信長VS信玄 勝つのは信長!?
タイトル通り、戦国屈指の大名の2人を評価し、優劣をつけようと思います。 僕は信長のほうが凄いと思います。 信玄のほうが凄いと思う人は根拠を述べて論破してください。また信長を評価する人はフォローをお願いします。 ちなみに判断基準は軍事(戦闘指揮、戦略)政治業績 外交などの総合力で決めよう思います。 信憑性の無い話や根拠ののない話はやめてくださいね。
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というか、武田信玄最強は捏造です。
信濃、甲斐、駿河の実質3か国支配だし、三方原でも家康に勝ったとはいえ、兵力ありすぎだし、浜松、吉田、岡崎といった家康の中核の城を落としていない。
また、今川侵攻可能になったのは、信長が義元を討ち取ったからです。
確かに(^-^;)
500416さんは信憑性の高い昔の書物をお勧めします。
様々な専門家の方が言うのは自分達で調べた結果論じているので、言ってしまえば
『もしかしたら』
というお答が多いです。
なので様々な書き残した書物を見比べて自分なりに考えてみては?
自分の意見では、どちらかと言われれば信長かなと。
特に引き出すと、
●小さな尾張からの小さな信長軍の組織(身内に反信長の方が多かった)で、有能な家臣を見つけてはそれらをよく使い、領地を信長の代だけで一気に広めた。
●小さな盗みでもこれを厳しく斬り、夜道に女一人で旅ができる安全地区にし、民衆が住みよい町につくりあげた。
●キリスト教を許可した後、宣教師達の日本侵略のもくろみに危機を察し宣教師達に自分の土派手なアイデアを見せびらせた。(『日本が大砲を乗せた鉄甲船を造り上げたとは大変驚いた』byフロイス)
武田信玄と織田信長の目指したかった方向は似ていると思うんですが、外交を相手にできるのは信長だと思います。
500416の馬鹿さ加減にはあきれ返るな。
よく信長は兵農分離制を導入したと言われていますが、実はそれも信長軍のわずか数%にすぎず、実際の主力は自分の「支配下の村」から連れてくる農民兵だったのです。
>当時はどの戦国大名も軍制に大きな違いは無く
当時の地方格差は今の比ではない。
大きな違いは鳴くなんてありえない。
それこそ江戸時代の軍学書を真に受けている馬鹿学者の言うこと。
>兵農分離は豊臣政権からようやく実現した」が近年の学者達の定説です。
こっちなんてもっと根拠ないし。
だいたい学者が言っているからなんてのは根拠にならない。
>さらに「農民兵が年中戦えない」というのも大嘘。
↓もうこの時点で破綻。
>実際に調べてみれば、戦国大名は農繁期の戦いをまったく避けてはいない。
上杉も武田も、ただの1回も遠征などしていない。
遠征だの籠城戦だのというのは、最低でも2回は収穫期を過ごした戦争のこと。
これ世界史レベルでは常識ね。
農村で戦いに積極的なのとそうでないのとで派閥ができた?だから何?
>古代の防人も、源平合戦も南北朝の戦いも農繁期を避けていないのに、戦国時代に突然、農繁期を避けるわけない
なに農民兵じゃないのと一緒にして比べてるの?バカなの?
