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20代の女性です。教えて下さい。
最近結構質問させて頂いておりますm(_ _)m

タイトルの通り、
パートナーに対して「嫉妬」するのは愛ゆえなのでしょうか?
それとも相手を信じていれば「嫉妬」など起きないのでしょうか?

更に、パートナーに浮気をされた時に
許せるのが愛?許せないのは相手を本当に愛していないから?

たまに哲学的な事を考えてしまうのです。
宜しければ、皆様の恋愛観をお聞かせ下さい!

A 回答 (19件中1~10件)

No.15、16ですが、回答への「お礼」、ありがとうございました。



>私も、エゴと愛の関係についてよく考えます。

私は思うのですが、われわれはあまりにも、「愛」は肯定的な価値を有し、「欲」は否定的な価値を有する、という先入観、偏見に囚われすぎているのではないでしょうか。
だから、本当に虚心坦懐になって自分の内面を点検してみると、「愛だと思っていたものが、もしかして単なる我欲にすぎないのかもしれない、ただ愛という言葉を被せることで我欲という正体・真相を見抜けなかっただけかも」ということに気付かされ、ハッと驚かされるのではないでしょうか。

でも、人間である以上、誰も純粋な愛だけで生きられるほど強くはないし、純粋な我欲だけで生きられるほど弱くもないとは思いませんか。
誰もが愛と欲を併せ持って、人生のいろんな局面で一喜一憂しながら日々の生活を営んでいるのではないでしょうか。

>エゴの為に誰かを愛する、という事も言えるのでしょうか・・・。

仏教は、愛の本質について、もっぱら「愛欲」、「愛執」、「愛着」、「愛染」という熟語が端的に示すように、そもそも煩悩に発する欲望、妄念だとちゃんと見抜いております。
もちろん、肉親への愛情(恩愛)にしても、煩悩にほかなりません。
と同時に、仏教は人間にこういう己れの罪深さを省みることを機縁にして、菩提(智恵、悟り)に導かれることの大切さをも説いているわけで、これが煩悩即菩提ということの謂だと思います。

ということで、愛する人が自分以外の異性に心を向ければ、たとえ仏教で戒められている嫉妬であろうと、これで苦しむのは当然のことですし、それが自分の我欲(煩悩)に起因するからといって、過度に自分を責めるには及ばないと思います。
ただ、もし、「嫉妬」を世間に通用する「愛」に基づくのだからといって、自分は正しい、間違っていないと思い込んでしまうと、「愛」の美名の下に我欲を正当化しようする偽善的な生き方からは逃れられないような気がします。
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この回答へのお礼

自分の質問返しにご丁寧にお答え頂きありがとうございます!

私も、「欲」に対してはつい否定的に思ってしまうきらいがあります。
しかし、仏教の悟りとは罪からの機縁によるものなのですね。
人が生きる、という事は素晴らしい事だと思いますが、
愛する事が煩悩に発する欲望なのならば、生きる事もまた罪深い
のかもしれないのでは・・・と勝手に考えてしまいました。

う~~ん。難しいです。
「愛」って本当に難しいですね。
でもこの世に生まれて来た証として、誰かを愛したい、
そして愛されたい・・・と思います。
それが苦しみを伴うものであっても。

お礼日時:2009/10/04 17:12

2度目です。


お邪魔します。
彼の為に命を捨てるれるかはどんなに愛していてもNOでいいと思います。
自分が死んでしまったらその人の幸せを見届けることができません。
その人の幸せを見届けたいと思うのも人の愛でしょう。
それが自分の手によってのみではなくて
誰かの手によってでも…。
語りだすと取り留めなくなりそうなのでこの辺で失礼します。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます!

確かに・・・
死んでしまっては、その人を幸せにする事も
見届ける事も出来ませんものね。
「究極の愛」について考えた時、自分の命を差し出せる事なのだろうか?
と思った事もあったのです。

