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無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。
無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論)
そこで無我について考えてみました。
煩悩を考察する例え話です。
たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。
冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。
このようになります。
ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。
このようにくよくよします。
そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。
この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。
でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。
我には無い、されど世にはあるです。
無我に照らせばフェラーリはあるです。
我に照らせばフェラーリは無いです。
ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。
世の中をあまねく照らせば全てはあるです。
無は信仰のみにしか無い。
ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。
「私があなたを知らないわけがない」と。
そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。
しかし神に照らせば全てはある。
ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。
お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。
私は無我とは偽りであると主張します。
それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

A 回答 (2件)

お釈迦様の悟りは「無」ではありません。

それは、後世の大乗仏教の教祖の一部の人が言っているだけで生悟りなわけです。だから、いろいろな理屈に合わない疑問が出て来るわけです。

大乗仏教や学者たちは、お釈迦様の悟りを正確に理解しておりません。

特に、大乗仏教の歴史はお釈迦様の悟りが理解できていないことからスタートしました。だから、色々な学説が生まれて現在ような、無数の創作経典や論書や宗派が生まれました。

それぞれが、似たようなことを説いたり、まったく違うことを説いております。

これは、お釈迦様は「自分の悟りを表さなかった」ことによります。お釈迦様は自分の悟りの感想は言っていますが、「悟りとはどういうことなのか?」ということは説明していません。

ただ「ニルヴァーナ(涅槃)」というだけです。そして、自分と同じ悟りを体験しなさいということで、その修行法を生涯に渡って説いただけです。

お釈迦様は、涅槃に至る修行法とそれを助ける教えを説いただけで、「これが悟りだ」ということは言っていません。言うどころか、言ったところで理解できないから言わないと言っています。

また「無我」ですが、これは「我(アートマン)」の存在について説いたものです。「我」とは、「アートマン」、つまり「霊魂」のことです。

古代インドでは、人間の本性は霊魂(アートマン、我)であって、肉体が滅んでもアートマンは残り、それは常住不変で永遠の存在であると言われていて、そう信じられていました。

しかし、お釈迦様はバラモン教で言われているアートマンは永遠でもなければ、常住不変の存在でも「無」いと説きました。

また、バラモン教が説いているアートマンも真のアートマンでは「無」いと言ったわけです。

バラモン教が説いているアートマンは一見不変で永遠のように思えるが、それもまた因縁によって出来たものである説いたのです。

仏教で言う「無我」とは、何も無いとか、何も考えない状態とか、何も思わない状態とか、そういうことをいっているのではありません。

仏教で「無」という言葉が使われ過ぎるために誤解が生まれただけに過ぎません。

般若心経でよく「無」という言葉がでますが、あれは修行によって「有」を「無」に転ずることが出来、「無」を「有」に転ずることが出来る。あらゆるものは因縁によって「有」でも「無」でもすることが出来る。何の理由でそのようなことが出来るのか、それはすべての真理は「空」だからだと説いているわけです。「空」というものが、因縁によって色々なものに変化すると説いているわけです。

だから、本当は「無」ではなく「空」なんですね。「無」は否定語として使われているわけです。

だから「空」だけは実在なのかも知れませんね。「空」の中に、あらゆる物も命も霊も、その元になるものがあるわけです。それを仏教では「梵」「法(ダルマ)」と言いました。これは言葉が違うだけで「絶対神」のことを言っているのだと思いますね。「空」という言葉は、大乗仏教の中観派から出た言葉ですね。

お釈迦様の説法の特徴として「神」とか「霊」とか「魂」とか、他の宗教と混同して誤解されやすい用語は使わなかったのですね。お経を読めば、これは「霊」のことを言っているなというところがあるわけです。言葉が違うから説いてないという学者や僧侶がいますが、間違った解釈ですね。

お釈迦様が説いたのは「ニルヴァーナ」とそれに至るための「修行法」と「教え」のみです。それ以外は、庶民の人生相談や素朴な疑問に答えただけですね。「ニルヴァーナ」についてですが、未だに誰も理解しておりません。だから、諸説や推測が数多く出てきます。「無我の境地」もその一つでしょう。

ある程度の地位や名声のある人が、何か言ってしまったら、間違っていてもそれが通ってしまうのが世間というものです。だから、偉い人が間違うと困るのです。修正する勇気のある人が出るまでそれが真理として定着していまいます。
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この回答へのお礼

ヤプーはうっとうしいから締めるよ。

お礼日時:2010/06/24 10:35

釈尊の時代には、肉体煩悩に振り回される自分、自我を否定するために「無我」と言っていたのですが、時代を下るにつれ「無我」は字の通り何にもないんだという意味にとる人が増えてきたのですね。

そこで竜樹あたりから「無我」の代わりに「空」を使うようになったわけですが、これでもわからない人はやっぱりわからないようで、「空」も「無」と同じよな意味に解釈してしまうのですね。
無我も空も同じ意味ですから、肉体煩悩に振り回される自分を否定して本当の自分、真我を見出すということだけなんですね。それを端的に表した言葉が「真空妙有」ですね。空の先に妙なる有があるということですね。妙なる有が真我ですね。
仏教は二重否定を駆使したの高等哲学なんですね。簡単にわかるものではないということでしょうね。
といっても2500年前の仏弟子は理解してるのですね。現代の人のほうがわからないだけかな。
その後の坊さんも今の学生さんのように覚えるのが精一杯でその深い意味まで理解できなかっただけでしょうね。ということで仏の教えは字面でとらえても何の意味もないんですね。
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