が満期になると一方的に破棄。日米関係は冷え込みました。
第二次近衛文麿内閣は、「ソ連と不可侵条約を結んで時間を稼ぎ、、その間に英・仏・蘭が持つアジア植民地を「大東亜共栄圏」として奪い取って資源を獲得、軍備を充実させて、ソ連開戦の準備を進める。米国の介入に対しては、断固として戦う」という方針を固めました。

その間、対英戦争が膠着したドイツは反転、ソ連を不意打ちで攻撃し、対ソ戦線へと向かいました。
それを知った日本では、陸軍と外務省が日本も直ちにソ連へ進撃すべしと解きましたが、海軍と近衛首相は慎重論を唱え、結局は対ソ戦は様子見となりました。
その間、日本の南進について米国と外交交渉を続けますが、双方一歩も引かず、まったく話し合いの先行きは見えませんでした。
そんな中、あくまでも外交で解決すべしとした近衛首相と、米英欄に宣戦布告すべしとした陸相東条英機が対立。
近衛が天皇に辞表を出して身を引くと、東条が首相となり日米開戦となりました。

で、結局ドイツはソ連戦線で破綻し、西方面も米軍の介入で破綻、敗北しました。
日本も、圧倒的な米国の資源力の前に屈服し第二次世界大戦は終結します。


・・・と、まぁ「日独伊三国軍事同盟」と良いながらも、結局それぞれがバラバラに行動したため、殆ど意味のないモノとなっていた観がありますね。
ドイツと連携してソ連に戦線布告していたら、、、というIFも成り立ちそうですけど、結局負けていた気はしますね。
朝鮮・満州での民族解放を謳ったテロを抑えない限り、経済復興は難しそうですし。
「民族解放」のテロを壊滅することが、どんなに大変かは、現在のイスラエル・パレスチナ情勢や、米国とイラク・アフガン戦争後を見れば推し量れるでしょう。

長文となりましたが、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

特に、巨視的なところではどうでしょうね。19世紀末からのドイツ成立とロシアの脅威。日露戦争にいたる日露の思惑。その後、第2次大戦終了までのやはり、共通の敵としての共有制。

お礼日時:2009/05/17 17:27

ロシアの所在する大陸から離れた島国と言う意味で、地政学的に日本に近いのは英国ですね。


英国は欧州の新興勢力国(ナポレオン仏・ヒットラー独)を相手にするときなどはロシアと組み、ロシアが膨張すれば対立しています。
国境を接している国は、基本的に並立していれば敵対、上下関係(従属)がはっきりすれば友好ですが、日本は元々外交下手なので地の利を生かして独に学ぶより英に学ぶべきと思います。
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この回答へのお礼

英国はロシアに接していません。しかし、やはり植民地的には対立しますからちょっとは関連しますが。

お礼日時:2009/05/17 17:27

共通、といえるほど対応が似ていたとは思えません。

なにしろロシア・ソ連を敵とみなすかどうかが、ころころ変わってます。
ざっと流れを記すと

日本:日露戦争以降はロシアと友好的
   第一次大戦では兵器不足に陥ったロシアのため小銃などを輸出
   ロシア革命後、ドイツと講和したソ連に対しシベリア出兵
   ソ連に対抗するため日独防共協定
   ノモンハン事件の最中、独ソ不可侵条約が締結されたため、あわてて停戦交渉、ソ連側の主張を全部受け入れる
   松岡外交、日独伊ソ四国同盟構想→日独伊三国同盟と日ソ中立条約
   独ソ戦→関東軍特別演習
   太平洋戦争で関東軍弱体化
   ソ連軍が日本の勢力圏に侵入→日本の敗戦

ドイツ:ビスマルク外交、三帝同盟(ロシアとオーストリア=ハンガリーの対立を、ドイツが調整)
    ビスマルク退陣、再保証条約破棄
    第一次大戦→ドイツによる工作の影響もあり、ソ連成立
    ブレスト・リトフスク講和(英仏からみれば、ソ連の裏切り行為)
    ラパロ条約(独ソの協力態勢)
    反共のヒトラー政権成立
    スペイン内戦(独ソの代理戦争)
    独ソ不可侵条約→第二次世界大戦、ソ連はドイツに全面協力
    独ソ戦
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この回答へのお礼

微視的な政治的流れでは確かにそういう感じなのですが、もっと巨視的に巨大ロシアソ連が、陸続きであるいは海を隔てて接しているという状況は共通したものがあります。このどうしても考慮しなくてはならない共通の存在についてですね。

お礼日時:2009/05/17 17:29

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