【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

 一部の現代日本人には です。

 1. 《一部》が 半分近くか一割り二割りか分かりませんが 昔からの《意志をなくした人間》像が流行っているのでしょうか? 

 2. とは言うものの 他方では《われ考えるゆえにわれあり》も流行っている。ゆえに思考を及ぼすことは及ぼすが その結論については すでに偉い人の言っていることのみを取り上げる。のだろうか?

 3. それは意志表示を 誰にかは知らないが 遠慮しつつ控えているのだろうか? それとも 昔からの刷り込みが消えない限り やはりおのれの自由意志というものがあるとは夢にも思わない。のだろうか?

 4. 今回の総選挙における意思表示は ただの流行なのだろうか? それともちゃんとした人間性への目ざめであるのだろうか?

A 回答 (15件中1~10件)

1,考えないひと、考えようとは思わない人は流行るというより、昔から一定数存在すると思います。


2、彼らに影響を及ぼす権威ある知識人は、複数存在すると思います。多くはマスコミに登場する人たちです。彼らの結論のひとつを取り上げて自分のものにするという現象はあるでしょう。彼らの結論が圧倒的にひとつのものに偏っていたら、みんなそうなってしまう(流れが出来る)という現象はあるとおもいます。今回がそうでしょう。
3、普段は考えていないので口にすることはないでしょう。一旦刷り込まれた情報がなかなか抜けない人、そして案外軽薄に最新の情報で意思が更新される人、その二通りがあるのではないでしょうか。
自由意志があることは知っているのでしょうが、自分の考えに自信が持てないひとが大部分なのでしょう。
4、変わらなかった人たちも多い(現、前、元総理などに入れたひとたちを筆頭として)と思いますが、変えようと合唱したマスコミに踊らされた人たちも結構多かったし、彼らの数が流れを変えたということもいえると思います。流行というのはつねにマスコミ(の知識人たち)によって起こされることが多いということはいえます。
>それともちゃんとした人間性への目ざめであるのだろうか?
解釈によりますが、上記の流れの中にひょっとしたらあるのかもしれません。この結果(変えてよかった)次第でそれは顕在化する(彼らが自信を持つとか)可能性があります。そうありたいですね。
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この回答へのお礼

 なるほど。
 ★ 自信 
 ☆ あるいはその己が考えや振る舞いについての確信。――この問題でしたか。

 amazo007 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 ★ 1, 考えないひと、考えようとは思わない人は流行るというより、昔から一定数存在すると思います。
 ☆ この《流行る》というのは わざと言ってみたのですが そうあって欲しいと思ってのことでもあります。民主主義が唱えられて久しいですから。個人だとか個性だとか自己責任やら説明責任やらと叫ばれて久しいですから
 ☆☆ 《意志をなくした人間》像
 ☆ は昔のことかと思っていました。思いたかったのです。

 あとは 穏当なご見解を伝えてくださったと思います。

 ★ 3、普段は考えていないので口にすることはないでしょう。一旦刷り込まれた情報がなかなか抜けない人、そして案外軽薄に最新の情報で意思が更新される人、その二通りがあるのではないでしょうか。
 ☆ この二通りというのは おもしろいですね。
 そうしてけっきょくは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >それともちゃんとした人間性への目ざめであるのだろうか?
 解釈によりますが、上記の流れの中にひょっとしたらあるのかもしれません。この結果(変えてよかった)次第でそれは顕在化する(彼らが自信を持つとか)可能性があります。そうありたいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここに行き着くようですね。
 なにはともあれ 堅実な見方でお答えくださって うれしい思いをしております。

 かくなる上は 新たな主題・課題としては たとえば

 5. 昔の《意志を持たない人間像》の刷り込みを 無くす方法は如何?
 (その歴史的な分析から始めなければならないという大きな問題ですね)。

 6. 民主党政権に加担するといった方面はここでは放っておくとしまして 
 ★ マスコミ(の知識人たち)
 ☆ によい影響を われわれ一般市民が与えるにはどうすればよいか?
 
