プロが教えるわが家の防犯対策術!

かつて質問された記事を拝見した上で、タイトルの質問をしています(見落としがあればすみません)。
過去に既出した質問では、人間の本質、地球上で存在する意義などが討論されてきたようですが、今回私が質問しているのは、人間の生物としての役割ではありません(子孫繁栄など)。
社会を形成する人間だからこそ持っているのではないか、と考えられる人間の役割には何があるかについて考えたいと思っているのです。
私は今、とある専門的な学問を勉強しているので、どうしてもその学問からの視点が拭えず、思考が偏っているように思えますし、実際にはどのような役割があると考えられているのか知りたくて、このような質問を投げかけてみました。
もちろん、学問としてまとめられているわけですから、そこから学んだことは、結局この質問に回答してくださった意見を要約した内容と近しい結果になるかもしれません。
ですが、生の声を聞くことは、知識の根拠づけや理解を深めることに繋がっていると考えるので、この質問も有意義なものであると考えています。
自分の持つ人間のイメージから考えてもらっても良いですし、自分をモデルにして自分の持つ役割は何かについて考えるのも良いと思います。
ご自由な考えをお聞かせください。

長文で読みにくい質問ですみません。
質問が分かりにくい場合はまた補足させていただきますので、指摘していただければ幸いです。
ご協力お願いいたします!

A 回答 (4件)

 「役割」が他人から決められる場合と、自分で創り出し、他人に役割を振ることができる人がいます。

考えようによっては、後者も、そのような役割が与えられていたのだと言うことができます。一方、前者も、他人から与えられた役割を言われるままに遂行するばかりでなく、進んで自分の仕事を創り出す場合もありますし、また役割を忌避する場合もあります。そのように、人間には選択的行動が取れるのです。

 確かブレヒトの『ガリレイの生涯』にあったような気がするのですが、それまでに誰もできなかった世界を変えるような発見をしたが、それを自分の保身のために権力に売り渡してしまった、それでも名誉欲のためにその真理を弟子に託して自由な世界に伝えた、その結果、本当に世の中が幸福になったのかどうか、むしろ地獄を引き起こしてしまったのではないか、しかし、その人がやらなくても、その時代には、誰か他の者がその発見の栄誉を勝ち得たもので、その人がいないとなされないようなものではなかったという見方等が出されていました。

 「役割」というのは、その人にしかできないようにみえて、実は代わりの人にも務まるものであったり、必然にみえて偶然に左右されたり、その結果生まれた新しい情況にまた縛られたり。そうやって社会は動いていきます。

 また、自分の「立ち位置」を考えながら発言する、というのがあります。自分の意見を受け止めてもらえるかどうか、周囲の人の力と自分の立場を見比べながら、言って通りそうな場合だけ発言したりするような場合に使います。これも周囲の「役割」期待を察しながらの行動であると思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
なるほど、よくわかります。
人から期待される自分を演じることが転じて自分の役割と化していたり、またその逆も然りで、人と人の相互関係があるからこそ、役割が生まれるのでしょうね。

さらに質問しても大丈夫でしょうか…?
回答を拝見している限り、回答者様の意見は分別の付き始めた年頃以降の人間に当てはまることではないかと思いました。広義として、“人間”としましたが、もちろん新生児や乳幼児も人間です。さらに、意識が無く、呼吸器を装着したまま寝ている人も人間です。考えを持つことが難しい人を挙げてみました。そんな人間でも当てはまることでしょうか?
すべての人間が、と定義するのは難しいかもしれませんが、あらゆるパターンを考えなければ思考が偏るよなーっと思って再び質問させてもらいました。

ガリレオの生涯の話はすごく興味深く、面白い話でした!

お礼日時:2011/08/04 11:50

「役割葛藤」の例については、3つの役割が、その男性側だけからしかとらえられていないところからくるものだと思います。

そのときの妻の役割、子どもの役割としては、夫または父親を治療に専念させるようにはたらきかけることによって、その葛藤を軽減させることができるはずです。このように役割意識も、相互作用的に成立するものだと言えるでしょう。
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 なかなか奥深いですね。

家族の役割演技で思い出したのは、そのものの原作を読んだわけではないのですが、伊ヶ崎暁生『文学でつづる教育史』(古本で入手できるようです)に取り上げられている文学作品に、ある男性の好きになった女性が、他の男性と不義をおかし、子どもを産むが、その男性は、その子が自分の子かどうか疑いをもつ、しかし、そのうちに、その子が自分と同じように足が不自由であることから愛情を抱くようになり、例え自分の血のつながりのある子どもではなくても、大事に思えてきて、血のつながりなんて、どうでもいいと思えるようになり、血のつながりがなくても、「宇宙の子ども」として、その子を預かっているだけなんだという考えに行き当たったと解説されていたように覚えています。里子育てや、血のつながりのある子どもへの接し方にさえ、謙虚な心構えを提起してくれる観点だと思います。
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この回答へのお礼

何度も回答してくださり本当にありがとうございます。回答の度に著書を参考に持ち出してくださるので、本を読む大切さを思い知らされます。

意識して持てる役割は、言い換えれば気持ちの持ちようによって役割の果たし方が変化すると言えます。すなわち、回答者様のおっしゃるように、気持ちの持ちようで役割への執着、こなし様が変わるというわけですね。しかし難しい話ですね。子育てにルールはなく、たとえ他者のアドバイスを参考にしたとしても、お手本の根本は自分がどのように育てられてきたか、がほとんどではないでしょうか。親としての意識を持つことができても、心構えすら自らの育てられてきた環境に左右されるようにも思えます。達観した考えを持って子育てに挑める頃には、もう孫が居そうな気さえします(笑) 