本当に、「愛」について語りだすと時間が幾らあっても足りません(汗)
でもだからこそ、答えが見えないからこそ語りたくなるのかも
しれませんね。

お礼日時:2009/10/04 16:59

度々失礼します。


相手に自分だけを見てほしいという気持ち、私ももちろんあります(^-^)
ただ、なるべく物事を考えるときに、自分のみでなく、相手の立場を交えて考えていくと
『自分を見てほしい』というよりも『自分を見てもらうためにはどうしたらよいのだろう』
という方向になってきて、その結果が、『相手が心地よくいられるために』という考えを生み、
それに向かって行動しているうちに、相手に一緒にいてほしいなと思ってもらえるような自分になれている気がします。
もちろん足らないところもたくさんありますが、気持ちは伝わっているのだと思います。
自分を見てもらいたいと考えてへこんだりするよりも、そんな自分を作り上げていく
って考え方はとても健康的な気がするし、その過程も意外と楽しくて、
そんなことしているうちに、いろんなことが上手に回っていくような気がしています。
(ちょっとナルシストになることも必要なのかも(笑))
それと逆に、相手に対し自分の感情が全面的に出たときは、結構うまくいかなくなったりして
そんな自分にへこんだりして・・・(苦笑)

愛の定義はたくさんの種類があると思うんです。
私も来年小学生になる息子いますが、息子に対する愛情と主人に対する愛情は種類が違う
気がしますし、でも、『愛』には変わりないと思うんです。
余裕をもって愛情を注いでいたいものだと常に思いますが、感情的になって相手に向かってしまうときも、
やさしい気持ちで相手も見つめることも、すべてがひっくるまってはぐくまれるのが
まさに『愛』なんだと私は思っています。
嫉妬されることもすることも時に必要なことのようなきもしますし、
それを悪いとか悪くないとか決めるのは受け止める相手やそのときの状況によっても
変わってくるだろうし、白か黒か決めるというよりは、マイナスだなと感じる感情が
自分のなかに生まれて来たときに、自分の中でプラス思考に変えてゆく柔軟さが
重要な気がします。もちろんそれは、いろいろな物事考えるときにも重要なことなんだと、思います。
なんだかちょっと質問内容からずれてしまって申し訳ないです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます!
お返事が遅くなり、失礼をお許し下さい。

確かに、どんな物事でも「相手の立場を交えて考える」
というのは大事な事ですよね。
自分が自分が、と思っていると、choppo8様の仰る通り
うまくいかなくなってしまいますものね。。。

私も余裕を持って真っ直ぐに愛情を注いでいきたいと
常日頃から思ってはいるのですが、なかなか難しかったりします 笑
質問内容からずれているどころか、こんな風にお考えを
聞かせて頂き、大変感謝しております!!

「愛する」という事に対しての答えは見つからなくても
自分なりの愛し方は見つけられそうな気がして参りました。

お礼日時:2009/10/04 16:53

No.15ですが、下記の通りに一部訂正させていただきます。



(誤) 個人と個人との関係において可能なのは、せいぜい、GIVE=TAKE止まりではないでしょうか。
↓↓ 
(正) 個人と個人との関係において可能なのは、せいぜい、GIVE&TAKE止まりではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご丁寧に修正ありがとうございます^^
上記にコメントさせて頂きましたのでよろしくお願いいたします!

お礼日時:2009/10/02 10:39

>パートナーに対して「嫉妬」するのは愛ゆえなのでしょうか?



ご質問に回答するには、ここで使われる言葉、「愛」の意味(概念)をきちんと定義しておく必要があると思います。

日本語での「愛」(アイ)はあくまでも漢語であり、主として仏教用語として用いられてきたものの、たとえば「恋」(レン)には「こひ」という和語が対応するようにして、「愛」(アイ)に対応する和語はそもそも存在しないことを、まず確認しておく必要があるかと思います。

「こひ」は純粋な古くからの和語ですし、日本人の身体感覚に根ざした言葉だとすれば、「愛」は「アイ」という中国語の発音をそのまま模倣していることからも明かなように、これはあくまでも外来語でしかなく、言語感覚の鋭敏な日本人なら、自分の純粋(身体)感覚との間に微妙な齟齬、ズレを感じないではいられない、別誂えのよそ行き用の言葉だと感じ取ることができるはずです。

なお、キリスト教的な意味での「愛」はアガペーに由来する「愛」でして、これは「無償の愛」、「見返りを求めない愛」、「相手に尽くすことに喜びを感じること」いう意味での「愛」でして、ちょうど母親のわが子に注ぐ感情に近いかと思います。
申し上げるまでもなく、こういう「愛」は「嫉妬」とは相容れませんよね。

>それとも相手を信じていれば「嫉妬」など起きないのでしょうか?