>また信長は早くから日本の武力統一を掲げたように思われてますが
「掲げた」かどうかなんてどうでもいいの。
あと伊勢は手に入れてねーよ。
その程度のことも調べてないで信長関連の質問に答えてんのか?身の程知らずが。
>また、合戦においても勝率~
それぞれの戦いの相手、回数、目的も全部違う上に結果論。
お前は評論家として無能だな。
>信玄や謙信にご機嫌をとり、強い相手との戦を極力避け
相変わらず日本人というのは頭が単純なんだな。
これ、外交がうまいという以外の何者でもないんだが。
味方に敵を多く作るとかアホか。
状況の読めないバカ光秀と秀吉の捏造宣伝に踊らされるアホウ。
戦いはもちろん、外交力・経済力・発想力・リーダーシップ、どれも全て信長が上。
信玄じゃ今川義元にも勝てません(笑)
よく信長は兵農分離制を導入したと言われていますが、実はそれも信長軍のわずか数%にすぎず、実際の主力は自分の「支配下の村」から連れてくる農民兵だったのです。
「農民兵は農繁期に出兵できないから年中戦える傭兵で組織した織田軍には誰も勝てない」という説は年表を見てない人や歴史認識の薄い人の説ですよ。
なんせ「当時はどの戦国大名も軍制に大きな違いは無く、兵農分離は豊臣政権からようやく実現した」が近年の学者達の定説です。要するに兵農分離を事実上成功させたのは信長ではなく豊臣秀吉ということ。そもそも兵農分離をしてない大名が合戦や遠征ができないというのは大きな間違い。
つまり「信長は兵農分離させてるため織田軍は傭兵で構成されている」というのは大嘘。
さらに「農民兵が年中戦えない」というのも大嘘。
実際に調べてみれば、戦国大名は農繁期の戦いをまったく避けてはいない。農民兵は大昔から年中戦っています。それどころか武田や上杉は農繁期に大動員して戦を仕掛けてます。16世紀半すぎには、日本全体で、農村の中で出兵に積極的な『軍役衆』と、村の自治と農業一筋を求める『百姓衆』の分裂ができあがってきています。『軍役衆』の存在により兵農分離などしなくても、年中遠征し合戦できるのです。そもそも、古代の防人も、源平合戦も南北朝の戦いも農繁期を避けていないのに、戦国時代に突然、農繁期を避けるわけないだろ。
また信長は早くから日本の武力統一を掲げたように思われてますが、最初から「天下布武」など言っていない。濃尾伊勢平野をほぼ手中に入れて最大の勢力になってから、「天下布武」を唱えたのが事実です。
また、合戦においても勝率9割以上の信玄に対し、信長の勝率は6割程度。勝率8割くらいの家康に劣り、とても戦上手とは言えず、戦闘指揮官としては中の上の実力です。信玄や謙信にご機嫌をとり、強い相手との戦を極力避けて、たびたび訪れる命の危険にさらされながら運よく回避していただけで戦国最強には程遠いです(普通なら6回死んでる)。
運も実力のうちというなら結果論になり最終的に日本を治めた徳川家康か豊臣秀吉が最強ということになる。
結果論抜きの大名の総合的な実力でいうなら最強は武田信玄か上杉謙信だと思う。
「当時、信長だけが年中戦ができる」という俗説が崩された現在では、戦力で劣る信長が信玄に勝るものは金くらいです。
三方ヶ原の時など、武田軍は軍を3部隊に分けて各部隊が徳川の支城を数日(平均三日程度)で落としながら進軍しました(通常は小さい支城でも落城させるのに数週間~1ヶ月かかる)。部隊を分けてるのにこの速さで陥落させることなど信長にはできないでしょう(晩年の秀吉なら可能かも)。
ガチでぶつかれば戦力は歴然。だからこそ信長は信玄との直接対決を恐れて機嫌をとりながら逃げ回っていた。そもそも上杉謙信に惨敗した織田軍が謙信と同等の信玄に勝てるとは思えない。
ましてや武田配下には家康にトラウマを作った山県、死ぬまで無傷だった馬場、戦略の天才である真田家など武田24将は百戦錬磨の猛者ぞろい。両大名不在の部下同士の戦だけでも武田軍が勝ちそう。
信長が本能寺で死なずにいたら天下統一して幕府を開くと予想する人もいるが、信長のように身内の中にも敵を作るような危ない生き方ではどのみち天下統一する前に誰かに殺されてるでしょう。たとえ運良く生きて統一したとしても死んだ後は残った配下で覇権を奪い合い結果的に家康が幕府を開くよ。
史実通り考えて
三方ヶ原で負けてそのまま約3万の武田軍に尾張でも負けるのではないでしょうか?
