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忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。


どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。
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#10 の最初のところに補足&突っ込み:


旗本は基本的に常府で, 吉良上野介も当然「ず~っと江戸にいた」ということになります. つまり領地に足を入れたことはなかったはずで, そういう意味では「領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんどなかったはず」というのはその通り. ただ, だからといって「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」といっちゃうのはどうかなぁ. そういってしまうと水戸藩藩主も同じように「昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな関係」になっちゃうんだよね.... ちなみに「大名ではないので、藩を統治していたわけじゃありません」というのはじっと考えると意味不明だったりします.

ああそうそう, 「お話」レベルでよければ, 「吉良上野介が浅野内匠頭に『塩の作り方』を聞こうとしたが断わられて~」というのもありますね.
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吉良さんは領地では名君だったという説が一般的ですが、


そもそも吉良さんは大名ではないので、藩を統治していた
わけじゃありません。昭和の頃の寄生地主と小作民みたいな
関係で、領地の人たちは直接領主を見る機会などほとんど
なかったはずです。
善悪というもののとらえかたを現代人の感覚ですると誤った
見かたになると思います。この時代、賄賂というのは今よりも
遥かに当たり前の習慣だったはずですし、幕府で(政治的に)
影響力なんてなかった吉良さんがそれほどの賄賂にありつけたとは
思えません。むしろ旗本の吉良さんからすれば大大名の伊達さんや
浅野さんにお小遣い程度の賄賂をせびるのはそれほどひどいこと
ではなかったと考えられます。
賄賂を要求のくだりは実は暗に当時の最高権力者柳沢吉保を
批判したものという説があります。
映画などでよく出てくる吉良さんによる浅野さんへのイジメは
ほとんど創作と言われていますし、そもそも浅野さんは
勅旨接待をするのは2回目だし、直接の采配は江戸で採用された
家臣たちがしたはずなので、あからさまな邪魔はできなかったでしょう。
まだ若手の大名である浅野さんから見れば年寄りの旗本である
吉良さんのことを見下していた可能性があるし、その目下の旗本から
嫌味や小言を言われれば武士の面目が!と怒った可能性もあります。
大名なんてお坊ちゃん育ちですから短気でしょうし、浅野長矩は
神経症的な症状があったという説もあります。まぁカーとなっちゃったんでしょう。
どちらが理不尽なのかは分からないし、分かったとしても現代人の感覚では
理解できないでしょう。ただ第3者が「遺恨あり」と聞いたんだから、
大名の浅野さんをめちゃくちゃ怒らせてしまう何かを吉良さんは
やっちゃったんだでしょう。なお浅野長矩は江戸生まれですんで
「田舎大名」じゃない、そのことは吉良さんも分かってますんで
「田舎大名」と罵ったというのも創作でしょうね。
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ふっ。


善人は斬られたり斬り殺されたりしませんよ! つ^_^)つ

いちいち覚えていないとシラを切る。

ぜってー身に覚えあんだよこいつ!!
当時だからそれで済んでるだーけっ!
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 「忠臣蔵」はあくまでも「勧善懲悪」を主題とした物語です。

彼がヒントを得た事件、所謂江戸城内での刃傷沙汰事件はあったものの、それをどの様に評価するかはさして意味のないことに属します。
 この作品は創作段階で直接的な表現を避けています。例えば「大石由良助」が物語では「大星由良助」となっています。これは事実をそのまま作品として上演した場合に「幕府に対する批判」として上演禁止になることを恐れたからとされています。
 少なくとも物語で討たれた吉良上野介は領民にとって「評判の悪い殿様」ではありません。また職掌として「古今伝授」を司ることで何らの落ち度はなかったといえます。拍手喝采を浴びる者だけがヒーローであるとは限りません。
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地元の愛知県吉良町で300年を経た今でも名君として、


尊敬されてますよ。

御存知の事とは思いますが、忠臣蔵は寛永(1748年頃)に作られた
人形浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵が元に、なっていて、人形浄瑠璃、歌舞伎
浪曲、講談、落語などで演じられ、今に伝わってます。
人形浄瑠璃や歌舞伎で善と悪をハッキリと分けた方が解りやすく、
観衆にも受けるので、そのような脚色します、浪曲と落語は更に
人情が加わります。

