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「患者を生きる」・・・

連続ものの上記のタイトルを朝日新聞に見つけて違和感を覚えたのですが、

日本語として適切ですか。

A 回答 (17件中1~10件)

「患者としての人生を生きる」というような意味で、あえてそのような言い回しをしているのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。もちろん「患者として生きる」という意味はわかりますが、ちょっと違和感がありましたもので。

お礼日時:2011/07/27 17:15

NO1の回答者様と同感です。

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この回答へのお礼

NO1の回答者様へのものと同文です。

お礼日時:2011/07/27 17:17

新聞のタイトルは、読んでもらえるように、ぱっと目に止まるインパクトを重視しているので、日本語としての文脈や文法は二の次でいいんだと思いますよ。

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この回答へのお礼

確かにインパクトがありました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/27 17:14

これは、「患者としての生活をする」、「患者としての立場で人生を送る」、「患者でなければわからない人生を送る」といった意味合いです。



他のご回答者の皆さんと少し違う角度でご説明すると、最近の日本語では、英語を代表とする外国語の影響が強まっています。たとえば、新聞記事や見出しの書き手が英語の影響を受けていれば、英語で言う「live a life (of ~)」という表現が出てきます。例として、「live a life of ease 」(安楽な(安易な)人生を送る」など様々な変化形があります。このような表現は、短くできるので、記事の見出しなどに好都合です。しかし、本来の日本語には無かった表現なので、人によっては違和感が残ります。
他にも、英語の表現から来た日本語は少なくありません。
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この回答へのお礼

英語live は自動詞であり他動詞でもありますが、日本語「生きる」は自動詞なのに、あたかも他動詞のように ~を生きる は違和感がありました。 もちろん意味は伝わりましたが。「今を生きる」「時代を生きた」などは違和感は少ないです。「あの動物は猫を生きている」なんてあまり言いませんから。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/27 17:13

>日本語として適切ですか。



?ですね。
私はある深刻な病気の患者ですが、文法的にも変ですし、何よりもこんなキザな言い方は恥ずかしくてできません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
実際の患者さんにしてみれば、確かにキザな言い方で、むっとくるのは理解できる気がします。

お礼日時:2011/08/10 16:43

 keirimasさん、申し訳ありません。

敢えてお気持ちに逆らう回答投稿をします。

 深刻な病気の患者ANo.5さんの受け取り方がでました。
 ご当人達にとっては、そんな表現の問題ではない、ということもありうるでしょう。
 しかしそういう境遇ではない者の受け取り方ですが、気障かも知れませんがジャーナリズムという文章の専門家としては一つのインパクトの効果が成功しているともいえます。
 違和感という受け取り方は、寧ろ気障という語の中に含めた方がいいかも知れません。
 まぁ『“こんな病の患者たる自分の人生、自分を受け取って生きている”そういう人たちの情況である。』ということだということは、この題字の少ない文言を目にして直ぐに飛び込んできます。
 そういう意味ではうまい言い方だと存じます。現実の難しい病の方には“なにいってやんでぇ”という気持ちを持たれる方も居られるでしょう。
 そういう意味で無色でない、強力なインパクトがあると存じます。文法的にも日本語的にもおかしなところはないと存じます。
 私の日本語感では問題がないように存じますが。朝日が特にいいというわけでもないし、新聞や近年の日本語に嫌気を持ってはいるんですが。
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A.no.5の 8toshinnbijinでございす。


A.no.6のkrya1998様に、名指しで
>ご当人達にとっては、そんな表現の問題ではない、ということもありうるでしょう。・・・・。
・・・と論評されました。
非常に不愉快に思っております。

加えて、文法的にも誤りはないとおっしゃいました。
私がA.no.5で誤りだと申しましたので、そうではないとおっしゃったのでしょう。

krya1998様、文法的に誤りではないという根拠をお教てください。
「自分としてはただそう思う」とおっしゃるのであれば、国語カテの回答にはなりません。

私は、「生きる」のような自動詞に「を」の目的語を取る場合は、特殊な自動詞の特殊な場合のみしかないと考えています。
他の回答者の回答を否定することはそれなりの根拠があってのことだと存じます。
どうぞその根拠をお示しください。
ことは文法の問題です。「自分は正しいと思った」では、根拠を示したことになりません。
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「飛ぶ」は自動詞です。

(他動詞は「飛ばす」)
でも、「空を飛ぶ」というのは間違いではありません。
「歩く」も自動詞です。「野原を歩く」はOKです。
このように、空や野原のように、動作主のまわりにある場所や空間を移動する場合は、「○○を」という言い方ができます。

「今を生きる」「時代を生きた」の「今」や「時代」は、先程の「場所」や「空間」と良く似ています。
「時代を生きた」は、すなわち形を持っていない場所や空間を通り抜けたということで、自動詞的な動作です。
だから違和感はあまりありません。

ところが「患者」は生身の物体です。
患者という物体を通り抜けるのは物理的に困難です。
「患者を生きる」は「患者として生きる」ということです。
「今を生きる」は「今として生きる」ではありません。
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 気障、だから違和感。

違和感、だから気障。そして意表性。成るが故に新聞の題字としてのインパクト。
 “野原を歩く”は、“野原として歩く”ではない。
 ここが日本語の没理屈性というか超理屈性ですかね。

 「難病の患者を生きる」=「難病の患者として生きる」という意味、意訳、解説ですね。受け取り。ここに文法や日本語学はないのですね
 そういう意味だと理解できます、という回答者さんお話ですね。
 「野原を生きる」と同じレベルのことではなく、例えば小学生などにそういう意味と受け取れるんだよ、というお話ですね。

 「難病の患者を生きる」=「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」。
 「難病の患者を生きる」=「難病の患者という自分の人生を生きる」なんですね。
 島国でお互いが言わなくても分かり合える日本人の長い間の了解基盤にたっての表現と受け取りですね。
 だからよきに付け、あしきにつけ、省略や変則っていうのはあり、許しあい判っていることってあるのですね。 普遍的論理や、原則がどうしても日本語には欠落します。私も理屈でいろいろ詮索していた小学生の頃は、日本語って嫌いでした。
 でも他国語の方が理屈で勉強すると、勉強している言語が難しいですね。言語って個人の理屈でいかないですね。いつまでも私は日本語以外が判らないのです。
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自動詞と他動詞、「を格の目的語」について分からない人には無理だと思います。


「野原を歩く」の「野原を」は通常の「を格の目的語ではありません。
意味不明、論旨不明のお話はご遠慮願いたいと存じます(^^)。
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