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阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩……。これらの「仏」が人間の前に現れたと過去形で記録された経典がありますか。過去形でなければ現れると断言している経典が沢山あるのだと思います。
実際に現れたと過去形で記録されているものについて、何という経典の何処に記されているか幾つか指摘して下さると有り難いです。仏教に関心の薄い市井の人間が容易に手にすることの出来る経典が好ましいです。また、それはどの宗派の見解なのかも知りたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

#1です。

キリスト教の経典と仏教の経典の根本的相違のひとつは、前者が多少とも歴史性にこだわるのに反し、仏教経典では歴史の流れなんかまったく頓着していないことかもしれません。おかげで、イエスがいつ頃うまれ、いつ頃死んだかについて誤差は数年近くあるけれどだいたいの見当をつけることが出来るのに反して、お釈迦様の生存年代となると確かなものは何もなく、100年くらいの誤差でかろうじて推測しているありさまです。原始仏教徒にとって時間軸などどうでもよかったように思われます。
 仏教の教理について詳しくはないのですが、大乗仏教になってから久遠仏という理念が出てきたように思います。如来は過去のある一点に出現したのではなく、永遠の昔から存在し、永遠の未来にまで存在するという考えです。法華経なんかにはそのことがはっきり説かれていると思います。
 法華経如来寿量品第十六
我成仏已来。復過於此百千万億那由他阿僧祇劫。自從是来。我常在此娑婆世界説法教化。
「我成仏してより已来、また此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常にこの娑婆世界に在りて説法し教化す」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E4%BB%8F
 キリスト教の教義でもイエスは永遠の昔から父なる神とともに存在し、永遠の未来までも存在すると説かれたりしてますよね。似ているのかも。

この回答への補足

その後、印象が変わりました。少なくとも大乗経典では、あちこちで世尊が出現しているみたいです。
お世話になりました。

補足日時:2009/07/17 20:47
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この回答へのお礼

 法華経如来寿量品第十六は、ざっとながら読んでおきました。当否は承知しませんがNo.2でいう維摩経が部派仏教から大乗仏教に引き寄せようとする匂いが残っているのに対して、寿量品第十六では一層大乗仏教に成り切っている感じがします。世尊の人間離れの程度も維摩経より進んでいるように思います。
「寿量」というのでしょうか、世尊が永遠の存在であることを述べる際の永遠の程度も維摩経より一層長くなっていて旧約聖書の比ではありません。
こういう世尊像を創り出すについては学僧というのでしょうか、教義を深めるための専門職が存在し、よってまた専門職が存在し得るだけの充実した教団があったのだと思います。
法華経如来寿量品第十六は人間の前に「仏」が現れているといってよいのだと思います。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/07 21:22

参考程度に



観世音菩薩は「観自在菩薩」として般若経にでてますね。でもこれは名前ではなく観自在状態の菩薩という分類的意味でしょうね。

阿弥陀如来、大日如来は釈迦如来の相のことですから、菩提を説く釈迦如来の相が大日如来、衆生救済の相が阿弥陀如来ということで、釈迦如来入滅後のあと付けの名前でしょうね。

維摩経、法供養に薬王如来という名が出てきますが、これが薬師如来と同じかどうかですが?。
釈尊の医者としてジーバカもいましたので、医療系の如来のことだと思います。医者の如来もいるという後付の名前ように思います。
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この回答へのお礼

1 般若経といっても山ほどあるのだと思います。般若経を成立順に並べたとき、「仏」が人間の面前に初登場したのは、何という経の何処に於いてであるかを述べることはできないものなのでしょうか。

2 何の知識もない者が「維摩経、法供養」だけを読んだ限りでは、この章は「帝釈」と「世尊」の法供養をテーマとした対話のようです。「世尊」が自らの前世での体験を語ることによって、真の意味での法供養とは如何なるものであるかを「帝釈」並びにその背後に居る大勢の民に対して説いているのだと読みました。
ここでの世尊の説教からすると、「世尊」の前世は「月蓋王子」で、この王子が「薬王如来」から真の意味での法供養とは如何なるものかを伝授され、後年輪廻した「世尊」が「帝釈」に説教をしているのだと読みました。純粋に国語として読むと、そもそも「薬王如来」が「人間のまま」なのか「仏」になっているのか私には判然としませんでした。

周辺知識が皆無のため要領を得ませんでしたが、「参考程度に」ということですので改めて問い直すことはしません。有り難うございました。

お礼日時:2009/07/06 21:35

わたしは宗教より文法の方に興味があります。

宗教的真実は不確かなものだけれど文法は非常に明確なものだからです。
さて、漢文仏典のことを考慮させているものと思われますが、漢文には「過去形」なるものは存在しないのですよ。英語や日本語には過去形はありますが、漢文には過去形は存在しないので、漢文経典の中に過去形を捜しても無駄です。
 簡単な例を挙げれば、「昔王女様がいました(Once there was a princess)」を漢文で言うと「昔有王女」です。
これはふつう「昔王女あり」と訓読できますが、人によっては「昔王女ありき」と訓読するかもしれません、しかしそれは日本語への翻訳のときの問題であって、本来の漢文に「過去形」なるものは一切存在しないのです。
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この回答へのお礼

根本にして大事なご指摘、有り難うございます。
なるほど、といっても分かっていた訳でも分かった訳でもありませんが、そんな話があったかもしれないと頼りない記憶が甦ってきました。全く思いもよらないことから無知の加減が知れてしまうものだと痛感しました。

さて、後始末ですがどうしたものでしょうか。多分、質問文の「過去形」とは形式上の過去形でなく「意味上の過去形」だと補って受け取って貰えるのではあるまいか、実用上はこのままでも用件は足りてしまうのではないか、と判断しました。このままで少し様子を見させて下さいませ。

人智を超えた「神仏」は何処にも現れた此処にも現れたと大安売りをしてしまえば矛盾が露呈してしまうので、遠い将来にもせよ一秒後にもせよ、未来に現れるとしておくユダヤ教方式が賢明なのだと思うのですが、さて仏教ではどうなのか、これが今回の質問の背景でした。

今後ともよろしくお願いします。

お礼日時:2009/07/05 06:51

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