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1550年ぐらいのとき

永楽銭一貫文はいくらぐらいのかちがあるんですか?

A 回答 (3件)

永高、貫高制を答えよと設問されていると考えますが、




日本では宋銭が流通していた。
と聞いています。

宋銭の信用が高く、永楽銭の評価が低かったと言う説もあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD

初期の撰銭令では、
てめーら、永楽銭を撰銭してんじゃねーよ!! (ーー;

と、信じられない撰銭してます。(これ、偽物ちゃいますか??)


これ以降は永楽銭のような明銭が強くなります。

1550年ですと銭自体の絶対量が不足し権力者でさえ良質の銭の入手は困難です。
天正時代には永楽銭は4文となっていますが、永高制を見ますと、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%AB%98% …

1550年付近は貫高2貫文が永高1貫文となります。


江戸時代には金1両が永高1貫文
石高1石=永高1貫文

となります。

貫高制は頭に刻み付けておくべきでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98% …
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とうじは永楽銭のほかに、他の銭や欠けた永楽銭など


質の悪い「ビタ銭」と呼ばれる銭も使われました。
質のよい永楽銭はビタ銭のやく四倍のかちがありました。

以下関東で公用銭といわれる永楽銭のはなしです。
1550年頃北条氏康のさだめで、職人をつかう時、1日あたり
17文の永楽銭(公用銭)をしはらうとあります。
いまの日当を1万5千円とすると、一文約900円ですが、
城の土木工事など、今より仕事のかちが低く見られた
時代なので、じっさいは半分の500円くらいでしょう。
一貫文はその千倍の50万円くらいとおもわれます。
50~100万円というところでしょう。

とうじの京都ではビタ銭が多く使われたといいます。
関東などはビタ銭をきらいそのため、関西に流れたそうです。
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通用禁止とした中国貨幣である永楽銭を架空の単位として計算する方法があみだされ,それを永銭勘定といったそうです。


 一両=永1000文=永一貫文とし、四進法の金貨幣の計算を十進法に読みかえ,これで計算しておいて,:最後に現行貨幣に換算することにしたという事です。
 永銭1000文=鐚銭4000文 あるいは,永銭一貫文=鐚銭四貫文
 永銭と鐚銭の交換を1:4として永銭に有利な形でみとめ,鐚銭を介して,金貨とのリンクをさせて,貨幣制度の転換,移行をスムーズに行えるように ねらった政策が図られたのです。

以上は、文献から抜粋
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