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 自分は、人に見返りを求めないようにしてきました。人に要求しないで人には思い遣ってきました。自分としてはそうありたいと、人に優しくしたいと思ったからでした。でも正直無理をしていて、とうとう苦しくなってしまい、それをある人に話したら、見返りを求めている偽善者だと云うような事を言われました。でも、そんなに非難されるようなずるい事をしたんでしょうか。

 確かに無理をしていたというのは、それが純粋な行為じゃないという事になるかもしれないけれど、だからと言ってその行為の動機が相手からの見返りを期待しての事だとは必ずしもならないと思います。

 自分にゆがんだ利己的なところがあると考えた時に思い浮かぶのは、人に要求しないで無理するのは、自分を過大評価して上から見下ろして「してやっている」と優越感を得るような傲慢な行為をしているという考えです。

 だから人に自分を要求出来ない。おくゆかしいようで、実は傲慢であるのかもしれない。

 僕が苦しいのは、他の人より高尚な人間だからでしょうか。それともずるい人間だからでしょうか。

 

A 回答 (7件)

先に、最後の質問の答えとしてはどちらにしても大した問題ではないということでしょうか?



Q/そんなに非難されるようなずるい事をしたんでしょうか。

A/今までのご自身の考え方が正しいと思うのであれば、それで良いと思いますよ。ただ、一つの経験としてそれを良く思わない人もいるということが今回の収穫だったのです。それ以上ではないですし、それ以下でもありません。後は、これからそれをどのように生かすかですね。それが問題なのですけどね。

Q/相手からの見返りを期待しての事だとは必ずしもならないと思います。

A/見返りをご自身はどのようにお考えですか?私の場合で言えば、相手の喜ぶ顔、お礼、単に自分への自賛、経験値向上などがあるので、私の行動に見返りを求めていない行動はありません。
ただ、相手の謝礼やお礼はあまり求めないので、見た目には見返りがないように見えるのです。まあ、全く無心で行うことも多々ありますよ。
あの人困っていそうだと思うとどうも見逃すのが無理な性格ですので・・・。
ただ、それも最終的には経験値として見返りになっていると私は思っています。

まあ、ずるかろうが高尚だろうが、それは考え方や見方の問題です。すくなくとも、自分自身が経験を摘みより多くの人から学び、接しているとそう簡単にいずれか一つの相対する結果を導き出すことはできないでしょうし、いくら狡いと思う人がいても、それ以上に素晴らしいと思う人がいればそれはプラスですからね。後は、どれだけ狡いと思う人を減らせるかぐらいです。

大事なことは、人は結局何かを求めて生きていることです。結局求めていなくとも求めているのですよ。それをまず知ることですね。その上で、高尚であるとか、狡(ずる)い人であるというのは、自分で考えないことです。むしろ、自分の周りがそれを評価するのです。
そのためには、相手の考えを咀嚼することです。そうすると、そこから補正すべき道が見つかるかもしれません。

最後に、人は人で自分も人です。人には感情の変化があります。それ故に求める結果と違うことが続けば、どんなに求めていないつもりでも、不満は出てきます。それを知ればご自身が求めた見返りの形が分かるでしょう。これが偽善なら皆偽善の中にいて、それがないと社会は成り立ちません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:13

無理をするのは、相手を思いやるという純粋な動機の時も確かにありますよね。

誰でも何度かはあるはずなんですけどね。
また上から見下ろす優越感の場合もあるでしょうが、違う場合もあると思います。単なる習慣、考え方の癖みたいな。人は呼吸と同じく、はいて(与えて)吸って(もらって)を両方しないと生きていけませんが、与えるのが得意で(そうあるべきと思っていて)もらう事が苦手な人がいるのです。これは習慣なので意識して直せます。
さて本題です。あなたがされたことを自分が相手にしたと仮定してみたらどうなるでしょう。相手の無理のお陰で自分の幸せが成り立ってるとしたら、それはそれで有難いことですが、なんか申し訳ない気分で委縮しませんか?(しない人もいると思いますがあなたは違うと思うので)
だったら早く言えよ、直すからと思うかもしれません。
また直さずとも、そこがいいと思ってくれる人もいますが、それは今回の話題からはずれますね。
無理のない気遣い、ここまでは素晴らしいことです。そのあと、無理が生じてきた時点から、状況判断が必要になってきます。今この時は辛抱すべきとか、相手を傷つけないで上手く気持ちを伝える方向へ向かうとか、相手の人間性を見直すとか、相手を批判するのではなく上手くやっていくためには、自分も幸せである必要があることを認め、上手く折り合わせていく力です。偉そうに言ってますが私も試行錯誤の毎日です。
相手が言った偽善者とはあなたを責めた言葉ではなくて、自分の必要性?に注意を払わないあなたの発想回路?かもしれません。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:18

