激凹みから立ち直る方法

「心の闇」という言い方をしますが、「心の闇」とはどのようなものをいうのでしょうか?
客観から言っている場合と、内面の体験として言っている場合では、
実は異なることを同じ表現で言っているのでは?と思いますが、
どうなんでしょうか?
漠然とした質問なので、幅広い観点から回答いただければ参考になります。

ご意見をお聞かせください。

A 回答 (13件中1~10件)

 客観視と内面視(?)との違いはよくわかりません。

(考え中)
 回答No.8、amazo007さんがこの点に就いて触れているので、目下勉強中です。

 回答No.1、bragelonneさんの回答は、いつものように分かりにくいですが、一口で言ってしまえば仏教で言うところの“煩悩”のことのようです。

 また、他の回答者さんも“煩悩”をそれぞれの表現で回答されているように思います。

 たぶん多くの人は、常識的に理解していて、疑問として取り上げようとは思わない事柄と考えます。

 でも問われてみて初めて、これは考えてみる価値があるかも?なんて、思いました。

 心の闇とは“どのようなものか”については、すでにいろんな意見が出ていますが、それを拝見しながら、ふと思いました。

 それではなぜ、心は闇とか光とか、「明暗」を意識するのかということを。

 回答ではないので「補足」としました。今から「思索?」に入ります。

 興味ある質問、ありがとうございました。

 
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助けてってサインだと思う。

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詩的なご質問ですね。


答えも詩的な感じでよければお読みください。

>心の闇とは?
普段は気が付かずにいる心の深淵でしょう。
見たこともなく、また在るとも思えない深い心の世界です。
その中には獣もいれば神もいる、否定したいが否定もできない心です。
眠っている獣や眠っている神が、現れそうになって人は始めて気が付きます。
自分ではない・・・自分の本当の姿ではない・・
本当の姿ではないが切り離せない・・否定できないものだと。

貪りにとらわれて満たされず飢えた心も
また反対に、与えることに喜びを感じる優しい心も
みな、心の底の闇の中にあります。
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心の闇をはっきりと云うならば、心の矛盾です。

それは誰もが抱えています、ただ気が付き難いという側面が有ります。心の矛盾と云うのは願いがって、叶わないという意味でも在ります。欲しいものが有って手に入らないという事実が有ります、

人間の抱えている最も最大の関心事は有限と永遠との葛藤です。言い方を替えたなら、死にたくないという感情と、死にゆくという事実の事です。永遠の命が欲しいという願望の事です。ですが生まれた者は必ず死んでゆくという事実が有ります。

この人間が有限の身と云う立場から永遠を眺めた場合に、心の矛盾が生じます、言い方を替えたなら「心の分裂」と云う事になります。

実際に死に直面した場合に死を間じかに感じた時には、心は狂うほどの感情が湧きます。死んだことが未だ無いという事実に身震いがする筈です。不安と恐怖が入り混じっているはずです。この時の自分の心の事を覗いた時、或いはこの恐怖で自分の有限の身を思った時が「心の闇」と云うのかと思います。

有限のこの身が有限の壁を越えられないと知った時の事を「心の闇」と云うと分かり易いかも知れません。覗いてはいけないものを覗いてみた、と云う事になります。

ですがこの事を詳細に検討した場合には、人間の偉大さが分かります。有限の壁を破れないと思っていた事は、心の秘密が分からなかっただけと知る事が出来ます。自分の恐怖心は自分自身が発信していた事が分かるからです。

云い方を替えたなら心の矛盾と云う事は自分は有限の身、と云う事実と自分には永遠の命が備わっていた事が存在しています。自分の中の有限と、自分の中の永遠が争っている事が人間の苦しみとなっています。」

自分がその心の秘密を知るだけで自分の魂は永遠そのもので出来ていた事を知る事になります。自分の魂は不生不滅であったという事実の事です。その事を昔から神、仏と云っています。救いのない人生に救いを求めていた事が迷いと分かる時の事です。
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光という概念があるからこそ、闇という概念が生じるわけですが、心の定義を曖昧にしたままでも、両者の概念の差異から、どのようなことであろうかは、想定可能です。



