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戦国武将は自ら武器を持って最前線で戦ったのですか?
大河ドラマや歴史ゲームでは自ら戦っていることが多いですが
ほとんどがフィクションですよね

でもwikipediaなどを見ると自ら武器を持って戦ったという人を何人か見ましたが
それで、武将自ら最前線に立って敵に討ち取られたら元も子も無いですからね。
高齢で最前線に立てるような体力が無い武将も多かったでしょうけど、若くて猛将で最前線に立った武将も多いのですか?

A 回答 (12件中1~10件)

 まず、蒲生氏郷は松坂攻めの時に鯰の兜を付けて戦闘で戦っていました。

彼は、戦の時に戦場によくいたみたいです。
あと、井伊直政がいます。彼は本田忠勝に将たる者前に戦うべきではないと怒られていますし、関ヶ原の戦いでは前線に立って戦ったため負傷してその傷のために亡くなっています。前田利家は信長に怒られ禄を取り上げられた時、今川や斎藤との戦の時足軽の身分で戦い手柄を立てて禄を加増されて復職しています。
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こんにちは。


領主レベルで、先頭に立って駆け出す・・・という例が特に珍しかったようではないようです。
というのは、味方の指揮を鼓舞する為にそういう勇ましい姿を見せるのも部下を掌握し奮戦させるテクニックの一つだからです。
但し、その場合、普通は領主をいきなり失ったら家来はいきなり路頭に迷う事になるので、敵陣に突入する前に親衛隊や周囲の軍団が領主の馬の前に出て、領主が真中、一群の家来と兵隊がそれを取り巻く軍団となって突入するので、事実上、領主が直接雑兵と槍を合わせるような事は滅多にありません。

負け戦を除けば、領主が直接チャンバラをやらかした珍しいケースとしては、武田信玄(当時晴信)が父信虎を追放した時、諏訪・小笠原連合軍がこの期に乗じて・・・と攻めて来た時の戦いで、すぐに集める事が出来た100騎ばかりで突撃、数が少ないので本人も槍を振るわざるをえなかったようです。
あと、毛利元就が当主が幼少で後見人として継いだ時、武田信繁を討ち取った戦いは、元就が単騎、川の中に進み出て武勇に誇る信繁に一騎打ちを呼びかけ、出てきた信繁に矢を降り注いで討ち取りました。

あと、実際にチャンバラをやったかどうかは不明ですが、関が原の合戦で、当初、石田側が結構優勢で業を煮やした家康が、あつらえた南蛮具足を吊るして至近距離から鉄砲で試し打ちを行い、貫通しない事を確認して着用し、自分が先頭にたって親衛隊を率いて突撃しています。
#この時の南蛮具足は現存しています。

あとは、先の上杉謙信の川中島でしょうね。
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のちに92万石の大大名になった蒲生氏郷ですが、みづから立たねば兵は動かぬという信念の猛将で、鎧、兜に弾、矢、槍疵を何度も受けましたが無事でした。


事前に状況をよく把握して、大きな危険のない時の行動でした。
総大将が死ねば部下に大きい不幸をもたらすことを知っていました。
猪突猛進は大名では稀で、侍大将には多いのです。
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戦国時代に、武士が、武勲を立てようとがんばるのは、武勲を立てれば、褒美をもらったり、領地をもらったりできるからです。


誰からもらうかというと、主君からです。
この主君が死んでしまっては、領地も褒美ももらえませんよね。
だから、家来は、必死で主君を守ろうとするし、主君が実戦を避けるのは、家来に対する責任でもあったわけです。

もちろん、味方が総崩れになれば、主も戦わなければならなくなりますが。
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織田信長という人は勝てるという状態に準備してから合戦に挑むように心がけています。

彼は先頭に立って戦うよりも、ピンチになれば真っ先に逃げることの方が多いようです(金ヶ崎など)。しかし、必要とあれば先頭にたって突進することも否みません。本願寺勢の包囲で明智光秀らがピンチになったときは兵が集まらない状況でも真っ先に駆けつけて足に銃弾を受けています。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>戦国武将は自ら武器を持って最前線で戦ったのですか?