 さしあたって これらでしょうか。マスコミとのたたかいなども出てくるのでしょうか? 恐いもの知らずの能天気の言い草でした。
 amazo007 さん ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/31 20:07

4


流行です。
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この回答へのお礼

 pupurpu さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ちょっとずるをして No.1の amazo007 さんのご回答から引用し そのままをわたしのご返事とします。
 ◆ (No.1:amazo007 さん) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 4、 変わらなかった人たちも多い(現、前、元総理などに入れたひとたちを筆頭として)と思いますが、
 変えようと合唱したマスコミに踊らされた人たちも結構多かったし、
 彼らの数が流れを変えたということもいえると思います。
 ★ 流行
 ☆ というのはつねにマスコミ(の知識人たち)によって起こされることが多いということはいえます。

  >それともちゃんとした人間性への目ざめであるのだろうか?

 解釈によりますが、上記の流れの中にひょっとしたらあるのかもしれません。この結果(変えてよかった)次第でそれは顕在化する(彼らが自信を持つとか)可能性があります。そうありたいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/09/04 07:14

オコリザルです。


セレビィとしての心象です。
暗闇を見据えるため、より深い暗闇へと至る行いとは、要するに鬼門を守る「おっさん」を徹底的に馬鹿にすることです。
とことん見下してもまだ足りないというほどに、馬鹿にしつくすことです。
人様相手ならやらなくてもいい様な気もしますが、なぜか最近のクセです。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 今回のご発言は 完全に分かりません。
 ★ 鬼門を守る「おっさん」
 ☆ が分かりません。セレビイも知らないのですが この文章として このおっさんが ただの心象風景に出てくる何かの思いなのかその欲望としての執拗なむさぼりのことなのか。

 ★ 暗闇を見据えるため、より深い暗闇へと至る行いとは
 ☆ という表現で言われれば わたしならその暗闇を照らす行ないだと採りますが そうではないでしょうか? つまりはっきりそう言い切ったかたちで進めてもよいように思うのですが どうなのでしょう? 
 推測でした。

お礼日時:2009/09/04 07:07

オコリザルです。


12番には反論や反抗の類が集まることを期待します。
反抗の趣旨は「やっぱりお母さん見ないにしてください~」でしょう。
スサノオびいきとして、いかが思いますか。
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この回答へのお礼

 つづきです。

 これもですね。
 ★★ (No.12) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言うなれば自らの言葉の意味を知らない「無自覚」「無責任」です。優しくなだめるなら「自らを知らないだけ」でしょう。でも、哲学バトルの好きなおっさんが、お母さんのように優しくなだめたりはしません。いわゆる「体罰」や「いじめ」でお返しすることとなります。最近使用する私の決別の言葉が「生きながらに入滅しなさい」です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その無責任発言の人間が 《お母さんのように優しくなだめ》て欲しいと 内面では 思っているとした場合 そのとき同じく次のような事情があるのかも知れません。つまり
 ★ 反抗の趣旨は「やっぱりお母さん見ないようにしてください~」でしょう。
 ☆ ただわたしとしましては そのたぐいの事情については 放っておきます。自分で取り組みなさい です。

 ★ 「生きながらに入滅しなさい」
 ☆ これは その相手には効果があるということでしょうか? それなら 何も言うこともないのですが わたしにとって意味がはっきりしないものですから 取り上げられれば訊いてみたくなります。
 ○ 豆腐の角に頭をぶっつけて死んぢまえ。
 ☆ と同じ使い方にも思えますし。

お礼日時:2009/09/04 06:59

オコリザルです。


けんか上等の姿勢から自己の回答への補足です。

その自己主張の無さをもって自分で考えていないとみなすなら、それは当事者にとって自覚のないゆえに、けんか腰の言いがかりと受け取られて、やはり自らに責任の持てる考えと認識しているとの主張が返ってくることでしょう。

その自己主張の無さをもって尚、その無責任発言が、自らの見解と言い張るなら、その無責任を指摘することは、告発された当事者にとって(無責任ぶりに)無自覚故、けんか腰の言いがかりと受け止めて、マジギレの逆襲をする権利があるかのような錯覚に陥ります。「俺が無責任なのはあったりまえだー。」そのようにマジギレ主張をする権利と言うか、情動の相互理解の関係においては、キャッチボールの無さ故に必然的に発生する暴言です。ちなみにそのような暴言を悪とみなすのは幼稚でしょう。言うなれば自らの言葉の意味を知らない「無自覚」「無責任」です。優しくなだめるなら「自らを知らないだけ」でしょう。でも、哲学バトルの好きなおっさんが、お母さんのように優しくなだめたりはしません。いわゆる「体罰」や「いじめ」でお返しすることとなります。最近使用する私の決別の言葉が「生きながらに入滅しなさい」です。

