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 下克上あたりがどうしても理解できません。
 来週テストがあり、全体の流れが知りたいです。

 よろしくお願いします。

  参考書に、応仁の乱から守護代、国人の勢力強大化→下克上で倒れる守護大名と
  記載されているのですが、三管四職が戦国大名なのですか?
  彼らが応仁の乱を機に勢力を弱めて国一揆などで衰退したと言うことなのでしょうか?

  あと、前になると思うのですが大内氏が日朝貿易ですよね、
  これは勘合貿易の後の貿易という事なのでしょうか?
  
  守護大名などと戦国時代の関わり、大まかでいいので教えていただけると助かります。
  どうぞよろしくお願いします

A 回答 (2件)

三管四職は足利将軍家を支えた有力氏族の総称であって戦国時代とも戦国大名とも関係ありません。

三管四職は幕府中央の要職である管領や所司を順番に担っていました。三管四職は足利氏から分かれた分家だったり、古くから足利氏に仕えてきて足利氏と関係が特に深い名門でした。いずれにせよ、それは中央政界の話です。室町幕府の地方支配は、足利将軍が有力者を守護に任命して領国を支配させたものです。支配といっても任期が決まっている警察署長みたいなものです。幕府が正式に定めた役職は守護だけで、幕府が任命した役職も守護だけなのです。そして三管四職はそれぞれ守護としても任命され領国を複数持っていました。全ての守護が三管四職であったわけではない。防長両国の守護となった大内氏は必ずしも足利氏に近い家柄であったこともなく、三管四職でもありません。守護は任期が決まっているといったが、それは室町時代当初だけの建前でありました。室町幕府が任命したというよりも、室町幕府が既成事実を事後承認していただけというのが実態になってきたのです。守護という役職が事実上有力な氏族に世襲化・固定化されて、さらに実力を持った氏族を守護大名というのです。すなわち「守護」という用語は室町幕府が公式に制定した役職という意味を強調しているのに対し、「守護大名」という用語は守護という地位から大名にのし上がったという意味を強調しています。先ほどから守護は室町幕府が任命したといったけど、実は必ずしもそうでない。南北朝時代には南朝が任命した守護もあったのです。例えば大内氏は南朝から長門国守護を任命されました。しかし、その時には長門国守護は室町幕府が任命した厚東氏であったのです。これはどういう意味かというと南朝が大内氏に対して実力で長門国を厚東氏から奪って来いという命令です。大内氏にすれば自分の勢力拡大を正当化する名目を得たことになります。大内氏は厚東氏を攻撃する大義名分を南朝から得たのです。この戦いは大内氏の勝利となって、以降厚東氏は没落して大名になれず歴史から忘れられます。これが南北朝時代の意味です。北朝は室町幕府を支持し、反室町幕府勢力は南朝を支持しました。南朝を支持した動機は南朝から守護に任命されて勢力拡大を図ることだったのです。1392年に南北朝が合一されると南朝から長門国守護に任命された大内氏は正当性を失うので、室町幕府に帰順して室町幕府から長門国守護に改めて任命される形にしました。いずれにせよ南北朝時代は有力な氏族は、北朝、あるいは南朝から任命されたことで領国支配の正当性を裏打ちする必要があったのです。そして一つの氏族は一つの領国だけというルールがあったわけでもない。有力な氏族は複数の領国を支配したのです。それは地域的に連続していた場合もあるし離散的だった場合もあります。「国人」というのは何かというと鎌倉時代に地頭に任命されて地域を支配して一定の勢力を保ち続けた武士をいうのです。すなわち守護が領国を支配したといっても、その領国の中はさらに複数の国人も勢力を持っているのです。大内氏は守護大名から戦国大名にのし上がった氏族で、毛利氏は安芸国の国人のなかから戦国大名にのし上がった氏族です。勘合貿易は室町幕府と明の間の公的な貿易のことです。大内氏は勘合貿易の形で明と貿易をしていたのです。それが幕府の弱体化と共に事実上大内氏の独占状態となってしまうのです。また日本と朝鮮間の貿易は、伝統的に対馬の宗氏が窓口です。宗氏の紹介がないと誰も朝鮮とは貿易ができなかったのです。ところが強大化した大内氏は宗氏を通さずに朝鮮とも貿易を始めるようになってしまいました。それで経済基盤を得た大内氏は三管四職に優るとも劣らない有力大名になっていったのです。守護代とは何かというと守護が領国支配の都合で任命した代官です。複数の領国を持っても一人では統治しきれない。また中央政局に関わるようになるとほとんど領国にいることができなくなります。どうしても代りの者を領国に常駐させておく必要があります。そこで応仁の乱です。三管四職の一氏族である細川氏と同じく山名氏の対立が全国的な騒乱に発展してしまったものです。有力な守護大名は細川氏の東軍か山名氏の西軍に加わりました。勝ち組に乗らないと、守護を解任されて領国を失いかねないので知らん顔はできなかったのです。また東軍・西軍とも敵対勢力を追い落とし、勢力を拡大するために守護代や国人にも勧誘を掛けたのです。例えば西軍の守護大名の領国の守護代に対して、当方に味方すれば新しく守護に任命してやるといった取引を東軍がもちかけるといった具合です。本来、守護は足利将軍家が任命する権限があったのですが、その建前が崩されてしまったことになります。すなわち、それは室町幕府の権威の低下を意味するのです。応仁の乱は結局は、三管四職や多くの守護大名が没落する切っ掛けを作ってしまいました。代って大名にのし上がった氏族を戦国大名というのです。出雲国の守護代から戦国大名にのし上がったのが尼子氏で、守護大名から戦国大名に移行したのが大内氏で、その大内氏と尼子氏の対立に乗じて、国人から戦国大名にのし上がったのが毛利氏です。家柄も家格も関係なしに実力次第で下と上がいれかわる。そういう風潮を下克上と呼ぶのです。もはや室町幕府はそういう既成事実を追認承認するだけの存在でした。室町幕府には何も力が残っていなかったけれど戦国大名の領国支配の正統性を守護に任命することで裏打ちする役割は果たしていました。それが戦国時代です。
守護大名は領国支配を継続させるために応仁の乱に加わったのだけど、それが結局はおのれの没落の原因となり、守護代や国人などの新興勢力に台頭するチャンスを与えることになってしまった。一般的にはその意味で応仁の乱以降を戦国時代といいます。ただし戦国時代になったから合戦の世の中になったというわけでもない。室町時代当初から局所的・地域的な戦乱ならいくらでもおきています。戦国時代は、それが全国レベルに拡大したというだけの違いです。そして全国一斉に戦国時代に突入したわけでなく、地域的には応仁の乱の前から先駆的に戦国時代に突入してしまった地域もあるのです。
室町時代を理解する為には地域の歴史、氏族の歴史を理解しなければなりません。特定の地域、特定の氏族に着目して、その消長を中央政界の動きに絡めて理解するようなアプローチで挑まないと、なかなか流れも見えてこないだろうと思います。地域によって歴史は違います。守護は没落したけど、代わりを引き継ぐ戦国大名も育たずに、一向一揆の自治に任された地域もあります。また戦国大名が育たずに国人領主の分断統治となった地域もあります。また仏教勢力の自治になった地域もあります。また商人組合の自治になった地域もあります。戦国時代は室町幕府の統制が全然効かずにそれぞれの地域が勝手に歩み始めた時代なのです。その時代の主役が戦国大名なのだけど、戦国大名だけが時代をつくったわけでなく、様々な階層からなる脇役の果たした役割も見落としてはなりません。
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この回答へのお礼