役割葛藤というものを聞いたことがありますでしょうか。
人は複数の役割を担い、こなす存在でありますが、ときに他の役割が障害となって役割をこなすことが難しいこともあります。たとえば、ある家庭を持つ男性が病気にかかり入院したとき、彼には病人として病気を治すという役割があります。しかし入院という制限のために、働いて収入を得るという役割をこなせず、夫婦の営みを行う夫としての役割も果たせず、子どもの面倒も見れないという状況に陥ります。今挙げただけで、入院したことで3つの役割が果たせない状況にあると言えます。これにより、彼は役割に関して葛藤を生じるのです。
ある役割を果たそうとしている人を見ると、その役割ばかりに目がいきがちですが、他の役割を知らずしてその人を語ることは難しいと言えるでしょう。それは回答者様が提示されたブッダの中で言われている「役割のつながり」にも通ずることではないでしょうか。役割同士つながりを持つからこそ、一つの役割ではすべてを語れないのです。その人について知りたいならば、その人が何を担っているのか知ることが重要なのだと思います。

話の方向性が見えづらく、申し訳ありません…
考えを言葉にするのは楽しいですが、難しいですね。

お礼日時:2011/08/07 03:59

 なかなか意欲的な提起ですね。

新生児のほほえみは、反射的行動であって、かわいがられようと思ってしているわけではありませんね。しかし、それによって母性や父性を喚起するという「役割」はもっていると言えるでしょう。

 「意識が無く、呼吸器を装着したまま寝ている人」について、尊厳死を認めるべきかどうかという論議があります。ただ単に生命を維持させようとするのは、医療関係者や家族の期待する「役割」を押しつけられるだけという場合もありますし、本人に意識があって、生きたがっているのに、意志表明の機会が与えられず、周囲の都合のままに生命を止められる場合もあるでしょう。例えば、最近、外国でも日本でも、家族や専門家に生命維持のための「胃ろう造設」の家族の代理決定ガイドラインを作ろうとする動きがあり、これに対して、可能な限り本人の意志確認をする努力が不可欠だと疑問視する人もいます。「胃ろう造設」でさえそうなのですから、本人の命を奪う言い分に「役割」を用いるのは、尊厳、人権に関わりますので、止めておきます。

 手塚治虫の漫画『ブッダ』に、どんな生き物(意識のないあらゆる生命体、あるいは無機物も含むのかもしれません)にも役割があり、それがつながりをもっているということが悟りの言葉として出ていたのを思い出しました。運命を諦観した見方にもなれば、自ら道を切り開くことを自分の使命として受け止める人もいるでしょう。こちらの方が、流石にまとめの言葉としてはいいかもしれません。
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この回答へのお礼

二度目の回答ありがとうございます。
No.1で頂いた回答とは別に、意識して持つ役割と意識しては持たない役割とがあるということがわかりました。意識して持っているわけではない役割は、また、他者が期待して得ているものと当人が持つ魅力(?)などから得るものとに分けられるということでしょうね。

私は、役割とはその人が人生の中で持つ役のように受け止めています。ある人生の中で、娘役や姉役を担ったり、成長して母役を担うこともあります。働けば、働く人という役割を得るけれど、家と会社の中での役割の違いから“働く人”という役も意味を複数持つことになると思います。人生は80年近くあって、その間に役割は変化・交代していくので、ある時に出会った人の役割がまたある時には変わっている可能性があると言えるでしょう。
物語の役とは違い、実際の「役」では、答えのある行動がありません。演出家は存在せず、あえていうなら出演者本人が演出家に当たります。
モラルや道徳、一般常識によって、ある程度似通った行動をとることはよくあることだと思いますが、Aさんの母役とBさんの母役は、同じものにはならず、彼女たちの思考に偏って演じられていくのです。
自らの役について、どう演じるのかは、たとえ他者の言葉に影響を受けても、前述したとおり基本的に演じる本人が決めることです。尊厳死や胃瘻造設の話をしていただきましたが、これらの決定も基本的には本人の決定が無ければならないことだと私は思っています。どうしようもならない状況について考えるべきではありますが、人生の最期のクライマックスシーンを他者に演出されることは、どう考えても気持ちの良いものではないので、私には難しい話だな…としかまだ言えない状況です。

ブッダより、いただいた言葉は、人間の生きる意義のようにも思えました。なんとなく生きることもできる私たちですが、生きる意義を確かにしなければ、生きることが辛い人もいます。「生きているだけで価値がある。」と言われても、それをそうだと受け止めることは、価値を測ることが出来ないからこそ難しいことだと思います。その価値が見い出せない人であれば、「あなたは必要とされている。」と他者から価値を認めてもらえることの方がもしかしたら生きる希望を持てるのかもしれませんね。

長々と失礼しました。今回このように意見を聞かせていただいて、すごく参考になりました。やはり他者と意見を交わすのは楽しいですね。
本当にありがとうございました!

お礼日時:2011/08/05 18:46

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