A 回答 (16件中11~16件)
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No.6
- 回答日時:
再度です。
<< IFですが、もし直接対決があったら信長はどのような考えで脱したのでしょうかね>>のIFですが
信玄亡き後、勝頼との長篠の戦いで取った戦術がありますよね。騎馬隊なんかは眉唾もんですから除外しますが。まあ徒歩の兵の突撃に対して、あんな陣構えを取っています。近年の発掘調査でも、言われているほどの鉄砲の弾は出てきません。はたしてそんなに鉄砲を持っていったのかもはっきりしませんね、長時間の戦いでしょう。武田の方は、砦を攻めるような格好になっておりますから、バカじゃないかぎり、無闇な突撃はしなかったんでしょう。時間がかかるわけですよね。
柵から出てこない、突撃しない、そんな状態があっちでこっちなんでしょ。夜討ちによる武田の後方陣への攻撃が成功したことが、おおきいでしょうね。その事実が全軍にわかった時点から死者もふえていったとおもいます。ただし、信玄なら、本隊を前に出さず、そのまま、長篠城を睨んで、先鋒を前に出して、柵から出てきたら攻撃するでしょうね。
織田の軍勢が展開しやすいようなところでまず戦いませんよね。
相手のプランに乗った戦をするはずはありませんからね、結局、夜討ちを仕掛けるか、そのまま柵の中でしょう。長篠は陥落させても、手も足もでないでしょう。信長は兵糧を充分にして、柵の中で、武田の迂回攻撃隊を注意しつつ、決戦を避け、時間というものを味方した、戦術しかないでしょうね。たとえどこでたたかうにしてもですね。
信長公記にありますが、桶狭間で中島砦から打って出るとき、演説をぶっています、敵は朝から大高城に兵糧を入れ、鷲津丸根の砦を攻めて疲れている、こっちは新手、敵が掛かれば引き、引けば追えといっています。槍下ですよね、槍上の敵に対して、ふつう勝てませんよ。疲れてるから引いたり押したりしているうちに勝機があるといってるわけですね。局地戦ではやたらヘタですよね。それに目の前の敵を義元の本隊とはおもっていないということになりますしね。余談ですが、ほんとうに義元の所在を掴んでいたのかも疑わしいでしょう。そのとき先鋒の朝比奈は岡崎までかえっていますからね。先鋒ですよ、戦はあらかた終わって帰っていったとゆうことでしょう。東を向いていたことになります。織田に背中を見せていたということになるわけです。ああ、そうだここは西三河尾張国境紛争戦のことではなかったですね。
つまりこのように、波状攻撃、それも決戦を避けて、蜂のように来ては刺し、また、それを何度も繰り返す。相手はヘトヘトになるでしょう。
完璧な兵農分離(正確には秀吉の検地以降)ではありませんが、戦術としは採用していたわけでしょう。局地戦なら信玄でしょうが、信長の敵ではなかったのでしょう。
1日前は信長びいきの暴論を吐いていたteambuleです。回答にあるように長篠では信玄は決戦しないと思いますね。騎馬隊が威力を発揮する場所はそれ以上に鉄砲が威力を発揮すると思うのです。あと、鉄砲の数はそんなに無いとも思いました。長篠の戦いを見るかぎり、信長軍にもだいぶ戦死者が出てるみたいですしね。となると、信玄が信長をおびき出して致命傷をあたえるのが一番手っ取り早いのでしょうか。しかしいくら信長が兵は多くても勇猛な武田兵率いる信玄に正面からいくことは無いと思うんです。最終的に外交などで相手の戦力を減らすのが鍵となるのでしょうか。僕は信長が少し有利かなと思いましたが、信玄が臨戦態勢で臨んだら、武田領侵攻は難しいでしょうね。もし信玄が長篠時まで生きていたらもっと凄い包囲網が完成したのかもしれません。
改めて回答ありがとうございました
No.5
- 回答日時:
歴史的に見てあまり脚光を浴びませんが、織田信長の子飼いの馬回り直轄部隊は強いですよ。
桶狭間の合戦では、谷間に陣を置いて山の上から攻撃されたというのは本当ではないようです。近年は奇襲効果をあまり大きく評価しない考えが主流となってきています。桶狭間山と言う山の上に今川本陣5000名が陣を構えている状態で、雨の中を2000名が突撃して突破したというのが本当らしく、今川義元も決して油断していたわけではなかったようです。
