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太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか?

第二次世界大戦が始まる直前、
日本の政局も混沌と
していました。

次々に短命内閣が現れては潰され
現れては潰されました。

そして昭和天皇が一番信頼し頼りにされていた
最後の元老西園寺公望も90歳で亡くなりました。

西園寺の最期の言葉は
「いったいこの国をどこへもってゆくのや」
期待していた近衛と袂をわかち
近衛を首班指名した事を後悔し続けたそうです。
そして西園寺の予言通りになってしまいました。
今現在も無責任体制で民主党政府は
「いったいこの国をどこへ

確かに近衛が首相のときに
支那事変がおこり、
高邁な理想とは裏腹に主体性なく思い付きの
行動を取り続け、軍部のつきあげもないのに
勝手に軍拡しながら「不拡大方針」を唱えたり
挙句は「国民政府を対手とせず」といって
断固膺懲路線に転換。いってることと
やってることがちぐはぐなままずるずると
支那事変は拡大の一方をたどります。
近衛は汪精衛を擁立して日中宥和をはかるも
失敗。辞職します。

その後平沼内閣の時に独ソ不可侵条約が締結され
「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し内閣総辞職
しました。

続く阿部内閣は第二次大戦の勃発があり、
三国同盟を陸軍部内から突き上げられますが
日米関係を考えて棚上げにするという功績を
残したものの統制経済の影響と
凶作の影響からコメが流通不足になり、
米価引き上げを図ってコメの出回りを
引き出そうとするが物価高騰物資不足となり
民心が完全に離反。
阿部はしぶとく内閣総辞職と解散総選挙で
局面の打開を図ろうとするも陸軍が民心の
反軍化を恐れて指示せず、内閣は総辞職。

新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されますが、
昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を
求める風潮を憂慮したために、
米内光政に組閣の大命が降下。
米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役に入り、
親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、
近衛文麿らによる新体制運動にも
冷淡な姿勢を貫いたこと等により
陸軍や親軍的な世論から不評を買います。
斎藤隆夫の反軍演説も陸軍の反発を招きました。
組閣から半年たって仏が独に降参すると
独伊への接近を企図し、
近衛文麿を中心とする新体制に期待して
倒閣の機会を窺っていた陸軍は、
畑俊六陸相を単独辞職させ
三長官会議にて後任を推挙しなかったため、
軍部大臣現役武官制により、
総辞職に追い込まれました。
昭和天皇は米内内閣総辞職について
「もし米内内閣があのまま続いていたなら
戦争にはならなかったろうに」と、
後年まで悔いておられました。
そのあとを継いだ近衛内閣は
北部仏印進駐、三国同盟締結、
日ソ中立条約、南部仏印進駐も決定。
日米交渉を開始したが暗礁に乗り上げました。
近衛の理想とした近衛新体制は
骨抜きにされ、大政翼賛会も骨抜きにされ
どうにもこうにもにっちもさっちも
行かなくなった状況に近衛はさじをなげて
総辞職。
時局収拾のためには誰からも横槍の入りにくい
皇族内閣が適任だろうという事で
東久邇宮稔彦王(当時は現役軍人で
軍部の受けもよいだろうという理由)
を首班候補に東条と近衛は推戴していたが
木戸が「皇族の指導によって
政治・軍事指導が行われたとして、
万が一にも失政があった場合、
国民の恨みが皇族に向くのは
好ましくない」として反対し
重臣会議を諮り、結局、
「強硬論を主張する東條こそ、
逆説的に軍部を抑えられる」という
木戸の意見を採択して東条に大命降下しました。
そして東条内閣の時に太平洋戦争が起きてしまいました。

現役大臣武官制がなければ
米内内閣の倒壊はなかったでしょうし
宇垣内閣の流産もなかったでしょう。

皇族初でおそらく最後の皇族内閣として
戦後の敗戦処理にたった54日の
短命内閣とはいえGHQと小競り合いもなく
見事なまでに時局収捨して降伏事業を
混乱もなく収めることができた
東久邇宮稔彦王殿下が東条内閣の
かわりに組閣出来ていたとしたら
戦争には至らなかったかもしれません。