まずは世の中のことを考え、その上悩んでいることに敬意を表します。

人間として、平均以上の精神の持ち主と申し上げておきます。

さて、あなたは「善行は善行のみによって報われる」という言葉を聞いたことはありませんか。聞いたことがあり、意味もご存知でしたら釈迦に説法ですが、念のために申し上げれば、人間が他の人間に親切にしたり、面倒を見たりした時、人間という種はその善行した人間に脳内に「エンドルフィン」という物質を分泌されます。その物質は、その人に幸福感を与え、且つ老化物質の発生を抑える効果があります。

このように人間という種はお互いに協力させることを具体的に推奨し、この種が持続・発展していくシステムを構築しているのです。

自分がエンドルフィンが欲しいから他者に施し物をする。まあ、動機は不純かもしれませんが、種としての意思には反していません。=罪悪感を感じることはありません。

親切をして「ありがとう」と言われると気持ちがいいのは、この生理システムの一番判りやすい例です。

(このシステムは、人間でなく類人猿にも見られることが、最近の報道でも知りました。)

以上が少しでも参考になれば幸いですし、お礼の言葉がいただければ、それも小生のエンドルフィン分泌の一助になることでしょう。(笑)
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。 

お礼日時:2010/01/13 02:17

「人を心から許せない場合でも、ずっと怒り続けているよりは、許したふりだけでもした方がよい」と何かの本で読んだことがあります(聖書について解説した本だったと思います。

私はキリスト教信者ではないので、この解釈が正しいかどうかはわかりませんが)。

交通事故で身内を亡くした遺族が、どんなに誠意を尽くされようと加害者を心から許すのはとても難しいと思いますが「一生お前を許さない」と言い続けるより、無理をしてでも「あなたの誠意に免じて許します」と上辺だけでも言った方がよいということだと思います(これを偽善とは言わないと思います)。

無理をしてでも人に誠意をつくすのは原則的には良いことではないでしょうか(偽善とは異なる行為だと思います)。そして「見返り」と言っても「相手の喜ぶ顔が見たい」程度の話なら、誰だって内心見返りを求めますしね。但し、あまり無理をし過ぎると、人間は神様ではないので疲れます。何事もほどほどが良いかと。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:17

見返りを求めないって、そんなに高尚なことなんでしょうか。



船乗りの私の友人から聞いた話です。ある港の国は、とても貧しい国だったそうです。そこの国の庶民は、お腹いっぱいご飯を食べることもできないくらい貧しい。海の男が寄るバーには、地元の女たちが大勢船乗り達を目当てにやってきます。彼はそのうちの気に入った女を誘ってバーで食事を奢ります。食うに事欠くその国の人にとっては、外国人向けのバーに出る食事というのは大ご馳走です。でも彼女は自分ひとりだけ美味しいものを食べることには後ろめたさもある。家に帰れば両親や兄弟姉妹がお腹を空かせています。そこで彼は、食べ物を包んで持たせてやります。これを持って家族にお土産にしてやりなということです。
で、ここから重要なのですが、彼女はその見返りに船乗りにセックスを提供します。最初にいいますが、これは売春ではありません。船乗りから食事もご馳走になったし、お土産までもらいました。でもそれに対する見返りをしてあげなければなりません。なぜなら、
「貰うだけで終わるなら、乞食と同じです。どんなに貧しくても、施しだけを受けて終わるような心まで貧しい人間ではありません」
いただいたものにはお礼をするのが礼儀です。でも彼女は貧しいから何も持っていない。でも、彼女は若い女で、相手は男です。だから、彼女は彼女自身を彼に与えることでそのお礼としているのです。

ギブアンドテイクというのは、対等の関係です。もらったものに対してはちゃんと払っているので卑屈になる必要もありません。
見返りって、お金のようなものだけとは限りません。何かをやって誰かが喜んでくれた。それも充分見返りです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:16

そこを真剣に悩むこと自体があなたの利他性(大我)を物語っています。


利己的な人は真剣にそんなこと考えません。自分に都合よく見られるにはどうしたらいいかだけに集中するものです。

あなたの方向性は霊的真理に則った素晴らしいものです。
そしてあなたは気づいた。自分の傲慢さに。
そこに気づけること自体があなたの高尚さを物語っています。

あなたのレベルは高い。これは間違いありません。
気付いたら直せばいいのです。
謙虚さを身につけ、「してやっている」という思いぐせをなくすようにすればいいのです。
「上には上がある、自分にできる事はささやかだけれども」といつも心にとめることです。

江原さんの本でも読まれてはいかがですか。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:15

高尚な人間でも、ずるい人間でも、どちらでもないと思います。



本当は普通の人間だった。だけのことなんです。
私は声を大にしていいます。

『わたしは、見返りを求める人間です!』

料理を作ってあげたら、「おいしいよ。」という言葉が欲しい。
親切をしてあげたら、「ありがとう。」という言葉が欲しい。
子供(まだいないけど。)に愛情を注いだら、健康にすくすくと育って欲しい。
後輩に仕事をアドバイスしたら、出来るようになって欲しい。

これって、間違っていますか?
求めてはいけないのでしょうか?

質問者様がなさりたいのは、『陰徳を積む事』なら話は別ですけどね。。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/13 02:12

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