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最近になって哲学に関心を持ち始めました。
哲学者あるいはそれぞれの時代によって、「何もそこまで」と極端に偏った考えがあったり(ま、そういう説だから残るのでしょうが)、と思えば、それぞれの主張の違いが微妙で誰がどんな主張をしたのか混乱したりと、流れやポイントをつかむことさえままならない状態です。
ところで、「言葉」ってどれほど重要なのでしょうか?
哲学の世界でも、認識と言葉は非常に重要な関係であることが多くの学者によって論ぜられてきましたよね。納得できますし、例えば「記号論」などには非常に関心があります。
しかし最近考えるようになったのですが・・・
あまりに言葉ばかりに重点を置くのはどうなのだろうかと。「言葉」そのものというより「会話」についてなので、哲学とは離れてしまうかもしれませんが、
例えば「言葉のあや」や「言い間違え」などで、相手に誤解を与えたり。
例えば「そんなつもりで言ったのではなかった」ことで、相手に責められたり。
例えば「頑張って」と善意を込めて言ったことで相手を傷つけたり。

しかしそういった場合、発言した側だけが責められるのは間違っていないでしょうか?
人間は言葉だけではなく感性を持っています。大切なのは、聞き手が発言者の言葉をそのまま受け止めるのではなく、その言葉にこもった感情(例えば「悪意がこもっていたか」)をも含めて理解するということではないでしょうか。
つまり、
あなたのちょっとした冗談で相手に不快感を与えてしまった。
この場合あなたは全く悩む必要はない。
冗談を読み取れない相手の能力に問題があるのだ。
というようなことでしょうか・・・。

もちろん相手をいたわる気持ちは大切ですが、
あえてここでは「言葉に重きをおくなっ」って立場にさせていただきます。
皆さんはどうお考えですか?
また、こんな感じの主張をした歴史上の人っているんですか?

A 回答 (15件中1~10件)

私が思ったこと。


それはテレビのおいしそうな食べ物の匂いがわかるテレビってできないかなぁ。
そういう発想と同じで、理想をいえば、言葉と同時に感情も伝える何かってないかなぁ、というとてもすばらしい命題だと思います。
言葉の他の伝達手段を考えると、結局どれも(音楽以外)記号なので、全てを受け手にゆだねますね。音楽以外といいましたが、もちろん音楽も記号でできています。ただ、最近の音楽は送り手の感情移入が感じられているものが多いのですね。
でも結局言葉以外は一方通行という欠点があります。
だとしたら歌うようにお話しするのが一番簡単だと思います。ちょっと短絡的ですね。
でもそうすれば、感情はある程度伝わるし、情報のやり取りもリアルで できるような気がするのです。
で、結局いまのところこういう風に言葉で意見を書いたり質問しているので、言葉に重きをおくなという立場は、こういうやりとりを言葉以外でできる方法を考えた人がでてきたあとか、自分で発明するなどのあとにとったほうがいいと思いますょ。
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参考程度に



「言葉」というのは個人にとって非常に大切にしないといけないものですね。というのは「言葉」でその人物が大体わかってしまうからです。短い時間でも「言葉」でその人の感情の程度がわかりますね。「言葉」は「心」に置き換わりますね。
リンカーンの側近であった陸軍長官がリンカーンの死に際して、リンカーンほど言葉=心を管理した人物を私は知らないということをいっていますね。それぐらい何気なく言葉を使っている方が多いということですね。普通はそのつどの心のままに言葉が出るんですよね。楽しければ楽しいように、悲しければ悲しいように、苦しければ苦しいように、蝶々のようにひらひらとですね。つまり心を管理していないということですね。言葉の管理は心の管理ですから、言葉を軽んじるということは自身が無いということにも通じるんですね。しっかりした自身があると言葉もおのずと選ばれるということでしょうか。
という意味で「言葉」をかるんじるなかれ派ですね。
参考まで
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sneさんの質問に私なりに感じたことを書きたいと思います。