しかしながら、客観性(他者との共有の可能性)を重視する(ないし高める)方向性、具体的には、他者との概念の共有の為に言語化する過程での、概念の明確化(境界の明瞭化)を行おうとすればするほど、内面の体験といった情態からは離れていくのだろうと考えます。

で、そういった危惧をあらかじめ想定した上で、なるべく漠然性を残したまま、あえて「心の闇」について記述するならば、方向性といった概念のみを用いるのが良いと考えています。すなわち、心という概念に対し、「光の方向と闇の方向とは?」と言うことです。

これは、個々の人の立ち位置や状況・情況によって異なるでしょうが、少なくとも、「こころ」にとっての外部の方向性(ないし自分自身という内部への方向性)に対し、明らかにされても良い、他者に見られても良い、共有・共感の対象となって良いところが、「(外からの、ないし内からの)光に照らされて良い」という概念に相当するかと思われます。

すなわち、「心の闇」とは、そういった自他からの視線から明るみに出てこないような、出せないような部分を漠然と指していると思います。
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世間でよく使う例として、


普段明るい青年がある日凶悪犯罪を犯す、とか、
いい年をしたごく普通の中年男性が万引きをするとか、
「ひとの心の闇から”予想もしない魔ものが出現した”」といったようにいわれます。
つまり見えない(悪に類する)ものを「誰もが」心の隅に飼っていて、稀にそれがひょっとした心のすきをついて出現する、といったようなことでしょうか。
確かにそれはあり、誰もがその可能性があるというところに怖いものがあります。
それが何なのかは、まだ確たる説明がなされていません。だからこそ「闇」といわれるのでしょう。
犯罪心理学に関係するのかもしれませんが、私は専門家ではないので詳しくは語れません。
ご参考まで。
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まったくの素人の考えることですが、自分が親から受け継いだ遺伝子のことがわからないのとまったく同じで自分の精神構造なども分かっていないところがたくさんあるということではないかと思います。

もう一つは自分(認識主体としての)のことだけはわからないという意味にも取れると思います。
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自分とは言葉で認識する己のことです。


自我とは自分を見つめる中枢です。
心とは自我を動かす命の最も深い部分にあるDNAの記憶です。
心が宇宙の産物であるため、
顕在宇宙とともにダークマターが存在するように、
こころにも闇がそんざいします。
そしてダークマターが宇宙の90%を占めるように、
また心の闇も心の90%を占めています。
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仏教で言う、「無明の闇」が思い浮かびました。

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「心の闇」とはどのようなものをいうのでしょうか?



心というものがわからないと光も闇も理解できないとは思いますが、まあ簡単に説明しますと、
一瞬一瞬、人の考えというものは変わって行きますね。その考えの内容をいくつかに分類しておくと、心(考え)の方向はいつも変化していて、自身の興味のある方向をふらついているわけですね。
これを心の針といいます。多様な考えの内容を大きく2つに分類したのが光りと闇ですね。光というのは明るく前向きに考える内容。闇というのは暗く後向きの考える内容ですね。
各思考内容に即した世界があるとするのが一念三千論という仏教の教えです。浮かんでくるいろんな考えにはそれなりの思考世界があるというものです。
つまり、心の針がいろんな世界に向かっているということですが、その全ての世界にはドアが付いているのですね。
心がある事柄に常に留まるようになると、そこの世界のドアが開いて別の世界の住人が心に踏み込んでくるのですね。
光りはいいんですが、闇が問題ですね。心が暗く落ち込んでよからぬことに留まると、そこのドアが開いて漆黒の闇から亡者が心に入り込んでくるのですね。心がのっとられてしまうと本人ではなく他人が本人のロボット肉体を操縦するようになりますね。
本人が知らないうちに悪さをするのですね。いやむしろそれが慢性化すると悪い他人が自分だと誤解する者もおおいですね。これが心の闇の怖さですね。
多くの凶悪な犯罪はそのような現象で起きてますね。
心の闇から逃れる方法は常に心を光りの方向に向けておくしかないのですね。それが出来ていないものには必ず心の闇、つまり亡者の出入り口があるということです。
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