敗走した織田兵VS勝利して行軍し続ける武田軍では勝敗が目に見えています。
勝つのはどっちかという質問なので寿命は無視して考えてみました。
よって武田信玄が勝つと思います。
再再度です。ちょっとしつこいですかね。(笑)
気になったところが少々ありましたので、
<< 騎馬隊が威力を発揮する場所はそれ以上に鉄砲が威力を発揮すると思うのです >>とのご意見ですが、日本の古馬を調べてみますと、とてもモンゴル平原を疾走するようなものには繋がらないですね。現存の木曾駒の後ろ足は日本の山岳踏破に適した構造になっております。これは、早く走るためのものではないようです。おまけに鎧兜を着た武者を乗せて、無理もありません。信長が早朝清洲を飛び出して、熱田へ駆けましたが、時速8Kmほどです。所要時間は2、3時間です。もちろん戦いのときは馬は後ろに置いて(高価ですので)、徒歩で戦うのが、この戦国時代の通常のようです。もちろん逃げるときはこんなものでも、鎧兜の徒歩兵よりは、断然早いですから、重宝します。関が原当時で軍団に占める馬数は総兵力の1割だったことは、記録に出てきます。ではなぜ武田だけが騎馬騎馬といわれるのか、この時代ほんとうに他国は武田をもって騎馬兵、恐るべしとおもっていたのか疑問ですね。
私の素人調べでは、春信の頃、小笠原長時との戦いで、武田は出陣したものの、甲斐の国境付近から動かず、相手に長陣の怠惰を誘って、油断させ、騎乗身分の者だけを、特別編成して、長駆(38Km) 勝弦峠に奇襲を掛け、打ち破ったことが、あろうことか、過大に喧伝されたものではないかとおもっています。
馬には定尺というものがあって、ひづめから肩先まで、4尺を定尺(121cm)として馬の売買の際に、基準にしています。1寸高いものを1寸逆に1寸低いものを、下がり1寸と呼んでいます。これは武士の元服に深く関係しています。武士の元服の身長は、4尺5寸(136cm)です。
武田と馬を切り離して、徒歩兵としての乱戦での切った張った度胸千両の輩が、銭で集められた兵より強いのはあたりまえのことなんでしょう。この時代たくさんの道があっはずはなく、おのずと軍規模の数が通過できるところは限られていますから、当然そこでの出会いでの乱戦は、後日何々合戦ということになるようです。近頃の歴史ゲームのように、すぐ戦闘ということはなくて、できるだけ決戦をしないで、相手を屈服させることが、下のものから名将といわれるのではないでしょうかね。数こそ戦略、数で正面から押していく、信長は国内統一以降この方法にかえましたね。それまでは、小姓馬廻り俗にゆう直属の親衛隊7、800人(この連中はいつでも動かせる兵、農繁期農閑期にかかわらず)でほとんど対応しています、知多の村木砦攻撃も中心はこの連中。もちろん、盟友や一門衆、地侍どもも数のうちとあつめてはいますが、
徒歩兵と徒歩兵の戦いですから、槍ふすまをびっしり揃えて、鉄砲を
集めるだけあつめても、武田とは、さらに、柵もいるんですよ。
なんだかつれづれに書いてしまいました。失礼。
この回答への補足
なるほど、どうやら時代背景や裏事情をもっと考える必要がありますね。馬はあくまで移動用なのか・・。やはり武田兵が強いと言われるのは何回も戦を経験してるからでしょうね。
特に金で兵を集めた信長がそんな信玄とまともに決戦したくないのは考えてみれば当たり前のことかもしれません。それこそ親衛隊みたいに信長の手取り足取りに動く兵隊たちがもっといればね・・それが信長が戦術指揮が下手と言われる大きな要因だと個人的に思ってます。大概金で集まってる人多いから。
逆に他の戦国大名と同等に兵を編成してたのなら、信長は京都に上洛するのもできなかったかも。考えてみると、部下との信頼関係を大事にした信玄だからこそ武田軍は強かったのかもしれません。信長は・・・服従といったほうがいいのか?そういう所が人気に反映してるのかなとも思います。
この回答へのお礼
回答ありがとうございました
質問は、信長と信玄の主に個人能力の比較と考えられますが、回答は織田軍団対武田軍団の対決になっているようですが、、、、、
