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「火垂るの墓」をドラマで観てから非常に悩み続けています。

おばさんが途中から、清太君と節子ちゃんにだけ食事の量を減らしたのですが、これは仕方のない行為なのでしょうか?
いかに戦争中といえども可愛そうでしかたありません。

私だったら自分の子供の手前もあるし、同じ食卓では平等の食事を取らせると思います。
ただし、どうしても我が子を助けたいというのであれば、後でこっそりと「清太君と節子ちゃんには内緒だからね」と言って別の食事を与えるかもしれませんが…
ただこれも私の想像にすぎません。

皆さんはどう思いましたか?

A 回答 (10件)

他の質問に回答したのと一部同じ内容で恐縮ですが。

。。

まずhdko7080さんがそう感じたのはドラマの演出に問題があるからだと思います。

この物語を清太の視点を通して見ると、戦争=大人に属するもの、おばさん=大人に属するもの、ということで、大人の論理に非合理に徹底的に打ち負かされてしまったことを妹の死が象徴している、というのがアニメ版の演出かと思います。なので妹の死はまだ児童である清太の視点ではどうしても理解できない矛盾に満ち溢れており、その矛盾を無理やり受け入れざるを得ない状況に追い込まれている清太の気持ちを通して、視聴者がストーリーに共感するという構造になっているべきものと思います。つまり大人の論理で捉えるのではなく、子供の論理で捉えてこその物語のはずです。ちょうどマッチ売りの少女と同じですね。

なのに、TVドラマの方は妹の死のあとで、おばさんが「戦争とはこういうもの」と自分を正当化し、そこに視聴者の共感を得るように演出してしまっています。おばさんの論理は大人の論理であって、子供の論理からするとあまりにも理不尽(理解できないもの)です。まず清太や節子は親戚であるおばさん(大人)を信じていたはずなのに裏切られてしまい清太は理解に苦しんだはずです。また戦争自体が母親や父親を奪い、これまた理解できるようなものではありませんし、その戦争があっけなく終わってしまうのも理解に苦しむでしょう。そして節子の死です。それをドラマの最後で「そういうものだ」と正当化してしまうのです。しかも視聴者に比較的良い印象を与えてしまう松島奈々子をキャスティングしたことで、大人の論理の正当化をより印象づけてしまっています。

ドラマ版の方の主張が子供の論理より大人の論理を優先させているような印象を与え、大人=強者、子供=弱者という構図で考えると、映画版(アニメ版)に比べて相当低俗なものになり下がってしまっていると言わざるを得ません。例えばマッチ売りの少女にも叔母がいたとして、マッチ売りの少女が死んだ後、その叔母が「あの娘は弱いから死んだのよ、だからあなた達は強くなりなさい。」、「あの娘は死んだけど、ママはこの時代あなた達が生きていてくれることが望みなの。あなたたちのためにがんばるわ。」なんてセリフをくっつけて、物語として何の意味があるのか?

では、現代でもおばさんの論理に共感できるかと言えば、現代の社会で育ち教育を受けた私には全く共感できません。当時のおばさんが受けた教育と現代の私達が受けている教育は全く異なります。おばさんの論理は当時のおばさんだけが正当化できうる論理であって、現代の人がおばさんと同じ思考をしてしまったら、それはTVドラマのトリックだと思います。なので、あのおばさんの論理を現代人に共感させようとするドラマの演出がよくないと考えています。個人的には、この物語のテーマは“子供の世界から見た大人への痛烈な批判”なのだろうと考えており、物語の背景に戦争があるものの、戦争があろうがなかろうが過去、現在、未来に関わらず普遍的なテーマゆえに現代の私達が共感できるのだろうと考えています。ですからアニメ版のように子供の視点で当時の社会や大人の矛盾を現代に置き換えて共感させるように演出するのが正解だったと思います。実際にTVドラマ版を視聴していて、節子の死までは涙にむせいでいましたが、その後のおばさんのセリフでしらけちゃいました。