補足修正しました。
無責任をとっかかりにしているので作文そのものは修正の余地もあるでしょう。
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 ★ 無責任をとっかかりにしているので作文そのものは修正の余地もあるでしょう。
 ☆ とわたしも感じました。
 たとえ相手の発言が《無責任》だと分かっていても こちらから先に《それは無責任な発言だ》と言ってしまっては その規定じたいに相手は反応することになるからです。
 自分で自分の無責任振りに気づくまでは 一般に ふつうに対話をしているというかたちを採って 応対して行かざるを得ないと思います。
 どうでしょう?

お礼日時:2009/09/04 06:46

オコリザルです。



>。《誰かほかの人が言ったこと》と《自分で考えたこと》との区別がつかないといったことが ほんとうにあるのでしょうか?

引用の形で他者の見解に考えが及んでも煩悩の片鱗です。
それじゃー無理だ。
なんて、言わないでください。
とことん咀嚼可能です。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回のご発言は誤解を生む要素があると考えます。
 ★ 引用の形で他者の見解に考えが及んでも煩悩の片鱗です。
 ☆ おそらくこの場合は 引用する人はその《他者の見解》に寄りかかっているだけだというものでしょう。そのように限定しておかないと 語弊があります。
 引用するとその人は すべてその引用文の見解にべったりなのかと反論が出ます。

 そうしておっしゃろうとしていることは
 ○ 《誰かほかの人が言ったこと》と《自分で考えたこと》との区別がつかないのではなく 《自分で考え〔てひとつの結論に達したことがなく まれに達したとしてもそれを自分の結論として発表し〕たこと》がないのだ。
 ☆ といったところでしょうか?

お礼日時:2009/09/04 06:36

オコリザルです。


他の方のご回答からの引用によるマメ知識です。

>ところで、公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見によるものであるとそれを知る人は語ります。

要するに唯識に語る末那識の(意思の)平等性智としての特性です。
仏教由来の学問の平等性智を、私は「愛に基づく公正な采配」と解釈した裏切り者ですが、迷うように二分される選択肢である我は有ると我わ無いを欲望に感化されない純粋な選択として煩悩の形にするならば、愛の采配により(我どころか)全ては有るとされるのが私流の観念純化作業としての思索の遍歴であり、平等性智とされる思考から導かれた結論です。
仏教に現れる「無」の概念の研究のおかげで脳内はデジタル式コンピュウターのように「ある」と「無い」に二分されます。そうして無いものは無いと「無」(生きながらに入滅が最近の口癖ですが)の確定により、全てがあるに至るのです。
この自らに至るまでの観念の純化作業の途上では、統合失調症みたいに煩悩により二分されたうちの「無い」の方は「慈」の語源に現れるお友達の意味よろしく他者の形をとります。
それが、ご回答にあった「公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見」となり、要するに自らの煩悩であるとの自覚ですが、よく吟味していただきたいのは「慈」のなんたるかです。結論は「慈」は「無い」です。
そうすると、今回の質問の趣旨の通り、お友達と言うほど親密であったかはともかく「誰かほかの人が言ったこと」を鵜呑みにしたままで、そのような煩悩を放置している自分に気づき、私自身が先達者のように願うところなら、その「誰かのいったこと」はどんなに耳触りが良くてもそのままでは煩悩であるところまで気づき、悟ったと言いえてほしいところです。

簡単なことです。
学んだことは咀嚼して、自分自身の血肉にしてくださいということだけです。
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この回答へのお礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 簡単なことです。 / 学んだことは咀嚼して、自分自身の血肉にしてくださいということだけです。
 ☆ これなら分かります。そこまでに到る過程が 長いです。その観念の操作が分かりにくいです。
 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうすると、今回の質問の趣旨の通り、お友達と言うほど親密であったかはともかく「誰かほかの人が言ったこと」を鵜呑みにしたままで、そのような煩悩を放置している自分に気づき、私自身が先達者のように願うところなら、その「誰かのいったこと」はどんなに耳触りが良くてもそのままでは煩悩であるところまで気づき、悟ったと言いえてほしいところです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。《誰かほかの人が言ったこと》と《自分で考えたこと》との区別がつかないといったことが ほんとうにあるのでしょうか?――このことのほうが おどろきなのですが。