まず、分かりやすい例をお話しましょう。
織田信長が戦をする時は、確かに、織田信長本人は、陣幕の奥で指揮を取ったり、信長自身は出撃もせずに、命令だけを下したりしますが、その部下である羽柴秀吉や柴田勝家、明智光秀などは、前線に出陣します。しかし、これらの部隊を指揮する羽柴秀吉や柴田勝家にしても、自分の部隊の中では、やはり、後方から指示を出します。最も最前線で戦うのは「雑兵たち」の働きによるものです。
でも、その部隊が劣勢になり、部隊の指揮官まで押し寄せて、指揮官である本人も戦い、最後には指揮官も首を取られる・・・と、いう場合も多々あります。
有名なところでは、明智光秀は信長を倒しましたが、その後、自分の部隊の結束が整わない間隙をついて、秀吉に負けてしまいました。
また、柴田勝家も賤ガ岳の戦いで破れ、敗走し、自分の城である越前北庄で自刃していますね。

また、武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」で、上杉謙信が武田軍の隙をついて、信玄に馬で近づき刀を振り下ろし、信玄は軍配で、それを払った。と、いうのも有名ですよね。

まあ、総大将は、それらの家臣たちに戦わせ、家臣はそのまた家臣たちに戦わせ、と、「ドミノ形式」で、家臣たちのすべてが討ち取られた時は、最後の砦として、総大将自ら戦わざるを得なかった、と思います。
ただし、家臣たちのすべてが敗れた場合の多くは、敗走しますが、「もう逃げ切れない」と分かると、大概は部下を逃げさせ自分は自刃をして、戦いの終結をします。武田勝頼が良い例でしょう。

>>高齢で最前線に立てるような体力が無い武将も多かったでしょうけど

総大将がすでに高齢だったりした場合は、嫡男を総大将に任命して出陣させました。
また、元亀3年(1572)に武田信玄は京に昇らんとして出陣するも、三方原で徳川家康軍に阻まれ、戦となりましたが、その戦の最中に「病」となり、戸板に乗せられたまま陣中を右往左往し、最後には「死」で、武田軍の敗北が決まりました。

従って、「結論」を言えば、あなたの言われる通り、総大将が死んだら、もう、その戦は「敗北」です。
しかし、桶狭間の戦いでは、織田信長本人が先頭に立って今川義元を討っていますよね。
もっとも、その頃の織田家は、一地方の豪族でしかなかったので、家臣や家来たちも多くはおらず、そうした「暴挙」に出たのでしょうね。
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>武将自ら最前線に立って敵に討ち取られたら元も子も無いですからね。


 それは、ごもっともで大将クラスは出来るだけ、直接戦いに参加しないよう最善の努力をするのですが、無線等が無い戦国時代には、結局のところ指揮官たる大将の目が届く範囲の部隊の指揮しか取る事が出来ません。
 (より広範囲で作戦活動を行う為に、関が原の徳川秀忠の部隊のように、指揮権を完全に分けた部隊を作るという手も有りますが、肝心な所で遅参して戦闘に全く関与していないような羽目に成る事もあります。)

 目の届く所というと、せいぜい半径2~30Km程度が戦場の範囲になりますから、機関銃の無い時代には、敵が決死の覚悟で突撃してきた場合、数に任せて取り囲んで皆殺しにでもしない限り、突撃をとめる事が出来ず本陣への突入を許してしまう事もあります。

 大阪の夏の陣の「天王寺・岡山の戦い」は、この極端な事例で、徳川側が圧倒的に有利な体制で有りながらも、最後尾にいた徳川家康・秀忠の両本陣へ豊臣方の突入を許しています。
 特に三度も本陣へ突入され戦闘に巻き込まれた家康は、敵に討たれる位なら自刃すると覚悟を決めたくらいです。(秀忠は槍を持って敵陣への突入を実行する決意をしています)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B% …

 中世レベルの合戦では最高指揮官(大名 or ヨーロッパだと国王クラス)が自ら武器を取って戦い、結果として戦場で討たれる事例はさほど珍しくありません。(イングランドのハロルド2世やリチャード3世、スウェーデンのグスタフ2世アドルフなど)

 ちなみに今川義元は信長公記では、桶狭間の戦いで信長の馬廻の一人の服部一忠に斬りかかられるものの、逆に服部の右ひざを斬って負傷させ引き下がらせていますし、次に向かってきた毛利新助と乱戦になり、組み伏せられています。(改正三河後風土記では、この時毛利伸介の左の指を喰い切ったと伝えられています。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD% …

 結局の所、可能な限り自ら戦うような事は避けるのですが、不測の事態が発生して、戦わざるを得ない状況になる陥る事がまま有ったという事でしょう。
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私なりの解釈ですが、、



<前提1>
武将は個人商店の社長みたいなものです。
一人でやっている事はほとんど無く、家族や、独立していない兄弟や親戚や下働きの人も含めて一騎です。


<前提2>
大将クラスでも規模の大小はあれど個人商店である事に変わりはありません。
大会社が自分のところで一括請負みたいな中央集中型の戦闘組織ができるのは明治になってからです。