大阪の天王寺砦の戦いでも、兵力不足の中、援軍を待てなかった信長は、直轄部隊を率いて一向一揆を蹴散らしています。
織田軍は金で掻き集めた人間を諸将に率いさせていましたが、自分の率いる直轄部隊には子飼いの忠誠心のあるものや、戦いで目覚ましい働きをしたものを集めていました。
姉川の戦いでも、浅井勢に突き抜かれたのは、金でかき集めた部隊で、浅井勢を疲れさせれば目的は達したと言え、最後の二段は、浅井勢と同等以上の戦闘力を持っていたはずです。
信玄が最晩年の三方ゲ原の戦いの頃は、銃の数・経済力から考えて、武田信玄VS織田信長では、武田勢に勝ち目はなかったでしょう。
後の江戸幕府の成立とその長い統治によって、家康に都合の悪い情報の多くが消え失せてしまったことを考えると、武田信玄は徳川家康を取り込んで、織田信長VS武田信玄+徳川家康という図式を狙って、謀略・調略を行っていたと思います。(資料としては聞きませんが。)
常識的に考えても、織田信長+徳川家康VS武田信玄では、勝負にならないが、織田信長VS武田信玄+徳川家康ならば、勝負になりますからね。
この回答への補足
ぼくも他のところで投稿してるのですが今川義元はかなりの武将だと思ってますよ。桶狭間は事故として見た方が適切なのか?(義元にも落ち度はあると思う。 でもぼんくら扱いはおかしいと思う)
あと一向一揆もけっこう強い集団ですよね。 加賀の守護大名?が追い出されたみたいに、農民に流浪者や荒くれ者が加わった一種の「戦闘集団」だと思ってます。
三方ゲ原の戦い後に信長を完全に排除は難しいかな。米の収穫関係で帰らないといけないですしね。謙信も包囲網に加わってみんなで攻めればどうなったかはわかりませんが。
No.4
- 回答日時:
信長が弱い、というか兵制改革後の信長軍が弱いのは、まあ戦国史通の人には、ほぼ常識といっていい内容です。
織田信長が直接指揮した野戦で有名なのは姉川の戦いですが、織田軍は浅井軍と激突しましたが、13段の陣のうち11段まで突破されています。
朝倉軍を打ち破った徳川家康と、横山城の抑えに残していた稲葉一鉄が駆けつけなければ、信長は負けていたことでしょう。
その理由についてですが、兵制改革にあります。
よく知られるように、信長は配下の豪族たちが領地から農民兵を率いる精度を改め、金で足軽を雇うようにしました。
武田軍に限らず、他の戦国武将の農民兵が強かったのは、戦場で逃げたくなっても、周囲にいるのは同じ村の仲間。
後々、「あいつは戦で逃げ出した卑怯者だ」とか言われるのが嫌なのは、昔も今も同じです。
しかし、足軽たちは金で集まった見ず知らずの連中ばかり。
たとえ、臆病風に吹かれて逃げ出しても、故郷で指差される心配はほとんどありません。
実際、長篠の戦くらいまでは、勝ち戦であっても集めた兵士の何割かは逃げてしまっていたようです。
ただし、織田軍の長所は、他の戦国武将が農閑期(冬の雪解け後から田植前、秋の収穫後など)しか戦ができなかったのに比べ、金で集めた足軽の部隊は1年365日戦えます。
後年、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴した後、三河の野田城で足止めされ、ついに病気に倒れて亡くなりましたが、同じように籠城しながら時間を稼いでいれば、農閑期しか戦えない武田軍はいずれ撤退せざるをえなくなります。
まあ、北条氏との戦いで、いったんは小田原城を包囲しつつも撤退し、追撃に出た北条氏の軍を打ち破ったように、退却戦でも武田軍は強かったりするのですが、そういう駆け引きを何度か繰り返すうちに、史実どおりに進言が寿命で亡くなったであろうと、私は考えています。
cse_ri2さんの意見はよくわかりました。どうやら織田信長の兵農分離を都合良く見過ぎてたようですね。凄い奇策やアイディアが浮かばない限り、直接戦うのはいけませんね、長い槍や鉄砲で距離を置く戦い方、やはり長所を生かした物量戦や時期を選んだ戦い方が一番好ましいでしょうね。信玄に致命傷を喰らわないかぎり大局は揺るぎないのかな?