そこで質問です。

※東久邇宮稔彦王殿下の皇族内閣が
 第三次近衛内閣の後に組閣されていたとしたら
 太平洋戦争は回避できていたでしょうか。

※現役大臣武官制が復活していなければ
昭和天皇の信任厚い米内内閣が長期政権を
維持して、太平洋戦争を回避できたでしょうか。

※太平洋戦争を回避できたとしたら現在の日本は
どうなっていたでしょうか。

以上3点についてお答え願います。

A 回答 (4件)

 国内事情だけで開戦が決まったわけではありません。

むしろ日本の歴代内閣は戦争回避のために尽力しています。最終的に開戦に至ったのは、何がどうしても戦争をやりたかったルーズベルトの思惑とコミンテルンの陰謀によるものです。

 7月の御前会議で9月までに交渉がまとまらない場合は開戦やむなしとなっていたので、第3次近衛内閣は最後の頼みを日米首脳会談に求めて交渉を続けましたが、アメリカ側にまったく相手にされずに失敗。ここに及んで開戦するしか無くなったので、近衛は開戦の責任を負うのを嫌がって辞職しました。
 要するにこの時点でいったんは開戦方針が決まっていたわけです。で、後任は誰が担当してもババを引かされることになっていました。近衛と東條はそれでも皇族内閣ならどうにかなると東久邇宮を推選しましたが、皇族がババを引かされることを恐れた木戸内大臣が、陸軍からの働き掛けもあってすべてを東條に押しつけました。
 東條は組閣にあたって天皇陛下から御前会議の決定は白紙に戻して開戦を避けてほしいと言われ、改めて日米交渉に臨みましたが、アメリカは交渉に応じるどころか最後通牒のハルノートを押しつけて来たため、開戦するしか無くなったというのが史実です。
 東條がいかに万全な構えで日米交渉に臨んだかということがわかると、東條以外の人間がとても開戦を阻止できたようには思えません。皇族内閣が出来たところで、やはり日米交渉に行き詰まったところで近衛と同様に政権を投げ出す結果に終わったと思います。

 米内内閣が続いた場合は三国同盟は阻止できたかと思いますが、一方で日中戦争の長期化による社会不満や資源問題が出て来るのは避けられず、2・26事件のようなクーデターが再発した可能性は否めません。日本の政党政治が崩壊したのは2・26事件によって政党政治家が委縮してしまい、軍人の横暴が利くようになってしまったためですが、これはその傾向に拍車を掛けます。これではもうこの後に近衛や皇族内閣が出来るわけも無く、完全に軍人政治が支配するようになってしまいます。
 すると、やはり陸軍強硬派の主張が通り易くなり、三国同盟は復活し、日米交渉などに労力を掛けることなくまっすぐ戦争に向かっていった可能性が高いです。もっとも、陸軍は自分でアメリカとの戦争はできませんので、対米開戦ではなく対ソ開戦を行い、独ソ戦開始すぐにドイツと挟撃を行っていた可能性はあります。ま、いずれアメリカの方から宣戦布告してくることになるでしょうが。

 戦争を回避できた場合と言うのは、いつの状況で回避できたかで違ってきます。例えばハルノートが出て来た時点で受諾やむなしとなった場合、日本はやたら軍の力が強いだけの経済的には貧しい三等国に成り下がってしまいます。世界的なブロック経済体制の中で、おこぼれのようなわずかな資源を輸入するだけでは工業の発達とかはあり得ません。満州の権益を失えば、戦後の引き上げのように多くの移民が帰国してこなければならなくいなるので、国内では失業者があふれ、食糧不足が起こります。
 日本がこんな状態なら、アジアアフリカ諸国の独立なんかはとうていあり得ない話なので、21世紀になっても世界中は西洋の植民地に分割されていたことでしょう。
 ただし、日本が大陸から撤退したら、あっという間に中国は共産党の天下なので、共産主義の勢力がアジアアフリカを呑み込んでしまう恐れもあります。さしあたりは朝鮮が赤化され、日本から分断される可能性が高いでしょう。その後もじわじわと共産主義が勢力を伸ばし、貧しい日本で共産革命がおこり、ソ連や中国の支配下に入ってしまうのも時間の問題です。
 共産主義の日本では経済は発展しませんから、ずっと貧しいままの状態が続きます。ま、共産化されなくても列強のブロック経済に締め出されているから変わりはありませんが。あと、人種平等も実現しないので、世界のありとあらゆるところで有色人種は差別されます。共産主義日本でもソ連からやって来た白人の指導者が絶対権力を握り、日本人は虐げられるでしょう。

