激凹みから立ち直る方法

賢い方へ質問です。
老子「天網恢恢疎にして漏らさず」を信じますか?
信じる根拠はありますか?

A 回答 (9件)

> 賢い方へ質問です。



とすると私は答える資格はありません。 しかし、人生結構生きて来ましたので、その経験からひとこと。

先ず、賢さは与えられるもの。 知識は得られますが、知恵は与えられるもの。 世の中には知識が溢れ出す『多々ますます弁ず。』という偉い先生が少なくない。 特にこの『哲学』には、、、。

知識より知恵ですね。 生きて行く上では。 だから俺は賢いなんて思っている人は、その瞬間から愚かになっている。 

前置きはそこまで。 本題に入り、『漏らさず』ではありません。 大いに漏れています。 だって、この世の中不公平だらけ。 それで良いんです。 だから悪いことをしても良いか? 答えは『NO』 不正を行う人は何のため? 自分の利益を守るため。 

自分の利益が人生の目的である人にはいつまでも利益の追求が最優先課題となるでしょう。 大いに追求されたら良い。 蔵百個と言わず何万個分。 一生、そうなさると良い。 

ところでその利益、いつお使いになるの? 死んでから? 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>本題に入り、『漏らさず』ではありません。 
>大いに漏れています。だって、この世の中不公平だらけ。
実感としてはもれてますよね?
なので信じる人の根拠をききたかったのです。
私は漏らさずであって欲しいです。
漏らさずを確信させるような
エピソードがききたいのかもしれません。

お礼日時:2010/05/12 12:32

これは老子の思想、主張ですから、真実を述べた命題ではありません。


信じるとか信じないとかの対象ではなく、肝に銘じるべき警句と思います。

あまり、賢くないですが、、、。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
一番最初に回答してくださったかたの
コメントにも書きましたが
老子について質問したのではありません。
みなさんの周りでは悪いことした人は
みんな裁かれていますかという質問です。
経験則やエピソードを教えてほしいんです。

お礼日時:2010/05/12 12:52

小生も応える資格はありませんが、経験から私なりの解釈を述べてみたいと思います。


(1)「信じる」根拠と問われると応えられませんが、この箴言にはそれなりの根拠があると思います。
(2)悪いことをした(何をもって悪いとするかはここでは問いません)場合、だれにも、程度の差こそあれ、「悪いことをした」という感情が生じます。この感情から逃れることはできません。
(3)そのような人間としての普遍的な感情を抽象化させた世界を、老子が「天網」と表現したものと推測します。
(4)ですから、「天網」は、漏らすことなく、人々に罪の意識を生じさせるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>この箴言にはそれなりの根拠があると思います
その根拠を質問しています。
>「悪いことをした」という感情が生じます
>漏らすことなく、人々に罪の意識を生じさせる
例えば、誰々を守るためにしかたなく悪いことをやった
会社のため、上司から命じられたのでしかたなくやった
そして周りからの評価があがったとすれば
悪いことをしたという感情はおそらく芽生えないとおもいます。
ああこれでよかったんだとなります。

お礼日時:2010/05/12 12:24

 ANo.5で回答の投稿をしました。

その後、他の投稿社さんとの質問者さんのお話を拝読しました。
 仰せの事は私も見聞しますし、経験しています。
 仰せのような悪の温存と厚遇のことをはびこるというのですね。
 悪はこの地上では強い、aggressiveですね。善はhumble、unassumingですね。
 そういう次元世界に質問者さんも、私も住んでいるのですね。
 悪はだからなかなかか悪運でその結果を受け取らされませんね。
 でもやはり、「天網恢恢疎にして漏らさず」は真理だと存じます。
 この次元世界は広いし長いですからね。
 そしてこの次元世界だけが世界ではないですからね。
 そう申し上げても多分質問者さんの心も感情も、鎮まらないでしょう。
 老子の目と意識はそういう広く長い範囲の中での認識だと存じます。
 今、何事もなく、得したかのようなその本人も、必ず計算書を突きつけられます。
 確信の根拠をことばにできませんが、そういうものだと私は今は思っています。
 終わるまでは終わらない。終わるときに終われない。そういうものだと存じます。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>「天網恢恢疎にして漏らさず」は真理だと存じます。
>得したかのようなその本人も、必ず計算書を突きつけられます。
>確信の根拠をことばにできませんがそういうものだと私は今は思っています
この根拠を質問しています笑