回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
戦国100年は特に飢饉の時代でもあったと、日本農業史は語っています。
謙信の関東出兵はその多くが、口減らしためですね。関東と信濃北部で年を越したことは度々ありますよね。有名な川中島の激戦も、関東で年を越し、凱旋してすぐ、川中島の信濃側の山の上に陣を張っています。8月です。米がたわわになる寸前です。信玄は人は石垣人は城といわなければならないほど、人心に苦労した人ですよね。家康との設楽が原の頃になってようやく、一糸乱れぬ軍統制ができたということです。死ぬ寸前ですよ。まあ甲斐という地勢が統制のむずかしさだったんでしょうがね。人目に団結しているのは、飢饉の時、頭目として担がれる盟主としてのことだけです。乱捕りを許可するとの約定で、ゆうことをきかせていたということでしょう。苦労人だったわけです。最悪な状況で
諏訪を糾合し棒道を整備し、河川の治水事業もやってるのは、非凡な武将でないことはたしかですね。こんな荒くれどもですから個の戦いではとても尾張の兵はたちうちできません。信長は弱いということを勝利の方程式に替えることに成功していますね。(3間半の長槍、や鉄砲の活用、相手より数で勝るまで戦わない)、戦場で勝つということはどういうことかということを人の心理から、恐怖心を取り除く戦略をチャンかんがえていたわけですよね。また、兵糧で苦労をしたことがないでしょ。敵の国を攻めるには、できるだけ近くに活動拠点を築いて、みんなで引っ越す。そういった基本戦略が徹底させていたことでしょう。
使用した兵器を別にすれば、近代戦の考え方そのものです。親父のお父さんが津島をおさえたことが、その後の戦い方そのものの方向性を教えていたともいえます。経済は自由で統制経済ではありませんから、人物金が集まって、商人のレベルでは最高の親方でしょう。ああそうだ、昔家康が竹千代だった頃、今川に人質として送られるとき三河田原で、拉致し、織田の熱田に送ってきたのは田原と熱田の海運従事者たちで、この辺を領する地侍を突き上げて、決行したことです。義元の統制経済をきらってのことで、下々の信長への期待は歴史にはっきり現れませんが、この時代に中間搾取、朝廷寺社の既得権益さえも取り去ろうなんて
まさに宇宙人ですね。
なかなか参考になりました。どうやら信玄軍団の結束力や個々の強さを軽視してたみたいです。兵隊の資質は武田軍団は戦国トップクラスですね。とても信長軍がまともに戦ったらかなわないでしょうね。IFですが、もし直接対決があったら信長はどのような考えで脱したのでしょうかね。 ご回答、とても参考になりました
No.2
- 回答日時:
確かに総合力で言えば、、信長が勝つんでしょうね。
。信玄だけでなく謙信を引き合いに出したとしろ、
旧時代の代表格のような、両雄とはまったく違う戦略です。
農繁期には帰らない軍隊と引き換え、一年中戦える軍隊。
数では比較になりませんが、どちらが勝つかは一目瞭然です。
ただ、戦闘指揮についてはまったく信長はダメですねぇ。。
謙信とまともにぶつかって勝てませんでしたから。。
ただし、前の回答者の方もおっしゃる通り、歴史にIFはありえないので
無駄な話でもあります。
信玄と信長がやりあっても戦では歯が立たないでしょう。
この回答への補足
お返事ありがとうございます。 総合では信長が有利で軍事面では信玄に軍配があがりますか・・・