まあ、明確に分けるのは難しいでしょうが、武田信玄が尾張あたりに生まれていれば、どんな生き方をしたか。また信長が甲斐に生まれても兵農分離策をとれたか、鉄砲主体の軍団をつくったかなんていうのは、IFさえも超えてしまうので^^
(1)戦闘指揮
これは、無条件に信玄。若い頃、失敗したこともありますが、戦術的な能力はやはり山国で戦闘を数こなすと上昇するようです。まだ若かったとはいえ、平地戰の得意な家康とあの三河軍団を三方原で赤子の手をひねるように打ち負かしていますので、反論はないでしょう。
一方、信長は下手とはいいませんが(名前は忘れましたが、信じられないくらいに下手と言った歴史がいましたが)、凡庸です。ただ、彼の恐怖心によって兵(将もですが)を服従させる能力は評価してもいいでしょうか。
ただ、戦闘以前の工夫。兵農分離や鉄砲の積極的な活用はやはり、点をあげてもいいかもしれません。ただし、これもあまりに尾張兵が弱すぎるので、必要にせまられてという側面が多いようですが。
(2)戦略
これは、信長でしょう。早い段階で天下を視野にいれ、明確なビジョンをもって行動しています。信玄はどちらかといえば、行き当たりばったり的なところが見られます。特に、信長はそのイメージとは反して、我慢するときは徹底的に我慢します。その反動で我慢しなくてよくなると魔王のようにやりたい放題になりますが^^
ただ、少し減点なのは、えらい緻密なときとえらく認識の甘いときの落差があることですね。越前攻めなんかが典型でしょう。
(3)政治業績
これも信長ですね。信玄も信玄堤や棒道、鉱山開発など良き領主であるのは間違いがありませんが、信長は楽市楽座、地名の変更、兵農分離、計画的城下町建設、朝廷の政治利用等あげればきりがなく、現代に影響をおよぼすものさえあります。特に、私が評価するのは、宗教勢力の政治からの駆逐は現代人が感謝してもいいように思います。
(4)外交
これは、いい勝負でしょうか。両者、さすがに食えません^^
ただ、信長は武力征伐一辺倒のような印象を受けますが、意外に調略も積極的です。政略婚姻はじめ、えさで寝返りさせるのを主に、勝てる段取りをして最後に力を使うという感じで、外交力は高いと思います。
総合では、やはり信長ですかね。
しかし、三方原後に信玄が元気で美濃で決戦すれば、その一戦は信玄の勝ちでしょう。これは、信長が戦いたくなくてあらゆる手段で回避しようとしていた事実で明らかです。また、長篠時に信玄が生きていれば、信長とあんな戦い方はしません(これは宿老連中が勝頼に戦闘反対を述べていることから、信玄ならなおのことあんな下手はしません)。そもそも、信玄が生きていれば、信長は攻めなかったでしょうし、信玄が生きていれば、信長はとっくに歴史から消えてるかもしれません。
こんなところでいかがでしょうか^^
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございました。やはり普通に決戦してたら鍛え抜かれた信玄が勝つでしょうね。やはり信長はその勇猛さを退けながら戦わなければならないでしょうね。信長の武器は経済力や長期間戦える先頭集団でしょうか(そのぶん弱い)。鉄砲は常時効果を発揮するわけではないみたいですしね。・・・火縄銃だっけ?(雨降ったら終わりだな)
信玄の凄い所は。ずばり!「一人一人」が凄いのかな 「人は城、石垣・・・」に代表されるように信玄が結束力を大事にしたのは明白だと思います。長年戦ってきた猛者たちが、その結束力を遺憾なく発揮すれれば信長は負けるでしょうね。 改めてありがとうございました。
お返事ありがとうございます。
まぁ感想としては思った通りですが、信長フリーク過ぎて、話ができないですね。
>一つ聞きたいのですが、信長が何で戦に弱いのでしょうか
→勝てる戦いに勝ってきたから、自分より強い相手には弱かったんでしょうか。。
>ちゃんとWikiを調べれば信長軍不利なのはわかることです。
→信憑性のない話、根拠のない話という割にはWikiを参考になさるのは
どうかと思います。(別にどこのだれかわからない、ただの歴史フリークが書き込んだだけの話ですよ?
