【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

太平洋戦争(第2次世界大戦)での日本の敗戦について

太平洋戦争で日本は敗戦しましたが、自分の感覚では降伏のタイミングを誤ったために大きな犠牲を払う結果となったと思えます。そのために良くも悪くも今の日本の姿があると思います。
ただ勉強不足のためか、日本の敗戦のきっかけ、原因がイマイチわかりません。

質問ですが
先の大戦での日本の敗戦の原因は何だと思われますか?

宜しくお願いします。

A 回答 (7件)

 続きです。



・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
(陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。)
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を後退させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択(=戦線の拡大)となったのです。

 つまり、この時点で日本の経済的継戦能力は失われていて、ジリ貧負けは決定していましたが、中国戦線が内陸で行われたために、海軍艦船は無傷で残っていて、『負け』を認めて撤退する決断が出来なかったのです。

この回答への補足

今回の中国との尖閣での出来事、中韓との歴史認識の日本側との齟齬など・・・
先の戦争が日本に残した傷跡はあまりにも大きいと思います。

自分は戦争などまったく知らない世代ですが、戦後65年を経た今となっても、近隣諸国との諍いのベースに日本の敗戦が深く影響している気がしてなりません。

ご教示頂いた解説をもう一度参考にして、自分なりに日本のあり方を考えてみたいとおもいます。

補足日時:2010/09/24 19:25
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この回答へのお礼

大変詳細に解説いただき、当時の状況がすんなり頭に入ってきました。

戦線拡大の経緯、それに伴う判断の推移等、時系列でご回答いただき参考になります。

満州~の経緯は少しは理解していたつもりでしたが、このご回答を拝見して、改めて認識を定かにすることができました。

戦闘拡大による、国内の疲弊等の解説も参考になります。

自分もまたいろいろな戦争について記された文献を読んでみたいとおもいます。

お礼とともに感謝いたします。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/09/24 17:57

 中国戦線の泥沼化です。

長いので満州事変の部と日華事変の部に分けて述べます。

<日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の経緯>
 ― 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争)は、ある点で性格を全く異にしています ―

 戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)
 明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。

 ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。

 この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。
 ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスかと言う国家としての戦略的判断なしに、支那事変が起こり継続されたと考えています。

・満州事変
 「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。

 上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)
 ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。
 この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。

 日本は、当時一等国と呼ばれたイギリス・アメリカ・フランスに比べて支配地域が遥かに小さいため、イギリスなどのように植民地を未開発のまま薄く搾取する政策を取るのでは、これらの国に対抗できませんでした。
 そのため、支配民族のレベル向上による独立運動激化のリスクを知りつつも、占領地を徹底的に開発して国力向上を目指しました。

 国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。
 ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。 

<理由>
 第一次世界大戦後の世界平和の空気の中で、「中国に関する9カ国条約」1922年が結ばれ、(列強がヨーロッパの戦線に全力を傾けていた隙に日本が対華21カ条の要求をしたことが遠因)
 中国の門戸開放
 列強の中国に対する機会均等
 中国の国家としての主権尊重の原則
が確認されました。
 この条約に対する日本の違反に対して、『満州は中国ではない』という論理が、一応成立する余地があり、満州族の清朝皇帝溥儀を擁立しました。
 ところが、熱河作戦の地域は、山海関を越えていて満州ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼の内容はNo.7で・・・

お礼日時:2010/09/24 17:40

第2次大戦を太平洋戦争とするから色々な勘違いがあるかもしれませんが


正式には大東亜戦争です。
日本は戦争をしたくてした訳ではなく、当時の白人文化圏による、アジア植民地化計画に対して抗議し、最後まで外交交渉などで、平和的解決とアジア独立を願っていたのです。
それに対して、米・英などは、日本に対する経済封鎖を行ない。
最後は石油輸出の禁止をし、
やむにやまれず、戦争の選択をした事です。
日本はこの戦争は、勝てない可能性が高いのは、初めからわかっていましたが、何もしないでアジアが白人文化圏の奴隷になるならという思いだと思います。
ちなみに、日本は戦争には負けたが、日本の目的を達した事に関しては、真の勝者であると誰だか忘れましたが、外国の偉いさんがいってました。
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この回答へのお礼

大東亜戦争ですね。自分もそう入力しようか迷ったのですが・・・(笑)

やはり勝てないと認識しつつはじめた戦闘だったのかもしれませんね。

>やむにやまれず、戦争の選択をした・・・

そうかもしれません。

>日本は戦争には負けたが、日本の目的を達した事・・・

そうあって欲しいのですが・・・現状を鑑みると?の部分もあって。(笑)