常識的な回答ではないかもしれませんが、私なりの信念です。

私は物理学を学んでいる大学生です。
そんな私の考えでは言語の意味付けには二種類あるということになると思います。
一つ目は"感覚対象の名前(定義付け)"としての言語です。
"感じたものを分別する(概念化)"が発達しているのがヒトだと思います。
感じたものに名前を付ければ、分別する時にとても便利になると思います。
たとえば、心の中のもやもやしたもの。
僕らは、"悲しみ"と呼んでいますね。
名前という観点から言えば、誰かの心の外側に残すべきものという意味で普遍的なのでしょうか。

二つ目が"伝達の手段"としての言語です。
他人との概念の共有という意味で、
上で述べた第一義的な言語の応用として用いることができます。
ただ、誰かの心の内側に残るという意味で普遍的ではないとおもうのです。
これは、言語ではなく"言葉"というのだと思います。

感じたものを別に言語で定義付けする必要などありません。
また、感じるものを他と明確に区別する必要などありません。
芸術とか音楽とかって、こういう世界なのかなと思います。

僕の学ぶ物理学は数と言語を用いて、感じるもの(主に生き物以外のもの)を区別しようとしています。

さて、ここまで僕の"言葉"観ならぬ、"言語"観を書いてきたわけです。
sneさんの質問に答えるならば、自分の感じたものを相手に正確に伝えるためには、やっぱり普遍的でなければならないと思います。この意味で、相手への思いは一度"言語"化してしまったほうがいいと思います。つまり、紙に書いたり、絵に描いたりして相手に正確に伝わる形で残したほうがよいと思います。別に言葉にこだわる必要はないと思います。

けど、そんなに堅苦しいと疲れちゃいますね。
手っ取り早く人間関係を気づくには言葉を使うのが一番!!
そういった意味でヒトとヒトの付き合いは普段はどうしても流動的なってしまいます。
自分の感じたこと、考えたことを常に正確に伝えることは難しいわけですから。
ただ、一度腹を割って堅苦しく相手と語り合う必要がありますね。
そうじゃなきゃ心の根っこの部分で相手のことを拒否してしまう可能性があるじゃないですか。

人間関係って難しいですよ!
こんなに難しいのを、何人ものたくさんのヒトと築ける分けないですよね。
少なくとも僕はそうおもいます。

人それぞれですけど。
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はい~?


何に比して「重要」と尋ねたいのでしょうか。
やっぱり普通に考えて、コミュニケーションの中での位置付けだと思いましょうか。

これに関しては、特に女性は、一度は引っかからなければならない疑問だと思います。
例を出すなら、「いじめ」問題です。(ていうかそのままじゃん)

女子中学生あたりの事件なんかが、大きく関わってるでしょう。
学校で、あらゆる言葉で侮蔑されたとか…。
そんでもって行き着くとこまで行っちゃったとか…(教室のベランダから突然どうのこうの)。
こういう現場では、発言された側が悪い、ってことになってるそうです。

言葉とか字面がすべてだと思い込んでるから、こんなことになるんです。当事者の友達に手紙書きましたよ、それでも、それこそ言葉がきつかったと思われたせいか、何にも返って来やしませんが。

つまり、言葉だけに重きをおいてもらっちゃ危なっかしいだけです。それこそ、前だけ見て歩いてるようなものでしょ。
「あえて」はまったく必要ありません。

どうやら、ご質問とちょっと違うようですので、ちがう説明も。

言葉ってやつぁ、つまり日本語でいえばいわゆる五十音の連なりでしょう?
そして、その五十音の連なりという、有限なもので、いわば無限な、意思表示が可能なのかい?ってこと。
そりゃ、人の要求の種類の数が有限であれば、そのすべてを表す言語を創造することが不可能ではないでしょう。
でも実際、気持ちをぴったりと言葉に投影することなんてできるんですか?