理屈上はその通りですが、この世にこのような自己犠牲的な「愛」に生きられる人がはたしてどれほどいるか?となると、私には疑問でなりません。
私たちは、自分の自我(個人的権利)の尊厳性を信じ、これは社会から保証されてしかるべきであるという、いわゆる個人主義を信奉するようになって以降、永遠に無償の愛、自己犠牲的な愛に生きることを放棄してしまったのではないでしょうか。

いわゆる個人主義とか民主主義が信奉される社会においては、われわれはGIVE&TAKEの生き方、つまり損得勘定を大事にした打算的な生き方をするしかできないはずです。
もし、GIVE=TAKEという意味での「愛」を貫こうとしようものなら、我欲(エゴ)の側では必ず自己犠牲に我慢できなくなるからです。
にもかかわらず、愛に生きることの尊さとか、素晴らしさを他人に他人に吹聴するというのは、たとえ本人はそうと自覚しないにせよ、やはり一種の偽善としか言いようがないと思いませんか。

>パートナーに浮気をされた時に許せるのが愛?許せないのは相手を本当に愛していないから?

もし、われわれが本当に他者を愛することができるなら、たとえ浮気されようとも「許せる」と思います。
ですが、個人の権利とか個人の尊厳とかといった常識(妄想)に囚われている現代人のだれにそんなことができるでしょうか?

ということで、人間は個人の資格では他の個人を愛することなど到底不可能だと思います。
個人と個人との関係において可能なのは、せいぜい、GIVE=TAKE止まりではないでしょうか。
その限りにおいて、大切なエゴを傷つける浮気を許せないのは当然だと思います。

以上、少しだけ「哲学的」に考えてみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

他人を本当に愛するって、やはりとても難しい事なのでしょうね。
私も、エゴと愛の関係についてよく考えます。

人間は誰しもエゴを抱えているのに、何故人を愛したいと
思うのか。人を愛するという事はエゴからかけ離れた行為で
あるような気も致しますが、エゴの為に誰かを愛する、という事も
言えるのでしょうか・・・。考えても考えても答えが出ませんね。

お礼日時:2009/10/02 10:38

嫉妬については個人差はあると思いますが、パートナーを愛していれば、そのパートナーが他の異性と仲良くしていて気分の良い人はいないでしょう。

ですから、相手を信じていようがいまいが、嫉妬(やきもち)はするでしょう。むしろ、しない方が不自然で、嫉妬しないのは無関心だと言えます。
間違ってはいけないのは、嫉妬と独占欲や強い束縛とは別物だと思います。

>パートナーに浮気をされた時に許せるのが愛?許せないのは相手を本当に愛していないから?

これは嫉妬とはレベルの違う明らかな裏切り行為です。愛していればいるほど憎しみは大きく、許せないでしょう。これを許せる人は、パートナーに依存しきっている人か、そのパートナーがいなければ、後がないモテい人ではないでしょうか。

それと、恋愛に哲学なるものが当てはまるのかは疑問ですが…
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>恋愛に哲学なるものが当てはまるのかは疑問ですが…
すみません。語弊があったかもしれません><
哲学が何たるかをしっかり理解していないのに「哲学」という
言葉をつい引用してしまいましたm(__)m

やはり愛すれば愛するほど
憎悪の念が沸き上がってくるものでしょうか。
それに囚われたくないなぁとも思うのですけど、、、
なかなか難しい。。。

お礼日時:2009/10/02 10:32

「愛する」とは具体には「日常的にそばにて何くれとなく面倒を見る。

そのことについて特に見返りを求めない。」こと。
母親の乳児に対する愛、ペットや釣り道具にたいする愛、などがわかりやすいですね。

>パートナーに対して「嫉妬」するのは愛ゆえなのでしょうか?
面倒見てると執着心(愛情)がおきます。執着するので、独占欲がおきます。嫉妬は独占を犯される恐れから反射的に起きます。独占欲は愛ゆえ起きますが、「愛すること」そのものではありません。あくまで「独占欲」です。

>それとも相手を信じていれば「嫉妬」など起きないのでしょうか?
相手を信じる信じないに関係なく、嫉妬は独占を犯される恐れから反射的に起きます。


>更に、パートナーに浮気をされた時に許せるのが愛?

「面倒を見る。そのことについて特に見返りを求めない。」ことなので独占が犯されても許せるのは「愛する」こと。


>許せないのは相手を本当に愛していないから?

独占欲のほうが執着心(愛情)より大きい場合は許せないのですね。
本当に愛していても、独占欲のほうがもっと大きければ許せないこともあるでしょう。
だから、「許せないから、本当には愛してない」、とはいえない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>独占欲は愛ゆえ起きますが、「愛すること」そのものでは
ありません。あくまで「独占欲」です。
なるほど・・・!
要因は「愛」であっても「愛すること」ではないと。
同感です!

