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室町~戦国時代、大名に仕えていた忍者というのは、家中ではどのような扱い・認識だったのでしょうか?

戦闘や暗殺を行っていた忍者は、軍議の場に参加することもあったのでしょうか?

ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

1.室町~戦国時代の大名には神道流=新當流(新当流)=影流という兵法と剣術の心得があり、その中には忍びのすべも含まれていました。



2.忍びの者はお屋敷のお白州までで床に上がることは許されていませんでした。

3.侍の忍びの心得と、忍びの者のしのびのすべはまったく異なります。

以上でございます。。
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農業だけでは生活していけない貧しい土豪が、戦の時に傭兵として雇われ賃金を貰っていたのが忍者です。


忍者はお金の為に働いているだけなので侍のような名誉欲はありません。
侍が嫌ってやらないような汚れ仕事や武功とかけ離れた地味な諜報活動もやりました。

家中では武士道精神を持たない卑賤な連中といった扱いだったでしょう。

しかし実は忍者の行う汚れ仕事や諜報活動は戦において大きな意味を持ちます。
それを認識した大名は忍者を円滑に集めるために、忍者集団のリーダー格の人間を正式な家臣として登用します。
足利義昭・織田信長に仕えた和田惟政は甲賀の豪族、徳川家康に仕えた服部半蔵は伊賀の豪族で、これにあたります。
彼らは、重臣待遇での登用ですから当然軍議にも参加したでしょう。


例えて言うと、
忍者は正社員にアゴでこき使われる日雇いのアルバイト。
ただ業務に応じてアルバイトを集めることが出来るリーダーは幹部社員として雇用が保証されていた。
こんな感じでしょうか。
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当時の人間が忍者に対しての評価を下した史料はないようです。


軍議に忍者が参加したかどうかも確実な史料はありません。軍議そのものがどのように行われていたかを示す史料がなさそうです。常識的に考えて、軍勢統率者以外は参加できないとは思いますが。

実際のところ、室町・戦国の忍者に関する史料が残っていないため、忍者の実態はほとんど分かっていないようです。
江戸時代以降に書かれた忍術書の類が詳しく記述していますが、どこまで信頼できるか難しいところです。著名な服部半蔵正成からして忍者でなかったことは有名な話ですから。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>室町~戦国時代、大名に仕えていた忍者というのは、家中ではどのような扱い・認識だったのでしょうか?

戦が始まれば、武士と同じように「戦闘員」の一人として戦いました。
また、雇い主の直接的な諜報収集や撹乱(かくらん)戦法の要員として働きました。
しかし、戦闘のない時や密命がない時は、収入(褒美)もありませんので、城下で農業などをして生計を立てていました。
あくまでも、一つの働きに対しての収入しかありませんでした。
従って、群議などには参加できませんでした。
半農、半兵でしかありませんでした。

(よもやま話)
☆忍者とは
起源は、聖徳太子の側近の大伴息人(おおとものそくじん)が記した書の中に「志能便(しのび)」がはじまりとされている。名実ともに特殊技術と認められるようになったのは、奈良朝中期に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が中国からもたらした「孫子」の中にスパイ術が書かれてあり、これを源とする。

☆忍者の原形
修験者が体得し広めていった。貴族が信仰するような優雅な仏教文化と違い、修験者は眼に見える現世的な力を見せて、庶民仏教として受け入れられことを目指した。そこで、山中などの厳しい環境に身を置き、気合術、催眠術、医療術などを体得していった。これらの技術は日々進歩し、長く伝わっていった。

☆「陽忍」と「陰忍」
まず、「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技(わざ)」を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流(ぎけいりゅう)」に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。これに対して、「陽忍(ようにん)」は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流(くすのきりゅう)」を受け継いだといわれている。

☆忍者の格
忍者のランクとしては、「上忍(じょうにん)」、「中忍(ちゅうにん)」、「下忍(げにん)」の3階級に分かれる。「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。

☆伊賀と甲賀
どちらも、自然的条件がそなわっていた。まず、伊賀(三重県)であるが、鈴鹿山系と笠置山系に囲まれ、外界からは隔絶していた。山岳修験者が好む山あり谷ありの絶好の修行場であった。また、京にも近く、古来より戦いの進撃路でもあり、敗残兵の潜入場所にもなった。宗家の「服部家」は、その土地の豪族であった。服部家は家康に仕え江戸時代に全盛期を迎えた。「半蔵門」は服部半蔵から名前をとっている。一方、甲賀(滋賀県)は本来の地名としては「こうか」と言うが、忍法に関してのみ「こうが」と呼ぶのが一般的である。甲賀も鈴鹿山系と信楽(しがらき)盆地とそれらを囲む丘陵地であり、甲賀衆は普段は農業や行商人に身をやつし、「上忍」はおらず、「中忍」と「下忍」だけで構成されていた。甲賀衆は、織田信長を経て豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮した。しかし、忍者は戦陣においても他人に「忍者」とわからないよう、また、同じ忍者同士でも悟られないようにしたという。そして、雇ってくれる者があれば敵味方関係なく働いたので、いちがいに、伊賀は○○方甲賀は△△方と所属を分けることはできなかった。その他、雑賀衆(さいかしゅう、または、さいがしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)なども忍法を駆使して戦いで活躍した。また、一説には「柳生」も剣とともに、忍法を用いたとも言われている。

☆陽忍の七変化
陽忍は、いわゆる、大物スパイであるので、あらゆる人物に化けた。虚無僧、山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)、これらの七種類の変装用具を用意していた。これを「七方出の術(しちほうでのじゅつ)」と呼んだ。もちろん、扮装だけではすぐにバレてしまうので、ふだんから物腰や教養、技術などを身につけていなければならなかった。高級忍者たるゆえんである。

☆くノ一
忍法「くノ一」は、もちろん「女」である。これは、女を敵方の奥向きへ仕えさせて情報を収集するもの。「陽忍」の高等術の一つであった。

☆忍法のその後
徳川幕府が安定してくると、戦いもなくなり、当然のことながら、戦場での「忍法」も必要なくなっていった。したがって、「陰忍」はしだいに姿を消し、「陽忍」だけが残るようになった。一説には、寛永十四年(1637)の島原の乱で「陰忍」はすべて消滅したと言われている。それ以後は、「隠密」と呼んだ。
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江戸期の伊賀忍者と甲賀忍者の扱いをみると何となく想像が出来ますが、甲賀忍者は郷士階級の出身で、200俵取りの与力身分で武士扱い、伊賀忍者(服部半蔵は忍者出身で忍者ではない)は30俵の同心身分でいわば足軽扱いです。


戦国時代も同じだったのではないでしょうか。
つまり、甲賀忍者のように武将として大名に与力して出陣し、部下を使って情報収集するものもいれば、自らの才覚を頼りに然るべき武将に仕え、足軽として主に情報収集にあたるものもいる、前者は武将なので軍議に参加することもあるが、後者は服部半蔵のような伝のある武将の部下として、情報を上げたり指示を受けるだけで軍議に出る資格さえない。
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