現実の赤穂浪士は失敗は許されないのですから、用意周到で準備
し作戦を立てて、目的達成の為有りとあらゆる手段を用いたと、
思いますよ。
秘密行動ですから証拠になるような物はほとんど残っていず、
真実は解らないのです。

生類憐れみの令は当然、人間も対象ですから犯罪者とは云えども
取調べを行った上で判決を下しています、彼らは元々武士ですので
幕府が取り調べをしています。
残った家族、親戚縁者、援助した人に類が及ぶので討ち入り当夜の
事以外は詳しくは話さなかったと、私は推測します。
現在の我々に伝わっているのは、それらの記録から推測、推定された
物で参考程度にすればよい代物かと・・・

日本国が有る限り未来永劫に渡って伝わる物語ですね。
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まず、この話は定説がなく誰にも解答できません。


事件の真実は解明されていなく、だから小説家が自由に物語を書くことができて、人それぞれいろんな解釈ができるのです。

1.そんな事実はありません。領地では名君との言い伝えがあり、吉良では忠臣蔵の上演上映は不可能だったようです。
赤穂市が仲直りしようと、姉妹都市の申し入れをして断られたとか、そんなB級ニュースもあったような気がします。
2.浅野が失敗したら、それは吉良上野介の責任になります。浅野が重大な失敗をしたら吉良も連帯責任を免れません。
3.幕府にそんなことをする必要はありません。
4.それは 「小説」 を 「脚色」 したテレビドラマです。

小説と歴史を混同して、吉川英治の宮本武蔵を真実だと思ったり、山岡荘八の徳川家康に描かれた家康を実像だと思い込んだりした人は、昔からいました。
今は大河ドラマで歴史を勉強する人も出てきました。
小説は全部の作品が史実とは関係ありません。 吉村昭はかなり歴史資料を調査して書いたと言われます。 司馬遼太郎は歴史研究も緻密だったように言われていますが、使った資料の質が悪く、いい加減なところがあると指摘され始めています。
テレビドラマをみて、それが歴史と関係があると思うことがおかしいのです。
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本来は悪人ではないと思います。


忠臣蔵の演劇は討ち入りして間もなく出来たそうです。
世の中の娯楽の為に悪人に仕立てられたものと思われます。
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まず, 饗応役という意味では吉良上野介が責任者で, その下で浅野内匠頭らが働くという指示体系になっていました. ということで, 「(高家肝煎でもある) 吉良が浅野にいろいろ指図をする」という構図です. で, 当時はそのように指導を受けたらそれなりの付け届けをするのが「常識」でした.



ところが, 浅野は 2度目の饗応役なので, 「どうすればいいか」は知っているわけです. そのため「ケチ」な浅野が付け届けをしなかった, ようです (「本当に知らないこと」を教えてもらった場合にはしているようなので, 「もう知ってるから別に教えてもらわなくてもいいし~」って感じでしょうか).

で, 「吉良が邪魔をした」ということはあったかもしれませんが, 「浅野が失敗しない程度の陰険な邪魔」ということになります. 少なくとも, 吉良にとって「浅野に失敗させる」必然性は全くありません.

もっとも, 吉良の評判がよくないというのもまあ事実でしょう. 「武家」のくせに武芸はからっきしだし. また, 「赤穂藩士への聞き取り調査」はなされていないはずです. この事件は下手すると幕府の存続に影響しうる (事件が起きたのは, ちょうど朝廷使者が帰る日です) ためバッサリ処分しています.

とはいえこの事件の真相はもう「闇の中」でしかありません.
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歌舞伎の演目として大ヒットした話ですからいろいろな脚色があります。


諸説ありますが一番有力なのは吉良が悪人だったのではなく浅野がヒステリーだったという説です。
自己中でキレやすい性質だったのが災いしたようです。
一番迷惑したのはそんな主君を持った家臣たちです。
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