たくさん読まれた本の、どこにも書いてなかったんでしょうか。
(解釈が間違ってなければ)その質問、「おととい来やがれ」です。
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人間は、ものごとを言葉によって考えます。


言葉で考えない人は、芸術家か、天才か、自然に存在するイチ個体かの、どれかです。
だから、言葉ごと相手に伝えた方が、より速く、正確に伝わるのです。
確かに、その言葉によって、相手が誤解してしまう可能性もあります。
ですが、一々言葉以外のものに変換して意思を伝えようとすると、
莫大な手間がかかります。
また、細かいところまで伝わりません。
「飛行機で北海道に行く為に、12時15分新今宮発の特急列車ラピートに乗って
大阪府泉佐野市泉南沖にある関西国際空港に行け」という指示を
絵画や音楽で表現しろ、というのが無理なのと一緒です。
ちょっと例が極端すぎますが、想像力で何とか、お願いします。
つまりは、言葉に重きをおかないのはいいとして、
言葉に頼らざるを得ない現代社会の一面、てヤツを考えて頂きたい、
ということです。

それに、「がんばって」の一言がなければ、
その一言で元気付けられる可能性をも否定する事になります。
その言葉に対して、百人のうちひとりでも微笑む人間が居るとしたら、
その言葉が存在する意味があると思いませんか。
また、そのひとりの笑顔を失ってしまう事に、
どれだけの価値があると思いますか。

以上、二点の理由から、
哲学的に、Sneさんの理論が的確であったとしても、
実践するのは極めて難しいと思います。
言葉を使う事のメリットは、デメリットをもってしても覆せないでしょう。
言葉は、必要だから出来たものです。
そして、今も必要とされています。
この世の中で、ほんの僅かな言の葉によって感動を覚えた人間が
星の数よりも多い事を、忘れてはなりません。
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言葉ではなく「文書」だけどさ


イエスも仏陀も、自分では「文書」を残していないじゃない。

ちゃんと「文書」を残していない思想家も結構いると思う。
後期ヴィトゲンシュタインはちゃんとした論文を残していないし
ベルグソンも本人はあまりちゃんとした論文を残していない。
ラカンもネームバリューほどの論文はない筈だ。

まあ、言葉にすると嘘になる、ということと
言葉にすると解釈を限定する、ということかしら。
でも、記号論というのは「言葉が大事」と言った訳ではなく
言葉には限界がある、ってコトを言ってた訳でしょ?
デリダなんかは、それを遊び心をもって証明?しようとしている訳だ。

現代哲学の主張は
Sneさんの仰るコトとほとんど同じ問題意識を扱っていると思う。
ただし「じゃあ、どうすればいいの?」って質問に対しては
現代哲学もSneさんも私も、有効な答を導き出せていない訳ですよね。
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目に見えない、例えば気持ちや思想などを伝えるのに


一番簡単で解りやすいのは「言葉」ですからね。
(正確にとは言えませんが)f(^^;)

ところで「言い間違えなどで相手に誤解を与えたり責められたり」
「善意を込めて言ったことで相手を傷つけたり」
とおっしゃっておりましたが、
それと同様に、「気休めに言った励ましの言葉でその人のやる気となる」
「何気ない一言がある人の救いなる」事もあるとお気付きですか?

言葉というものは当人相手双方の関係、気持ち。
ちょっとした言い回しやニュアンス。
時と場所、つまり状況によって
たとえ同じ言葉でも無限の意味を持ちます。

必要大事というのも昔からよく問われる疑題ですが
私はそれ以上にこの「言葉の持つ無限の可能性」の方に惹かれていますね。

あれ?応えになってないですかね。(笑)
ただまあご参考程度に。
これから哲学、哲学的思考について学んでいかれるおつもりでしたら
是非頭の隅っこにでも漂わせておいてください。
長々と失礼いたしました。
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大事なこといい忘れた。


前回答での、あり方。俺らの在り方というのは、生命体のあり方。
自然です。
マジの話。
自然以降の形而上には、自分というものが無いから。
俺ら、といえるところのあり方は、
自然しかありません。人の文明は、百聞です。一見、一行、一あり方、で、自然というあり方から、三次元分、存在の濃度が薄いです。ゆーれいみたいなもんかな?(笑。幽霊みたいな人、いっぱいおるけどな。でも、心や体があるから甦るだろ(笑。)
150億年の生き様を生み出し、それによって季節を超え続ける、自然というあり方です。
この自然は、かなっています。
上等だけでは、全然、すまんぜ?(笑。
 