一定の初めての人とのとっかりはあるでしょうが・・、)
>謙信だって1回勝ったぐらいで信長に本気で勝てると思ってるのでしょうか。
→だから死にさえしなければ、農繁期までの間に徹底的に追い詰める
つもりだったでしょう。
一回勝てば・・雪崩も起きます。手取川の戦いですが、常勝軍団の
鼻を折ってましたからね。
信玄も生きていれば・・・、がありますが、信長を追いつめられた
可能性があったのは手取川の場面以降にありえなかったでしょう。
>信長は圧倒的な兵力差で少ない敵を倒しているのです。
→それは認めますね。とくに上洛の場面で立ちふさがった敵に対しては
いかんなく発揮しております。
>当時の最先端技術である鉄砲を積極的に取り入れているのです(信玄は多く持ってない)。
→鉄砲・・この時代の鉄砲なのですが、鉄砲を戦術の段階で使用できる
一番効果的な場面というのは、待ち構える場面なんですよね。
2番目にくるのが当然攻城戦になるでしょう。
だから鉄砲を大量に持っていれば川中島で待ち構えていた信玄は実際に
大勝利を得られたでしょうし、現実、長篠の戦いにおいて
一度走り出すと止まらない騎馬隊なんて格好の餌食だっただけです。
これは勝頼の無能さが招いていると考えられますが、
自分から攻撃を仕掛けるところでは使いづらい武器です。
(これがなかなか信長の野望なんかのシュミレーションで使う鉄砲とは違う。)
ただ。。鉄砲を取り入れる度量があった、だから戦も強いってのは
暴論でしょう。
まぁ当然貴方の疑問ももともと総合力で判断なのだし、それは信長だと
誰もが認めるところです。
でも鉄砲を大量に持ってるから強いってのは、人よりいいもの持ってるから強いって話にしかならない。
ちなみに総合力で判断ですけど、ほんとに全てが強いのであれば
天下統一を信長が成し遂げて死んでると思いますよ。
自分も信長の総合力が勝ってる部分だと思ってますが、
信長フリークだからってひとつをけなされてムキになってるようなら
話になりませんねぇ・・。
この回答への補足
おっしゃるとおり、どうやら信長を必要以上に評価してたようですね。他の方の言うこともふまえると「信長自身の戦闘指揮能力は強豪大名に及ばない、兵の質はかなり低い」に収まるのかな。そしてやはりWikiを鵜呑みにしてたみたいです。あと鉄砲もそれが有効に威力を発揮する場所じゃないと活躍できないでしょうしね。 手取川の戦いも信長兵が謙信の兵には及ばないのと、謙信の能力を評価するべきでした。奇襲を成功させてる時点でかなり凄いはずですね。
ただここで言う信憑性の無い話というのは「信長は信玄に平身低頭に接していた」「信玄は義元に手出しができなかった」などの事柄です。はっきりした事実関係に基づくのであればいいのですが、それが少々武将の評価につながってるような気がするのです。
例えば一つ目ですが、信長は信玄に平身低頭に接していたかもしれませんけど、それで領地を伸ばしているんだから、それは信長の外交力が評価されるべきであって、信玄>信長にはならないと思うのです。二つ目ですが、これも義元>信玄にはならないはずです。信玄が義元存命時に侵攻しなかったかもしれないけれど、義元も信玄に攻撃しなかったでしょう。はっきり言えば「どちらも別方面で忙しかった」で済まされると思うのですが・・・・こういう事をあげるときりがないと思うんです。
この回答へのお礼
ありがとうございます。自分の言う主張に客観性がもてたような気がしました。改めてご回答ありがとうございました。
再度です。
<< IFですが、もし直接対決があったら信長はどのような考えで脱したのでしょうかね>>のIFですが
信玄亡き後、勝頼との長篠の戦いで取った戦術がありますよね。騎馬隊なんかは眉唾もんですから除外しますが。まあ徒歩の兵の突撃に対して、あんな陣構えを取っています。近年の発掘調査でも、言われているほどの鉄砲の弾は出てきません。はたしてそんなに鉄砲を持っていったのかもはっきりしませんね、長時間の戦いでしょう。武田の方は、砦を攻めるような格好になっておりますから、バカじゃないかぎり、無闇な突撃はしなかったんでしょう。時間がかかるわけですよね。
柵から出てこない、突撃しない、そんな状態があっちでこっちなんでしょ。夜討ちによる武田の後方陣への攻撃が成功したことが、おおきいでしょうね。その事実が全軍にわかった時点から死者もふえていったとおもいます。ただし、信玄なら、本隊を前に出さず、そのまま、長篠城を睨んで、先鋒を前に出して、柵から出てきたら攻撃するでしょうね。
織田の軍勢が展開しやすいようなところでまず戦いませんよね。