以上が私のこの物語の見解です。そういう観点からすると、現代人であるhdko7080さんの悩みはごく自然だと思いますよ。hdko7080さんであれば、おばさんよりもっと良い選択肢を持っているでしょうし、もっと工夫して対処できるはずです。そしてきっと清太や節子は生きているはずです(当然じゃないですか)。ですからおばさんをご自身にそのまま当てはめて悩まずに、おばさんのバックグラウンド(当時、どういう育ち方をしたのか、どういう教育を受けたのか)を想像して、おばさんと自分で何(社会、信仰、モラル、教育、政治等)が違うのかを調べたりご自分の意見として考えてみるのがよろしいのではないでしょうか。それと物語的には、おばさんは大人の象徴だと思うので、やはり子供の清太の観点で現代を考えてみるというのがよいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
technovaさんの的を得た回答は大変共感できました。
まさしく私が感じていたことを言葉で表現してくれたなという感じです。

ドラマの最後でおばさんが言った言葉、「死んだら負けなのよ」。
という言葉を聞いたとたん、私も興覚めしてしまいました。
生きる為なら何をしてもいいのかと…

大変参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/08 22:16

直接の回答ではなく、またそのシーンも直接、見てはいないのですが。



戦後の昭和20年代に、「歌舞伎役者の家の住み込みの弟子」が、「家族に比べて、食事の時に出される品が少ない」のを恨んで、家人を殺害する事件が起こっています。
これは直接の血縁がないケースとはいえ、あの時代の極限状況では、そういったことも充分、現実にありえた、と思います。

また、失礼ながら既回答ですが、
1945年(昭和20年)3月に東京下町が大空襲を受けた後も、
東京(区部)各所への中規模な空襲は反復して続いております。
(私の親が体験したのは、5月の空襲です)
また、戦闘機による機銃掃射も酷く続いていたことを、書き留めておきます。
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独身の頃アニメを見てなんて酷いおばさんだ、思いました。

が子供を産んで見方が180度変わりましたね。「死ぬか、殺すか」「勝つか、負けるか」二者択一の世の中だったのです。

もし自分があのおばさんと同じ立場ならば同じ行動をしたと思います。実子に「鬼」と言われようが嫌われようが、自分のお腹を痛めて産んだ子に「生きて」もらいたいです。

質問者様はお子さんはいらっしゃいますか?
(失礼をお許し下さい)
もしいらっしゃらなければ、何て酷い回答者だとお思いになるでしょう。

ラストシーンの「死んだら負け」という言葉はそのとおりだと思いました。亡くなった清太君と節子ちゃんは気の毒ですが、のち、このおばさんもJR尼崎脱線事故の生存者の心理と同様に「生き残ってしまった」と、一生心の葛藤との戦いだった事でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私には子供がいます。
自分の子供には、他人を犠牲にして生きぬ無精神よりも、同じ屋根の下で暮らすもの同士、運命共同体的な精神を教えたいと思いました。

お礼日時:2005/11/08 22:21

その時代の事です。



実の子供に現実を解ってもらうためには、差別は当然だと思います。
実際兄弟も二人がかわいそうだと目を向けてはいるが、私のを少しあげるという行動に移れなかったのは、ひもじい空腹の為としか考えられません。

現実あの当時は、戦争で疎開している家族が、田舎の私の同級生にも居ました。あの通りの服装で、食べるものも無く、私の兄などは彼らから草の根っこが食べられることも教わったようです。川原であれこれ食べた記憶があります。つんつん草?(イネ科の植物)の新芽の先を抜いてその根元の白い部分とか。

供出でほとんどお米は政府に取られ、農家であったにもかかわらず、くず米といってお米を選別した際に出る米になり切っていないお米に麦を半々くらいに混ぜたご飯が主食でしたよ。
もちろんおかずは、ほとんどイモ類とたまねぎだけでした。
米泥棒も居ましたし、毎日美味しいといって食べるものは無かったです。