 ブロック経済の西洋列強が無血勝利したようなものなので、世界的なブロック経済は長く続き、自由経済はやってきません。したがって非共産圏でも著しい経済の発達は無いので、共産圏との力関係は開きません。冷戦が起こるかどうかは欧州大戦の結果次第ですが、冷戦になった場合はそれで長期安定してしまいます。きっと今でも冷戦の真っただ中でしょう。
 日本はその中の共産主義国側の、それも貧しい弱小国でありつづけるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

細かい分析ありがとうございます。

確かにハルノートを受諾して
日本が全面撤退していたら
北朝鮮以下の国として
世界の最貧国としてほそぼそとした
国に落ちぶれていた事でしょう。

当然アフリカアジアの植民地解放は
遅れてしまい、いまだに白人の搾取が
続いていただろうと思います。

ドイツが2次大戦で勝てる可能性は
ソ連侵攻で不可能となりましたから
社会主義と資本主義の冷戦が長く
続き、ソ連に近い日本では赤化の
勢いを止められず共産革命が
起きていたかもしれません。
それで北朝鮮以下のミャンマーのような
国になっていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 21:04

日本が「弱腰外交」をやる事を国民が認めれば避けられたかも知れません。

まあ軍部も強硬派だった事もあります。今の北朝鮮と同じような政治体制になっていましたから、まづ開戦は避けられなかったでしょう。

回答者様は色々分析されていますが、歴史にもしもはないので、これから死にたくなかったら政府の「弱腰外交」を支援しましょう。

あの大戦に少国民として加担した者としての忠告です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

幣原外交の反動で急速に世論が反動化した
あの時代と今がちょっとダブって感じましたので
このような設問を作ってみました。

確かに戦争直前の日本は北朝鮮みたいでしたから
あのまま回避しても今の日本とは打って変わって
北朝鮮屋中国の様な恐ろしい国になっていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 20:51

そもそもアメリカ政権が日本を潰してでもの中国利権を奪い取る事を望んだのですから、国内体制がどう変わろうと戦争は避けられません。


それこそアメリカ日本州になるまでアメリカの要求は続きます。
国内の軍部とアメリカ両方との折り合いをがつくラインは初めからありません。

イラクを徹底的に調査し武装解除したあとでも、結局戦争起こしたでしょ。
同じことです。要求はエスカレートし続け、どこかで戦争が必ずおきます。

当時の日本がセクショナリズムでグダグダであったことは明らかですが、太平洋戦争について言えばあのタイミングで戦うことが最善だったんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに中国の利権をアメリカが横取りしようとして躍起になっていましたから
アメリカから日本に一方的な宣戦布告で戦争をおこしていたでしょうね。

またタイミング的にもあの時期で戦うのが最善だったでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 17:23

帝国憲法を施行した時点で、欧米の帝国主義のパクリを始めました。


太平洋戦争直前になって回避と言われても無理があります。
寧ろ、軍事クーデターで粛正されていたかもしれません。

ただ、戦争を仕掛けなくても、資源のない日本には生き残るだけの選択肢がありません。
軍事費が高すぎて経済が不健全になり、民衆に負担が大きすぎました。しかし、
この路線のまま継続していれば、日本が北朝鮮のようになっていたかもしれません。

戦中の日本と現在の北朝鮮はよく似ていますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに、北朝鮮か中国の様になっていたでしょうね。

それと日本を含めた植民地の独立が大幅に遅れていたでしょうね。

お礼日時:2010/10/08 17:21

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