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あ~、そうやな。


百聞は一見にしかず、百見は、一行にしかず、百行は一あり方にしかず、無数のあり方も、在る、に如かず。これ以降は数の無い世界だ。だから、今はゆわない。
 
人の言葉は、聞く、というものです。
億の言葉を、幾度募らせても、見るということにはかなわない。言葉は、見たことを伝えるからです。
幾つの場面を見ても、行うということにはかなわない。なぜなら、見えるのは、行いがあるから見えるのです。
幾ら長い時間、様々なことを行おうと、あり方という事にはかなわない。行いとは、生き様とは、あり方の表出だから。

無数のあり方があっても、只在る、には敵わない。
これも、無数のあり方の、その背景が、在る、だからです。
 
在るの、由来は、あらゆるです。
あらゆるの由来は、あらしめるです。
あらしめるの由来は、ありません。
 
同時に、すべてです。

この三元は、数えの通用しない世界です。

人の言葉は、あらしめるというところと、つながっています。それは、聞く言葉ではなく、その人の、意思というものです。言う、言葉です。
また、人の見るということも、あらしめるというところにつながっています。
行いも、あり方も、在るも、すべて、あらしめるというところにつながっています。
つながっていないものは、「無い」
すべて、つながっています。
 
だから、言葉に、重きもおかず、軽んじもせず、自由にしとけゆうことやな(笑。
見ることも、自由に見る!
行い、生き様も、自由を刻め。
あり方も、自由であれ。
在るは、既に自由です。
 
以降三元も、既に自由です。
 
自由は、形而上なので、その本質に形はありません。
ゆえに、形、表出ということを超えています。
 
人の言葉によって形成されるものは、社会や、自分の思い込み、書物、人の文言などです。
それらは自由ですか?
現実を見ると、自由でないことが満開です。
多くの人は、人の言葉に振り回されているのが、現状です。
そういう場合は、言葉を軽んじるという手もある。
重きを置かないのではなく、軽んじます。
そのことで、「見る」や、「行う」といった、ことが、その人に起こってきます。
その効果を期待して、言葉を軽んじるということです。最もよいのは、言葉を自由にしておくこと。

行うということは、できているということです。
できた人というのは、上等な、できた生き様を、持っている人です。
その人は、生きています。
よくできているということは、あり方、自分というあり方を、しているというです。
 
それ以降には、自分はありません。
 
生き様は、そのた言葉によって定義できません。人の生き様をとやかく言うのも無理です。
自分の生き様を、意識しなおすということは、できます。
 
以降三元と、在るから聞くまで、すべて、今という人の生きている場に、あります。
総体的に、意識できます。
  
(普通に生きる、今、人類が求めているのは、自分というあり方を、各々が、意識できる環境に、現にあれているかどうかです。
そういう環境、社会なり、自然環境なり、そういうものを、あり方という観点に立ってみれば、現代人としての自分の状態が、俯瞰でき、また、他の事象について推測できます。人の思いやりや、闘争心、諸々の輝きは、普通に生きれば発揮されるのです。)
 
上等だぜ!
笑笑。

 
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 会話としての言語は共通の言語を持つことによって成り立ちます。

「あなたのちょっとした冗談で相手に不快感を与えてしまった」ということは共通の言語で話していないということです。ジョークとしての言語がジョークとして伝わらなかった、というのはその言語に対して別個の解釈をしている、別個の文化にいるということです。言語とは文化の遺伝子ですから生きている世界観が微妙に異なっている(同じであるほうが気持ち悪いのですが)場合には発言者の意図と異なる反応があって当然です。
 それでも、言語こそがもっとも相手に自分の考えを伝えられる道具であるのですから、相手を理解して相手に伝わるように話すこと、相手の意図を理解して誤解のないように解釈することは一般の会話では重要なことでしょう。言語を共有するということは文化を共有するということです。文化を感性とか生き方とかと言い換えても同じことです。したがって言語は全てを伝えられないのですから伝えられる範囲で伝えるか、自分の文化そのものを言語を尽くして理解して貰うかでしょう。
 「言葉に重きをおく」なということが言語の限界を理解するということであれば、言語系の哲学であれば多くの方がいっていると思います。
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