彼が疎開先で勤労奉仕に出なかった理由が解りませんが、おばさんにしてみれば、その辺りが気に障ったのでしょうね。実家の壷から米などを持って帰ってきたとき、この子はこんな良いものを食べていたのか?と思うと特に誰でも思うのでは?(あの時鶏卵も持って帰っていましたが果たしてあれは不可能でしょうが・・・。)

大阪湾に軍艦が映っていましたが、あれは残念ながら大阪湾ではありません、身近に島、半島はありません。
撮影も苦労しますね。(余談)

>いかに戦争中といえども可愛そうでしかたありません。

それが戦争です。
家族を守るための、手段です。
明日の食料のめどが立たないのです。






仕方ないのです。
















生きる為には。
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今年久しぶりにほたるの墓を見ました。


…というか見てしまいました。
しばらくご飯もおいしく食べられないし、寝付けないし、不意に涙が出てくるし、とてもブルーになるので見ないようにしているのですが…数年に一度、テレビで放映しているのに出会うと、見てしまいます。

今は自分に幼い子どもがいるので、今までとは違った視点でまた悲しくなってしまいました。

質問者さんは戦争の話しをご家族から聞いたことはありますか?
うちは田舎で、ひいおばあちゃんまで4世代同居でした。
よく戦争の話を聞きましたよ。

No5の方がおっしゃっていること、私も思いました。
後から思ってみればもう少しで終わる戦争だった、でも毎日その中で生活している人たちにしてみたら、永遠にも等しい(または加速していく)毎日だったという状況があります。
配給だって昨日と同じ量がもらえたわけではない。
配給だけで生活できないのに、なかなか人の分まで優しくすることができなくなる。
裕福な人だって、ためてある分は、まだどうなるかわからないのに人にほいほいあげることはできないのじゃないでしょうか。

だったら今頃はもっと募金や里親が増えたって良さそうなものですよね。
ブランドのバッグをいくつも買うなら、飢えによる平均寿命が39歳というアフリカの国の難民の募金にもっと割けるだけの財力があるのに。
結局は、どれだけ豊かになっても、そんなに優しくはできないのかもしれません。

もっと身近なところでは、とても物質的に豊かな現在だって、老いたお姑さんにご飯を十分与えなかったりさらには子どもにご飯を与えない親もいます。
根っこは同じ、「虐待」ですよね。そういう優しくなれない精神状態に追い込まれるという。

戦争というのはエゴです。戦争の教育をされていった人間は、よりそういうエゴが強くでるのではないでしょうか。
生き残るためには何でもしなければいけない、という。

戦争という大きな大きな先の見えない渦に巻き込まれた人々は、ほとんどがそういう精神状態へと追い込まれていったのではないかと思います。
中には優しくできた人もいるでしょうね。
でも…実際自分が田舎に住んで、自分の子どもを抱え、そこへさらに親戚の子どもが2人(倍ですね)増えたら…最初は優しくできても、いつまでできるかは…

母親は、子どもが一番大事です。痛感します。
自分の子どもも親戚の子どもも同じように飢えさせることって、とてもつらいと思います。
自分が飢えても、子どもには食べさせたい。
子どもの手前とか平等とか、そんなのでお腹はふくれないですよ。

私は、このおばさんにも主人公のように反発を覚えましたが、それよりも…
最後に節子を火葬しているその山の山荘に遊びに来たお嬢さんたちが楽しそうにしているという状況の方が衝撃的でした。
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「想像を絶する」というのが戦争なのではないでしょうか。


食べるものが極端に少ない。どこにもないという状況は経験がないので
今の自分の環境でしか考えられないというのは仕方ないですが、
明日から食料が全部配給になる。これがいつまで続くか解らない。どこにも食料がない。となると
あのおばさんが言っていた
「あなた達に食べさせるお米があるのなら
一粒でも自分の子供に食べさせたい。」
と言うのは、本心であったのでしょう。

その心の本音を映像化する事によって
戦争の悲惨さを伝えているのではないでしょうか。
原作者は野坂昭如で、実際の体験に基づき書いたそうです。
本人が言っていましたが、実際はもっと悲惨で残酷だったと。
妹の事まで思いやってやれる余裕は本当はなかった。
時には妹の分の食べるものまで奪って食べた、とも言っています。
それを聞いた時、この作者を責めるような気持ちになりましたが、
でも、それが戦争なんだと辛くなりました。
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おはようございます。