基本考え方は回答者様に近いです。

ありがとうございました。
参考に致します。

お礼日時:2010/09/24 17:25

基本的にアメリカ政府は、日本の台頭を好ましく思ってなく、


叩き潰すチャンスを狙っていた事は、多くの史料で明らかです。
ただ、多民族国家のアメリカは、国家のために個人が犠牲を払う戦争に
巻き込まれるのに反対の国民が多く、政府は踏み込めなかったのです。

従って、日本が序盤の戦勝に乗じて有利な講和を結ぶなど不可能です。
開戦時には、日本の方が優っていた空母(第二次大戦での主力艦)の
数(日本8vsアメリカ6)ですが、終戦時のアメリカの空母数は
100隻を越えていました(日本が戦争中に建造したのは数隻)。
この工業力と経済力の差において、山本五十六はじめ、先見の明の
ある人間は、日本が勝てるはずがないと思っていました。

その山本五十六連合艦隊長官にしても、「真珠湾で痛い目にあえば
アメリカに厭戦気分が広がるだろうから工業力の差が出る前に講和を」
という考えだったというから、彼は優れた軍事戦略家ではあっても、
比較文化学的な計略には疎かったと言わざるを得ません。

日本の敗戦の原因は、石油や鉱石、ゴムといった資源が国内ないし
地続きになかったという点でしょう。
近代戦争は消耗戦であり、生産力が勝敗を決します。
南方との長い補給線を、全て防衛するのは不可能である以上、
いずれ窮乏に追い込まれて負けるのは明白でした(アメリカは国内に
油田があり、ゴムや鉱石も日本の手の届かない南米から調達できた)。
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この回答へのお礼

当時の日本の首脳陣にしてみれば、開戦という決断は非常に困難な結論だったということですね。

戦いに至る経緯のなかにはいろいろな選択肢があったのだろうし、戦争中にも様々な判断があったということですね。

詳しく解説していただきありがとうございます。

参考に致します。

お礼日時:2010/09/24 17:16

日本の敗戦のきっかけは「ミッドウェー作戦」の失敗・敗退から始まります。

そのまま、今までの優勢が嘘の様に、ずるずると坂道を転がり落ちて行きます。軍部はとにかく国民の大戦への意識高揚を高める為に「虚偽の大本営発表」を繰り返しますが、暗号は解読されるわ、敵国に情報は筒抜けになるわ、当時の最有力武器である「飛行機」も性能において劣るわ、で各地での敗戦・投降が続きます。日本政府はミッドウェー敗戦以来、戦争敗退の空気がありましたが、軍部が強攻策に出た為に、要らぬ犠牲(「東京大空襲」「沖縄地上戦」「広島・長崎への原爆投下」)を受けたのです。

>自分の感覚では降伏のタイミングを誤ったために大きな犠牲を払う結果となったと思えます

=そう、正にその通りなんです。言わば「悪あがき」を繰り返してきたわけです。この日本の悪あがきを止める為に使われたのが「原爆」なのです。ですから被原爆投下は日本政府軍部に責任があると、私なんかは考えます。広島に投下されたのが8月6日、長崎に投下されたのが8月9日、天皇陛下の戦争終結の詔勅が出たのが8月15日。実は長崎に原爆が投下された後、日本政府は極秘裏に降伏への調整を進めていき、それで敗戦までの6日間、原爆は使用されなかったのです。もし、まだ「悪あがき」を続けていれば、アメリカを中心とする連合国は他の地にも原爆投下の機を伺っていました。候補地も既に決まっていたのです。私は広島・長崎への原爆投下は日本政府軍部の先読みの甘さから出た「大きな犠牲」と考えます。

結局のところ、日本敗退の原因は、

1)従来の日本の武器が全て旧式になり、新型の強力な武器を作る技術面で大きな遅れをとっていた
2)暗号解読の技術において、大きく遅れをとった
3)日清・日露・日中の戦役で勝利を挙げられた事により、大国に対する認識の甘さがあった
4)真珠湾攻撃大勝、その後の連戦連勝で、軍部上層部に「驕り」という隙が生まれた

事によると考えられます。
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この回答へのお礼

詳しくご教示頂きありがとうございます。

やはりミッドウェーでの戦闘をきっかけとしてなんでしょうね。

日本に原爆が投下されたため、良くも悪くも日本はある種特殊な防衛環境を創らざるを得なくなったのかもしれません。多大な犠牲も含め、あらゆる面を考慮しても残念でなりません。

自分の大雑把な質問に的確にお答えいただき感謝します。

参考になりました。

お礼日時:2010/09/24 16:56

勝因が見出せないのに開戦したことではないでしょうか。

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この回答へのお礼

確かに・・・それがすべてかもしれません。

ただ開戦に至る道程には致し方ないものを多分に含んでいた気もします。
結果敗戦のため、現況の日本の防衛の在り方をある種決めてしまったのかな・・・と思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/09/24 16:46

こちらでご確認ください。


http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-0-1-1.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

参考にいたします。

お礼日時:2010/09/24 16:40

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