 ★ 煩悩
 ☆ って言ったって――もしおのれのうそ偽りとそれらから派生した欲望でなければ―― ただわたしの精神(こころ)に外から覆いかぶさったり突き動かしたりするものでしかないと思うのです。内からうごめくむさぼりの欲望はたちがわるいですが ともかくそういう腑分けをしつつ それらの自己浄化として自己を突き抜けて行く過程を思い描くことになると考えます。
 ◆ ところで、公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見によるものであるとそれを知る人は語ります。
 ☆ という具合いだと思います。
 ここで
 ○ 煩悩即菩提
 ☆ に到るもののようです。どうでしょう?

お礼日時:2009/09/03 23:24

自分の意志や考えは自分自身に基づいて行うところで実証され、他の人の事についてはそれを尊重すべきであると思います。



1)確かに一切世間の人々には迷いがありますが、意志もあり、確かな人間性も存しています。
2)名言であるか否かにかかわらず、言葉を聞いてためになったのであれば、それでよいのではないでしょうか。誰が言ったかは関係ないと思います。
3)自分の至らなさを知った人が、発言をあえて控えることはあるでしょう。もっとよく語る人がいると思うからです。又、ためになることのうちで、自らに語れることは、自らが語ってよく、それをさらに自制する必要は無いと思います。自制されている言葉を、さらに矯める必要はありません。
4)選挙に行くことは公的活動であるので、公正さに基づいて成されるべきであると思います。公正さは、人間の社会性の規範となるものであって、ないがしろにすべきでは無いと思います。それだけでなく、公正さは、自分と他の人の関係において偏り無く物事を考えるのに役立ち、争いを生じないのに役立ち、平和に安立するのに役立ち、誰しもに不満が生じ無いことに役立ちます。
ところで、公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見によるものであるとそれを知る人は語ります。大いなる道は人と複雑に絡み合うことが無い。それでいて、自らの歩みは確かにして、人々の実相をありのままに知り及ぶ。観念を超えた境地は、観念によっては知り難い。知りがたいが、観念よりも身近であると知って、健き人はその道を行くのです。我を制して歩くその人に追いつくことは容易ではない。目覚め歩む人というのは、かようにして、一切の塵垢、無駄にまとわりつかれず行くからです。

この回答への補足

 teruteru_3 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。人間論の基礎に立って 人間とその社会についての基本的な事項を確認するというかたちを採っていただきました。
 No.1の amazo007 さんからおそわった
 ◆ 自信
 ☆ の問題を 基礎から補強してくださったとも受け取ります。

 その上で――その上でですが―― この質問を提出したわたしにも物言いがあります。それをたたかわせるかたちで述べます。
 まづ大前提の問題ですね。
 ★ 自分の意志や考えは自分自身に基づいて行うところで実証され、他の人の事についてはそれを尊重すべきであると思います。
 ☆ ひとことで反論すれば
 ○ 存在とその意志は互いに 絶対的に尊重する。と同時に その意思表示として表現されたさまざまな主題についての見解 これは互いに自由に批評し批判し合います。
 ○ 《意志》は絶対的に尊重し合い――反対意見であってもそれを述べる自由は ともに尊重し守り合い―― その述べられた《考え》については 互いに自由に批判し合う。
 ☆ こうなると思いますが どうでしょう?
 ですから
 ★ 1)確かに一切世間の人々には迷いがありますが、意志もあり、確かな人間性も存しています。
 ☆ につきましても 《意志》と《人間性》は尊重し 《意見》としての《迷い》については 批判する。に帰着すると思いますが どうでしょう?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2)名言であるか否かにかかわらず、言葉を聞いてためになったのであれば、それでよいのではないでしょうか。誰が言ったかは関係ないと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは同感です。趣旨説明でわたしが言っているのは 
 ○ 自分を意見を明らかにせよ。
 ☆ これのみです。ほかの人のそれと同じであれば むろんそれは構わないわけです。自分の意見だとはっきり言えないことをなじっています。
 ★ 3)自分の至らなさを知った人が、発言をあえて控えることはあるでしょう。・・・自制されている言葉を、さらに矯める必要はありません。
 ☆ おっしゃるとおりです。しかもたとえば 《わたしは見解がまだまとまっていません。自制します》と言うのであれば いいわけです。何の問題もありません。何にも言わない。さりとて 意見を述べたそうにしていて すでに述べたではないかとか 詳しくは言わない・言えない それは察しなさいといった答え方をする場合に対して とがめています。