日本史を学んでいても参考書ではだいたい同じところが
抜粋されていますがこうして読んでみると奥深いのですね、
(大内氏の勢力の強さなど初めて知りました^^)
今までイメージしていた歴史よりもはるか大きなものでした、
勉強と言う枠をはずして知るという事も楽しいかもしれませんね。

今回はさらりのつもりでしたが、ご丁寧にありがとうございました^^

お礼日時:2011/09/21 04:09

下剋上をされる側は、立場が上の者になるのですが、有名なパターンは…


・斎藤道三 → 美濃守護の土岐氏
・三好長慶 → 管領家の細川氏

ということで、守護大名などの家臣(陪臣)であった者が、その主家を倒し大名になることが下剋上
守護大名は、応仁の乱以前に守護職に命じられるなどして、その国の守護として勢力を持っていた大名
戦国大名は、守護大名の行き残りと下剋上で大名になった者のこと

日朝貿易って足利義満が始めたんじゃないっけ?
日明貿易(勘合貿易)は足利義満が始めたけど、最後は大内義隆だったような…
うーん、この辺はあやふや
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この回答へのお礼

ぼやけていた物が少し見えました、
貿易、どちらも義満ですか??
ん~ちょっと調べてみます。

一人でお勉強してるとやる気も少し薄れるのですが
こうしてヒントを貰えると頑張れます、
ありがとうございました^^

お礼日時:2011/09/19 11:39

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