お礼日時:2010/05/12 12:27

 信じるという状況とか行為を理解できない、不賢明な子(being 客体存在)ですが、確信に近い経験をしてきています。


 老子がどのような事を頭に画いて観念した事柄かも何となく同調できそうです。
 それに自らの経験と記憶を抹消できないでしょうしね。
 天知る、地知る、我知る
 卑近では“壁に耳あり、障子に目あり”というのも人口に膾炙してきていますね。
 いろいろ自己存在や天地の存在を明かして正しい事を説明するより、実感があるという経験だけを報告させていただきます。
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この回答へのお礼

>実感があるという経験だけを報告させていただきます。
実感があるのは理解させていただきました。

お礼日時:2010/05/12 13:54

 No.1&3です。



 ☆☆ (回答No.1)そして信じるかどうかにまともに答えるかたちではないのですが:
 ☆ と初めにことわったように 《信じるかどうか》の問題ではないという回答です。

 ★★ (No.1お礼欄) 因果応報を信じますか? 信じる根拠はありますか?
 ☆ これについても 同じく《信じるかどうか》は 問われていないという考え方を回答としています。

 ということで ここまでをわたしの投稿といたします。
 なかったことにしてくださって かまいません。
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この回答へのお礼

内容は理解できました。
もう少し私がレベルアップしないと
みなさまの水準にまで
たどりつけないのだとおもいます。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/12 21:17

 ご返答をいただきました。

簡単にお答えしたいと思います。

 ★ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  (違法行為)悪いことした奴が出世するのをどうおもわれますか?
  私はそいつに天罰がくだって欲しいのですが
  私の想いとは裏腹に出世したので
  いったいどうなっているのだろうと思った次第です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 ☆ つまり 同じ答えになると思うのです。
 ☆☆ (回答No.1) ~~~~~~~~~~~
  もし天網が漏らしているとすれば――つまり悪事が何の咎めも受けずに 済んでいるとすれば―― そういう悪事をおこなった人間にはなりたくないと思えばよいのです。
  思うかどうかが問われているのだと受け取ります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つまり もし――きびしいことを言うようですが―― 《その違法行為をおこなった人間のようになりたい》とまでは行かないとしても 《くやしい思いを捨て切れない》のであるならば その気持ちの癒えるまでは そのような悪行は この世の中から無くならないでしょうね。そういう見方がありうるのだと思います。どうでしょう?
 〔くやしいと思っているようだと その違法行為者があなたのことを見てさとったなら その違法行為者は あなたにしろ他の人にしろ 人間の内面には 悪をおこなってでも出世したいという思いが少しなりともあるのだなと思うでしょう。そのときには その悪はあらたまらないでしょう〕。


 ★ (同上) ~~~~~~~~~~~
 因果応報を信じますか? 信じる根拠はありますか?
 という質問でもよかったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 因果律は 経験法則です。そして いまは 人間のおこないが絡む因果関係を扱っています。ということは 因果関係の(α)認識と(β)その認識をどう思うかという心証との二つの問題があります。
 (α) 認識についてでさえも 人は その因果関係のすべての要因やその影響関係を知ることはむつかしいことだと考えます。
 (β) 心証の問題になれば なおさら 主観ごとの違いが浮き彫りになると考えます。この心証というのは ですから 《因果応報》というときの《応報》の部分に対応しているかとも考えます。

 そこで
 ★ 因果応報を信じますか?
 ☆ という問いについては まづ
 (1) (α)の・その領域としては 因果関係がそれとして貫徹しているかと思うのですが 認識がすべての要因に及ぶことはむつかしいとする限りで 因果律を 因果応報という見方において捉えることは これもむつかしい。でしょう。
 (2) ということは (β)に関してはなおさら 分からないということではないでしょうか? 言いかえると 主観の数だけ むしろその主観なりに描いた応報の世界があるということかも分かりません。そしてそうなると 茶の木畠に入ってしまうでしょうし じっさい主観の違いを超えて普遍的な因果の《応報》が 具体的な見方として表わされるかどうかは 何とも答えられない。のではないでしょうか?