 ★ 4) ・・・大いなる道は人と複雑に絡み合うことが無い。それでいて、自らの歩みは確かにして、人々の実相をありのままに知り及ぶ。・・・
 ☆ おっしゃるとおりでしょう。しかも――しかもです しかも――その《歩み》において《人々の実相をありのままに知り及》んだところのその識見を ひとと交じわらせるのも 自然の成り行きであると同時に 積極的な活動としてもある。こう考えます。
 ということは
 ☆☆ 要するに一部の現代日本人には 自分の意志や考えがない。
 ☆ とすれば その現実について当然の如くみづからの考えをめぐらすものと思います。
 極端に言えば 態度や姿勢はどうでもよいのです。どう考えどう表現するか。何をどうしようとするのか。こちらの方面において すべての勝負がつきます。それでこそ
 ★ 大いなる道は人と複雑に絡み合うことが無い。
 ☆ と堂々と言えることと思います。大いに批判を自由に交える交通をおこなってこそ 《複雑に絡み合うことが無い》と言えるはずです。無門でしょうから。対話をおこなってこそ 大いなる道と言えると思います。
 どうでしょう?

補足日時:2009/09/03 19:16
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オコリザルです。


とっかかりの補足です。
>帰ってくる「責任をもって主張しているのだ」は、私にとってマジギレの暴力です。

責任のとれないことが明白な事柄、非思考の謎の領域に、土足で足を踏み入れようとする暴力です。
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この回答へのお礼

 ★ 責任のとれないことが明白な事柄
 ☆ そのとおりだと思いますよ。
 わたしの解釈からすれば 《もはや対話を停止し席を立つ》というのですから 責任をとるなどという考えは とっくに捨てています。その相手はです。

お礼日時:2009/09/01 23:50

オコリザルです。


寝る時間なのでとっかかりだけ。

★ やはり自らに責任の持てる考えと認識しているとの主張が返ってくることでしょう。
 ☆ というのは こちらがその《自己主張の無さ》などを指摘したあとに ということでしょうか? つまりは 《そんなことはないのだ。責任をもって主張しているのだ》と言い返してくるということでしょうか?

そのような認識のもとに書きました。
帰ってくる「責任をもって主張しているのだ」は、私にとってマジギレの暴力です。
コツは憶えていまして、笑い飛ばすためにさらにいじめる猿回しをするのみです。
主観の問題ですが、
そのマジギレにbragelonneさんは認識がなし。私は認識があり。このようなことでしょうか。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 すでに結論のところから行きますが
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 帰ってくる「責任をもって主張しているのだ」は、私にとってマジギレの暴力です。
 ・・・
 そのマジギレにbragelonneさんは認識がなし。私は認識があり。このようなことでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合を述べます。すでに書きましたように
 ★ 帰ってくる「責任をもって主張しているのだ」は
 ☆ その相手が 対話を拒み 席を立とうとしていると受け止めて もう放っておくということになります。その対話が《切れ》たというかたちであり そういうふうに受け取るという意味です。つまり《去る者は追わず》になります。
 ただしそのときに 人格を汚す言葉が交じっていたなら それに対しては その相手の欠陥を徹底的に憎みます。《存在》を否定するのとほぼ同じ程度に その《人格無視》という欠陥を憎悪します。すなわち 《永遠の火の中に行け》です。
 
 ★ コツは憶えていまして、笑い飛ばすためにさらにいじめる猿回しをするのみです。
 ☆ 相手になることは相手になる のですね。ただいまの場合は 直接に話を交わしているのではないかたちなので やりにくいでしょうね。お察しします。

お礼日時:2009/09/01 23:47

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