大きな仕事をする場合、元締めはしますが、仕事は別の複数の個人商店を下請けにして仕事をし、直接自分の会社で仕事をする分は全体の1割にも満たない感じです。
直接的な仕事の大部分は、複数の下請け社長がそれぞれ行います。

そして、その複数の下請け社長の下には寄力といわれる孫請け会社がいます。
この孫請け会社の社長レベルまでが武将といえる人です。


<前提3>
会社で何か商品を開発しても、「○○さんが新製品を発表」と認知されるのではなく、「○○社が新製品を発表」と認知されるように、自分の槍で突こうが、部下がやろうが実績は全て武将が倒した事になります。
よほどカリスマ的な働きをすれば、個人の名が轟くでしょうが、そういうのは稀です。


<前提4>
一騎駆けという言葉があります。
でも、武将が一人で馬に乗って駆けるというような頭の弱い行動はありえません。
武将が一人で馬に乗っていれば、それを囲むように徒歩の兵もいれば、替えの馬を引いている人も、荷物持ちもいます。
(散り散りに敗走する場合は一人で駆けるかもしれませんが。)

タイマンでなくても、ある武将の集団とある武将の集団が対決しても一騎討ちと言えます。


<結論>
零細な企業ほど、社長が自ら働くように、戦国武将も零細な集団(武将と呼べない小規模)ほど自ら槍を振るう事になります。
(でも基本的には武将の仕事は槍を振るうのではなく部下を監視する事です。)

また若い武将ほど零細な集団である事が多いので、必然的に自ら槍を振るう機会は多くなるでしょうし、
そこで活躍して生き残った人だけが出世する訳ですから、若い頃に最前線に立った武将も多くても不思議ではありません。
しかし、それは直接自分の手でやったものか、手兵がやったのかは特に区別されません。
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そうですね、偉くなってから前線で槍を振るうというのはないでしょうけど、若い内から後ろでふんぞり返っているってこともないでしょうね。



例えば大河ドラマにもなった、山内一豊などは、若いうちに顔に矢を受けていますよね。
天下人にもなった羽柴秀吉だって、最初は足軽雑兵ですから、当然最前線で槍を振るっていた。

それぞれの役職で行動が違うのは当たり前で、浪人ものや足軽あたりは後で偉くなるかも知れないけれどもこの時点では当然最前線。
戦功を挙げて偉くなっても足軽大将程度なら指揮を執りつつ槍を振るう事もあるでしょう。
しかし、軍議に参加するほどにもなって最前線で槍を振るうのもないでしょう(よほどの負け戦ならいざ知らず)。

戦国時代、下剋上の天下ですから一生最前線に立った事もない武将は少数派で、多くの戦国大名は多かれ少なかれ戦場での経験があるでしょう。

最前線での修羅場をくぐり抜け、それでいて部隊の指揮も出来る。そう言うある種超人的な武将でなければ、なかなか部下はついてこないでしょう。何しろ文字通り命がけなのですから、後ろでああせいこうせい言うてるだけではなかなか・・・。
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武将というのはどういう立場を想定しているのでしょうか?


一国一城の主ですか?足軽大将くらいまで含むのなら、敵前に立つのは当たり前ですけど。

ちょっと前提がよく分からないので一般論でいいますと
社員が何千人もいるソニーとかの大きな会社に置き換えればいいのです。

普段、社長、ないしは高級武将に相当する重役は表に出てくることはあまりありません。
窓口や雑用は部下にまかせればいいからです。
それでもお家の危機のときは社長自らが陣頭指揮を取らねばならないときもあります。
会社が潰れそうなとき、社長などの重役が身を挺して頑張れば志気は盛り上がります。
こういう人間力学みたいなところは時と場所を変えてもあまり変化がありません。

では、通常部下をたくさん持つ武将の立場はどうでしょうか。
普通、部下はその大将が力があればあるほど部下も恩恵を受けます。
ところが大将がいなくなれば、権力者がいなくなるのですから、
他の大将の部下より立場が下になってしまいます。おそらくいじめられます。

だから部下が大将に無茶な真似をさせようとはしません。
ですが、主力大名同士が衝突するような大きないくさでは戦場に出ないわけにはいきません。
どんなに高級な武将でも、職業軍人である以上、戦わねばならない時があるからです。
このような戦場でどのように戦うかまでは、その人物の生き様でしょう。

人間関係を背景にその人物の採るべき立場を考えると
戦場における位置というものが朧げに浮かんできます。
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