 ということは ほかの方も書いておられたかと思いますが 
 ○ 悪とは何か?
 ☆ この問いに移行するのではないか? こうも考えますが どうでしょう?
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この回答へのお礼

>そういう悪事をおこなった人間にはなりたくないと思えばよいのです。
質問内容は悪事を行った人間が必ず裁かれるという
経験則か体験談をお持ちであればそれを
教えてくださいということです。
>くやしいおもい
くやしいという感情とも少し違います。
悪いことをしても許されるのか?
これをきいているのです。
>悪とは何か
言葉の定義はどうでもいいんです。
軽く考えてほしいです。
悪いことをしたとき
その人は裁かれるという
信じている人がいれば
理由や経験則を教えて欲しいのです。
逆に信じていないならその理由や経験則をきいているのです。
>主観の違いを超えて普遍的な因果
主観でいいんです。私は信じます、私は信じません
という答えを期待しているんです。

お礼日時:2010/05/12 06:28

なぜ悪いことをするのかと言えば、本人が納得していないからです。


悪いことの定義にもよりますが、基本的に、自らの問題を自らで乗り越えている人は、基本的に他者に対して悪さをする必要が生じません。
これも、悪いことの定義にもよりますが、悪いことというのは(自分にとっての悪いことというものをする人はいませんから)「他者にとって悪いこと」であって、つまり、それをせずにいられないということは、他者に寄りかからなければ生きられないという態様の証明でもあります。
納得してない、というのは自分自身に納得できない、という意味ですが、それは、納得するだけの力が無いか、その力を削がれている状態です。

自らに納得できない者が幸せを得ることはありません。
もし、あるとすれば、(必ずしもそれを表面化する必要はありませんが、)その悪さを悔いるという形態によって、そのことに気づくしかありません。

つまり、自ら悔いるという過程を経なければ(見かけはどうあれ、)真の幸せが、その人物に訪れるはずは決してないわけです。
この意味で「悪さのしっぱなし」で幸せになれる人はいない、ということが真理であるのは間違いありません。
私的という注釈つきですが、これが根拠です。

たまに、この格言を「悪いことをした人は地獄に落ちる」などと、根拠なく他者を脅迫するようなことを本気で(としか思えない表現で)主張される方もおられますが、こういった非科学的な解釈とは似て非なる根拠であることは、念のため申し添えておきます。
第一、悪いことしなかったら死なないのかっつうの!
と突っ込みたくなりますよね。

以上、「賢くない方」からの投稿でした。
    
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>自ら悔いるという過程を経なければ(見かけはどうあれ、)
>真の幸せが、その人物に訪れるはずは決してないわけです。
こうおっしゃる理由がいまいちわかりませんでした。

例えば悪いことしても外からの評価が格段にあがれば
評価がなかったときより幸福度はあがるので
悪いことをしたのにより幸せになるという図式も成り立つはずです。
>悪さのしっぱなしで幸せになれない
これはわかります。そうだとおもいます。
それは他者評価がさがるのがめにみえているからです。

お礼日時:2010/05/11 21:51

 こんにちは。



 老子の言おうとしたことかどうかは分かりませんが:
 そして信じるかどうかにまともに答えるかたちではないのですが:

 もし漏らしているとすれば――つまり悪事が何の咎めも受けずに 済んでいるとすれば―― そういう悪事をおこなった人間にはなりたくないと思えばよいのです。
 思うかどうかが問われているのだと受け取ります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
老子について質問したわけではありません。
(違法行為)悪いことした奴が出世するのをどうおもわれますか?
私はそいつに天罰がくだって欲しいのですが
私の想いとは裏腹に出世したので
いったいどうなっているのだろうと思った次第です。
天網恢恢祖・・でなくてもいいです。
因果応報を信じますか?信じる根拠はありますか?
という質問でもよかったのです。

お礼日時:2010/05/11 19:40

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