相手のプランに乗った戦をするはずはありませんからね、結局、夜討ちを仕掛けるか、そのまま柵の中でしょう。長篠は陥落させても、手も足もでないでしょう。信長は兵糧を充分にして、柵の中で、武田の迂回攻撃隊を注意しつつ、決戦を避け、時間というものを味方した、戦術しかないでしょうね。たとえどこでたたかうにしてもですね。
信長公記にありますが、桶狭間で中島砦から打って出るとき、演説をぶっています、敵は朝から大高城に兵糧を入れ、鷲津丸根の砦を攻めて疲れている、こっちは新手、敵が掛かれば引き、引けば追えといっています。槍下ですよね、槍上の敵に対して、ふつう勝てませんよ。疲れてるから引いたり押したりしているうちに勝機があるといってるわけですね。局地戦ではやたらヘタですよね。それに目の前の敵を義元の本隊とはおもっていないということになりますしね。余談ですが、ほんとうに義元の所在を掴んでいたのかも疑わしいでしょう。そのとき先鋒の朝比奈は岡崎までかえっていますからね。先鋒ですよ、戦はあらかた終わって帰っていったとゆうことでしょう。東を向いていたことになります。織田に背中を見せていたということになるわけです。ああ、そうだここは西三河尾張国境紛争戦のことではなかったですね。
つまりこのように、波状攻撃、それも決戦を避けて、蜂のように来ては刺し、また、それを何度も繰り返す。相手はヘトヘトになるでしょう。
完璧な兵農分離(正確には秀吉の検地以降)ではありませんが、戦術としは採用していたわけでしょう。局地戦なら信玄でしょうが、信長の敵ではなかったのでしょう。
この回答へのお礼
1日前は信長びいきの暴論を吐いていたteambuleです。回答にあるように長篠では信玄は決戦しないと思いますね。騎馬隊が威力を発揮する場所はそれ以上に鉄砲が威力を発揮すると思うのです。あと、鉄砲の数はそんなに無いとも思いました。長篠の戦いを見るかぎり、信長軍にもだいぶ戦死者が出てるみたいですしね。となると、信玄が信長をおびき出して致命傷をあたえるのが一番手っ取り早いのでしょうか。しかしいくら信長が兵は多くても勇猛な武田兵率いる信玄に正面からいくことは無いと思うんです。最終的に外交などで相手の戦力を減らすのが鍵となるのでしょうか。僕は信長が少し有利かなと思いましたが、信玄が臨戦態勢で臨んだら、武田領侵攻は難しいでしょうね。もし信玄が長篠時まで生きていたらもっと凄い包囲網が完成したのかもしれません。
改めて回答ありがとうございました
歴史的に見てあまり脚光を浴びませんが、織田信長の子飼いの馬回り直轄部隊は強いですよ。
桶狭間の合戦では、谷間に陣を置いて山の上から攻撃されたというのは本当ではないようです。近年は奇襲効果をあまり大きく評価しない考えが主流となってきています。桶狭間山と言う山の上に今川本陣5000名が陣を構えている状態で、雨の中を2000名が突撃して突破したというのが本当らしく、今川義元も決して油断していたわけではなかったようです。
大阪の天王寺砦の戦いでも、兵力不足の中、援軍を待てなかった信長は、直轄部隊を率いて一向一揆を蹴散らしています。
織田軍は金で掻き集めた人間を諸将に率いさせていましたが、自分の率いる直轄部隊には子飼いの忠誠心のあるものや、戦いで目覚ましい働きをしたものを集めていました。
姉川の戦いでも、浅井勢に突き抜かれたのは、金でかき集めた部隊で、浅井勢を疲れさせれば目的は達したと言え、最後の二段は、浅井勢と同等以上の戦闘力を持っていたはずです。
信玄が最晩年の三方ゲ原の戦いの頃は、銃の数・経済力から考えて、武田信玄VS織田信長では、武田勢に勝ち目はなかったでしょう。
後の江戸幕府の成立とその長い統治によって、家康に都合の悪い情報の多くが消え失せてしまったことを考えると、武田信玄は徳川家康を取り込んで、織田信長VS武田信玄+徳川家康という図式を狙って、謀略・調略を行っていたと思います。(資料としては聞きませんが。)
常識的に考えても、織田信長+徳川家康VS武田信玄では、勝負にならないが、織田信長VS武田信玄+徳川家康ならば、勝負になりますからね。
この回答への補足
ぼくも他のところで投稿してるのですが今川義元はかなりの武将だと思ってますよ。桶狭間は事故として見た方が適切なのか?(義元にも落ち度はあると思う。 でもぼんくら扱いはおかしいと思う)
あと一向一揆もけっこう強い集団ですよね。 加賀の守護大名?が追い出されたみたいに、農民に流浪者や荒くれ者が加わった一種の「戦闘集団」だと思ってます。
三方ゲ原の戦い後に信長を完全に排除は難しいかな。米の収穫関係で帰らないといけないですしね。謙信も包囲網に加わってみんなで攻めればどうなったかはわかりませんが。
この回答へのお礼
回答ありがとうございました。
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