 その後の清太のとった行動と並び、賛否が巻き起こっているテーマですね。
原作者をご存知でしょうか?随分昔に某有名映画監督の祝賀会の席でその監督をぶん殴った事もある人です。最近はあまりテレビに出ませんが、以前は「朝まで生テレビ」などに頻繁に出演されていました。その歯に衣着せぬ言動からはとても「火垂るの墓」の原作者とは思えません(笑)。

 そういうことから察するにこの作品は作者の意図として「戦争中に可愛そうもクソもない。」「戦争中に平等もヘチマもない。」ことを読者に突きつけ、まさに質問者様がそうであるように「そのことで読者を悩ませる」というねらいがあるのだと思います。

 #1の方の回答にあるように当時本当にそういうことがあったかどうかは別問題です。
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こんにちは。


私も同様に思いましたよ。
ただおばさんと甥姪のの関係を考え、そういう事もあるか・・・とも思えました。
おそらく自分の血が繋がった甥姪でなく、旦那さん側なのでしょう。
ただでさえ厄介者と思っているのに・・・という感じですね。
これ見よがしに苛めるのは現在にだってありそう・・・悲しい事です。
質問者さんの様に「後からこっそり」と考えられるかどうかは、人間性にもよるかと思います。
また、普通の人にでもそういう事をさせてしまうのが戦争なんだとも思いました。

話は違いますが、野坂昭如氏の「戦争童話集」もとても良いです。
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 こんにちは。



 戦時下の庶民を描いた映画やドラマには、このようなシーンが結構ありますね。

 私は戦後生まれの20代ですが、よく小学校の頃、8月6日原爆投下の日の登校日に、こういった戦争映画・アニメをい見せられました。そしてそのときに、質問者様と同様の疑問が湧き、かつ映画とはいえそのような冷淡な態度に憤りさえ覚えたことを記憶しています。

 当時は物量が極度に少なく、一家の食事を賄うだけでも大変な苦労があったと思います。
 そのような極限状態では、人親では食い扶持が増えることは自分たちの生計が第一であり、博愛とか憐憫とか言っていられない状況だったため、ついこのように冷遇してしまったのではないでしょうか。
 仕事で疲れていて、つい他人に冷たく当る人のような感じでしょうか?
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都会者の被害妄想です。


これに限らず疎開して生き残った人はお腹がすいた、いじめられたなんていいますが実家が東京など大都市にあるということはそれ自体が特権です。またいじめは学校教育そのものがいじめだった面があります。いい子、ちょっと賢い子、裕福な子は可愛がってもらっていたと思うが(^^)
帝都の繁栄享受して爆撃もなくのほほんとしていたころに地方では親たちが徴兵され明るいうちは親の手伝いしていた子供がいたわけです。

なお徴兵は戸主は免除されていましたし、1943年までは学生も免除された特権階級でした(地方の若者いなくなったあと1943年に「学徒出陣」)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/gakut …
1944年には学童疎開(東京と大阪では呼び方も違う)が始まります。東京が爆撃されたのは1944年10月から1945年3月まで(第2次世界大戦中でこの期間だけです。これ以外の期間はいい思いしていたわけ)
紙と木でできた町には最小限の爆弾で最大限の効果あげましたけど。
http://ha4.seikyou.ne.jp/home/jouhoku/heiwa/si-s …
http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm

なおすべての児童が悲惨な疎開生活送ったわけでなく、爆撃されなかった地方都市に行った人は「飢えた記憶がない」と日記に残しているほどです(^^)学校関係者の事前調査の力量差もあったでしょう。
爆撃免れていた町の中の二つはあとでひどい目にあいます。

東京のいくつかの私立学校の疎開先では教師も一緒に疎開していて(疎開に入らないのかもしれないが)敗戦までのどかで平和な集団生活したって人がいますね。
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