人間は元来「独占欲」からは逃れられないのかもしれませんね。
それが無くなった時、真っ直ぐな気持ちで愛せるのでしょうか。
見返りを求めないのが「愛」であるというのは私もそう思います。

お礼日時:2009/10/02 10:28

30代女性です。



嫉妬するのは相手が好きだから、愛ゆえに嫉妬するものだと思います。
相手を信じてる事と嫉妬はちょっと違うような気がします。
赤の他人と知り合って愛を育んでいく過程の中で、相手をいきなり信じる事は出来ないと思います。

パートナーに浮気うぃされた時、許せる・許せないは人それぞれと思います。
私は裏切り行為と思ってますので、どんな些細な浮気も許さないタイプです。
本当に相手を思いやり愛しているなら浮気なんてしないはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>本当に相手を思いやり愛しているなら浮気なんてしないはずです。
やはりそうなのでしょうか。
だから些細な浮気も許せない、という事ですものね。

浮気ってどうしてあるのでしょうね 笑
自分はした事はないのですが、相手を愛していてもする方は、
やはりそれは本当の愛ではないのでしょうか・・・。
う~~む。難しいです。

お礼日時:2009/10/02 10:23

嫉妬する事は、愛では無いです。


あるとしたらそれは自己愛ですね。
自分の思うとおりに行かないから嫉妬するのですから。

浮気を許す、許さないのは愛とは言えないと思います。

愛はそんな次元では語れないと思います。

ただし、これはあくまでも私個人の意見です。

ご質問者様がそれを愛と思えば愛なんです。

ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

様々な愛の形がありますよね。
考えれば考える程わからなくなくなってきます。

愛はそんな次元では語れない・・・
この一言に、takakita様の愛に対する想いが
凝縮されているような気が致しました(勝手にすみません)。

私にとっての愛・・・
軸がぶれるのです。
嫉妬する事はあまりありませんが、浮気をされたら
許したいと思う反面、いや許せない、と思ったり、
はたまたそんな事は問題ではない、と思う事もあり・・・。

本当に難しいです。

お礼日時:2009/10/02 10:20

相手を思う気持ちが強いからこそ、独占欲も強まり、嫉妬も生まれるのだと思いますので、やはり、嫉妬するのは愛ゆえだと思います。



相手を信じていることと嫉妬は別次元だと思うのです。

そもそも、相手を信じる・・・って、赤の他人を100パーセント信用できます??

恋人同士も夫婦も、所詮、元々は赤の他人同士です。
それが、1つ1つ互いに信頼を積み重ねて、絶大な信頼関係の絆や愛情を絆を作り上げているものだと思います。

ですので、少しでも互いを裏切るような行為、強く傷つけるような行為をすれば、信頼なんてあっという間に崩れます。

そういう意味では、相手を信じきることは出来ないと思います。
まして、恋愛中なんて、「信じたい」「信用できると思っている」だけです。

裏切られても裏切られても信頼しようとする、無償の愛の関係なんて、親が子供に注ぐ愛情ぐらいだと私は思っています。

浮気に関しては、いろんな考えの人がいるでしょうが、私は、相手を愛しているからこそ、浮気などの裏切り行為は許せないというタイプですね。

先にも述べたように、恋人も夫婦も他人同士で、日々の愛情や信頼の積み重ねの努力で成り立っていると思っているので、それを放棄して、別の快楽に逃げた相手を許す気にはなれません。
そんな相手をもう一度信頼しようとは思えませんし、そんな相手に大切な自分を捧げるのも嫌です。

やっぱり、人間、自分の気持ちにしっかりと応えてくれる人だからこそ、共に関係を築いていこうと思えるものだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

確かに、「信じたい」と強く思っているんですよね。
完全に信じ切る事はなかなか出来ないです。
親子だって、無償の愛を注げない場合もありますものね・・・。

浮気された事に対して自分がどういう判断を下すのか、
今回質問してみて実に様々な想いを皆様お持ちなのだなぁ、と
強く感じました。どの考え方も正直言って納得してしまうのです。

rapisupyon様の仰る、相手を愛しているからこそ裏切り行為は
許せない、というご回答も「そりゃそうだよなぁ」なんて
頷いたりして。でもきっといつまでも恨んだり引きずるのではなくて、
常に前を向いて自分自身を大切にしていかないといけないな、とも
思いました。

お礼日時:2009/10/02 10:13

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