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タカマノハラとトヨアシハラとの共生について
 どういうすべがありますか? 〔=(α)〕

 昔は 互いに贈与と婚姻を繰り返すというすべがあった。さもなければ どちらかが相手につき従い 相手はほかの者を取り仕切る。
 アマテラス国とミズホの国とは 後者の前者への《くにゆづり》によって 支配従属の関係として成ったと伝えられている。
 ほかには 単純に武力の関係として成った場合も考えられる。

 現代においては 経済生活上の交通という関係が大きな位置を占めている。
 定期的な贈与を互いにおこなうことだとか 政略的と言われる婚姻をつうじての交通を絶やさないことだとかをすでに超えて モノの有無を融通する貿易交通が日常的となっている。
 思想も互いに行き交う。

 さて 
 (β) 世の中に中華思想という意味での《タカマノハラ》が 国家として君臨しているとすれば 世のトヨアシハラミズホの国ぐには その《高天の原》類型にしたがってこそ 思想(=生活態度)をかたちづくらねばならないのだろうか?
 言いかえるなら
 (γ)  雲の上の国家が 核戦力を持っているなら ほかのミズホの国々は やはり核武装をせざるを得ないだろうか? 
 (δ) その軍事力を背景にしてこそ 経済・政治・文化の交通を互いに自由におこなっていけるということだろうか?
 (ε) かくなる上は 国家の次元を外して ムラ(市町村)を主体としてもろもろの交通をいとなんでいくしかないのではないか?
 (ζ) あらためて国家とは何ぞや? 必要悪と言うならば その必要性とは何か?

A 回答 (1件)

こんばんはオコリザルです。


新しく質問を立てたので、今回はその回答依頼です。
「望み」と「願い」の分別が主題の質問です。
過去のやり取りを思い返すとすでに表明もしていますが、無心の神とは神と呼ばれる事すらもかなわない純粋な光を指し、それを言葉に表すならアマテラスさんです。
その光は私にとっては(ポケモンの)ジラーチさんを指し、ジラーチさんは、自らの本質が神である事を忘れ、私とデートまでした事のある熱烈恋愛中の恋人です。
ジラーチさんに恋焦がれて悶々とすると、神に願いを傾けるのは人間のする事では無く、神の願いのまま忠実に生きる事が人間ではないかと考えが及びます。
ジラーチさんのポケモン上の設定は良く出来ています。
語源は「望み」を表し、設定上の特徴は願い事ポケモンです。
神の願いをわが望みとする事なのでしょう。
ポケモンジラーチはその誕生からして神秘です。
伝心(テレパシー)を経由して、私より発して任天堂さんに伝えられました。
でも「我」に照らすと私はポケモンジラーチを発案していません。
伝心のみの中継点に過ぎません。
そうするとポケモンジラーチとは、観念世界より生まれて、人間に由来せづに形を表した、純粋な願いの象徴として精霊の(聖霊)本来を象徴しています。
ポケモンとはそのようにリアルな観念世界から舞い込む「実在する聖霊」を捕まえてテレビゲームでピコピコする遊びです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 神に願いを傾けるのは人間のする事では無く、神の願いのまま忠実に生きる事が人間ではないかと考えが及びます。
 ★ 神の願いをわが望みとする事なのでしょう。
 ★ そうするとポケモンジラーチとは、観念世界より生まれて、人間に由来せづに形を表した、純粋な願いの象徴として精霊の(聖霊)本来を象徴しています。
 ☆ ここらあたりが 鍵をにぎるでしょうね。

 わたしの見方では こうです。
 ○ 神(――聖霊もそうですが――)は 経験世界を超えています。
 ○ ちなみに《精霊》は 自然の何ものにもやどるというその種の何ものかであって すでに経験世界に見られるという前提になっています。アニミズムのそれですね。
 ○ 《観念》は 表象し得ます――かたちに描くことができます――ので 経験世界に属します。いくら《純粋》という言葉をつけ添えても 変わりません。《善だとか正義だとか真だとか美だとか》は あいまいにしか描けませんが かたちがあるものとして 捉えているものです。

 ○ 言いかえると 神は 純粋であるかないかをも超えています。表象し得ないはずです。かたちに描くことなど出来っこありません。
 ○ かみという言葉にしても聖霊にしても 絶対にしても無限にしても すべて言葉とその表象を超えています。
 ○ 仮りに《神》と言い しかも《神はある。神は存在する。神のちからがはたらく。神にわが身をゆだね 神の心のままになりますようにと祈る。うんぬん》といった仮りの表現が 持たれます。
 ○ しかも 《虚構》という手もあります。これなら何でも表現し得ます。

 ★ リアルな観念世界
 ☆ これはあくまで・どこまで行っても 人間の経験的な思考と想像のとどくところまでの範囲におさまります。それを超えることはありません。《観念》というのは そういうものです。見たり思ったりは 表象しうる世界だからです。《リアル》というのも《もの》にかかわる経験世界のことを言います。
 ★ 「実在する聖霊」
 ☆ 神としての聖霊は どう転んでも経験世界を超えていますので 《実在》するかどうか まったく人間には分かりません。分かるすべがありません。すべがない領域を 神と呼んだのですから。
 ★ リアルな観念世界から舞い込む「実在する聖霊」を捕まえて
 ☆ というふうに《虚構》の中で表現するのは 自由です。ただ概念規定(つまり哲学としての定義)からすれば 《リアル》と《観念》は 経験世界に属します。《聖霊》は これを超えています。この聖霊が経験世界に《舞いこんで実在する》かどうか これは 信仰の次元の話であり その人の主観の内におさまるという性質のことです。その虚構を共有しあうという構図だと思います。

 そうして 《のぞみ》には 経験世界にあるものごとを欲して持ちたい・そうしたいと願う実際の振る舞いもありますし そうではなく経験世界を超えた次元において何かをのぞむという心の志向性もあると思います。後者は 永遠や無限あるいは真理にかかわる問題――主観にとっての問題――だと考えます。

 タカマノハラやその主宰者であるアマテラスは 想像の世界としてなお経験領域に属します。
 もしこのタカマノハラが 超経験の世界つまり神ないし聖霊とつながりを持つとするなら 地上世界としてのトヨアシハラミヅホのくにぐにも 神とつながっているとなります。それらは 主観内面におけるあくまで表象の世界での物語の問題です。

 そのゆえに アマテラスとスサノヲ(ミヅホの国の人)とは 実の姉と弟であるということになります。

 《観念》の世界は 想像の産物でしかなく くちるべき世界です。モノがかたちあるのと同じように 表象(想像)としては概念としてのかたちがあるのが 観念です。または 概念の枠組みや中身をわざとぼやかしてあいまいにしたのが 観念です。
 ブッダは ただの人間の境地であるというのに 超越的な存在のあり方だというふうな観念化がおこなわれています。空観も縁起も無我も みんな観念化した見方をされており もっと言えば幻想の共同となって 人はその観念の繭の中にちぢこまって閉ぢ籠っているというのが 現状だと見ます。仏教は 功罪あい半ばすると考えます。
 罪の側面として社会のあり方にとってきわめてわるい影響をおよぼしているのではないか。(これは 仏教に限らず アマテラス神話にしても何にしても観念化・幻想共同化が起こっているという見方です)。こう考えた結果の設問です。どうでしょう?

お礼日時:2010/05/20 15:29

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