一つ聞きたいのですが、信長が何で戦に弱いのでしょうか。信玄は木曽や上杉にあまり勝てませんでしたが、信長は決定的な戦では負けたことがなく、負けかもしれない戦いは勝てそうでも撤退してたらしいですよ。 その最もたる例が金ヶ崎~姉川です。戦には目のつけどころがあって、大局的に信長はそれを乗り越えていったのです。その証拠に信長と戦った諸侯はほぼ壊滅しています。謙信に負けた手取川の戦いですが、ちゃんとWikiを調べれば信長軍不利なのはわかることです。 謙信だって1回勝ったぐらいで信長に本気で勝てると思ってるのでしょうか。信長は圧倒的な兵力差で少ない敵を倒しているのです(これは兵法の基本ですが、これを常にするのはかなり難しい)。だからと言って信長の戦闘指揮能力が低いわけではありません。少ない敵で大勢の敵を打ち破った戦いだってあります。逆に信玄は大勢でも負けたことがあるではないですか。信玄の軍隊も強いでしょうが、元は農民です。対して信長は兵農分離を進め、職業軍人(いわゆる戦闘のプロ)を雇い、当時の最先端技術である鉄砲を積極的に取り入れているのです(信玄は多く持ってない)。負ける要素がどこにあるのか。僕は軍事的にも信長が強く、戦っても信長が勝つ可能性が高いと思います。1572年はわかりませんが、1573年以降なら信長が絶対勝つでしょう。信玄がもし長篠まで生きていても天下の趨勢は変わらなかったでしょう。 反論があれば言ってください。
ちょっと文章が荒いですが、あまり気にしないでくださいね。回答した人にはお礼を言っておきます。 回答ありがとうございました
No.1
- 回答日時:
>信長VS信玄 勝つのは信長!?
↓
歴史にifは無いとは思いますが・・・
ご質問の主旨に沿って考えますと、その時歴史は動いた(変わった)風に言えば、雌雄を決する戦闘を何年に設定するかによって結果は異なると思います。
◇三方が原以前なら、織田の基盤も弱く、徳川も戦力にならず、武田の騎馬軍団や有力武将の隆盛時期であり、戦場での戦闘能力&軍略では武田有利と思います。
<上杉・北条の漁夫の利や合従連衡の問題があり、実際には複雑な様相で群雄割拠が続くものと思考>
◇史実の通りの信玄の急病・死去<矢傷・ケガの悪化説もある>なら、仮に病気快癒しても、年齢<体力&気力&智力の老化>との戦いがあり、戦場&戦法や装備も近代化していて、都や堺との関連性から織田の採用、取入れ活用が竹田を凌駕して、戦力並びに攻守能力で差が開く一方だったと思います。
<武田には、偏狭の地であり、家臣団に最強騎馬軍団の驕りや成功体験の縛りがあって、急速な近代化は困難だったと思考>
私の解釈では・・・
個人戦や名乗りあっての旧来の戦闘<野戦や攻城戦>では武田信玄なり騎馬軍団が勝つと思うが、時代の進展や現実の戦いでは→織田信長の天下布武の旗印の下に結集・増大した信長・家康とその家臣団は小さな戦闘&戦場の局地戦に仮に破れても、農民兵の農繁期の徴発・出稼ぎ的な武田軍は大規模&長期戦では兵力・兵站が維持出来ず、ジリ貧の様相が強くなり、他方、織田軍には時間を味方に、必要と有れば外国勢力の助勢も得て、局地で負けても大局的に、一進一退の末、結果的には信長の勝利に終わると思います。
この回答への補足
ご返事ありがとうございます。信長が有利ですか。補足するならば、武田の最強騎馬軍団でしょうか。はっきり言ってしまえばあれは武田家全軍の10%ほどで、北条氏よりも数が少ないのです。甲斐が馬の産出国なのは知っていると思いますが、それが甲陽軍艦などに取り組まれ、武田=騎馬軍団 のイメージになってるのではないでしょうか。 この数値が誤りでもっと馬の数が多くても、信長の大量の鉄砲には勝てないでしょうね。
というのも、騎馬隊が活躍するのは、広々とした野戦や機動力を生かした戦法です。しかしそれらは鉄砲の前には無力というものです。もし長篠の時に信玄が生きていても信長から勝利を得ることは難しいでしょう。
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