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前田慶次は、架空の人物でしょうか?


信長公記に名前がありません。前田利家の従弟という重要人物で、柴田勝家の家臣の太田牛一が知らないのは変ではないでしょうか?


慶次とか、三次、平次みたいに、江戸の町人みたいな名前で不自然だし。

これは、元和元年)1615)上杉家の家臣、清野助次郎と井上隼人正という者が書き置いたものを、寛文九年(1669)五月、大老酒井忠清を通じて幕府に提出したという『上杉将士書上』のなかに登場する武将たちである。
『上杉将士書上』は、上杉軍役帳その他に出てくる武将たちの略伝で、二十五将以外にも名高い人物、例えば直江山城守兼続らが書き上げられ、なかには、実在を疑われる武将の名もある。鬼小島弥太郎一忠もその一人で、筆者も気がひけたものか「二十五将の外にて候」とことわっている。 http://www2.harimaya.com/uesugi/k_busyo.html

他にも、織田の家臣を捏造。北越家譜に登場する柴田右馬介、稲葉弥介は、織田の記録で確認できない。

A 回答 (7件)

今の慶次ブームは異常です。


余りに誇張した話になっていますが、実在した人物です。

前田家、上杉家外の文書にも記載があります。
津軽藩の「津軽統一志」に
「天正二十年東奥巡検使として前田利家卿、前田慶治利大、
前田孫四郎利政、横目には片桐市正勝元、小野木縫殿之助
この五人下着…」
とあります。   太閤検地の視察です。

慶次(郎)ついては慶二、景次、啓二などと書かれていますが
当時は発音が同じであれば、漢字は異なっても失礼には
なりませんでした。
利大にしても、利太、利益、利貞、利治などとも書かれています。
後二者は誤りでしょう。
慶次は当時一流の武将ではなく、前田家でも重臣ではなかった
ので著名武将とはいえず信長公記に載らないのも当然です。

沼田藩士の加澤平次左衛門の真田家記録「加澤記」に
信長に関東警護役を命じられた滝川一益の配下になった慶次
が本能寺の変で、後立を失い上野より退却する一益を助け
路をふさぐ真田勢と折衝して無事帰れたとの話があります。
前田けいじと書かれています。
慶次利益が一益の子と説もあるが不明で、親族であり前田利久の
養子になったことしかわからない。
信長が臨時に一益の配下を命じたのでしょう。
のちに前田家に戻りました。

慶次は文人(歌人)として著名で連歌氏師紹巴とも懇意で当時の
連歌集に載っています。

慶次が実在の人物であることは確かですが、その実像はというと
昨今書かれている話は、江戸時代初期に書かれた「醒睡笑」、
「武辺咄聞書」という興味本位で書かれた本が元のようで信憑性
も疑わしく、針小棒大に書かれていると思います。

私の考えですが、環境のせいで多少偏屈な所がある。
よくいわれる大槍(皆朱)を振り回し、敵をばったばったと倒すような
活躍は少なかった。
勇者だが通常の武将。
文人としての知識、知名度から折衝役として働いた。

先述の奥羽(日本海沿岸)巡察に利家が重臣でもない慶次を同行
させたのは、検地強行による摩擦を鎮めるためと思います。
他の地方では巡検使が地元と摩擦を起こし追い返された例も
あったとのこと。
慶次はうまくやったのでしょう。

このほか景勝の佐渡征伐で本間氏と血で血を洗う戦になった時
慶次が一部の本間氏を説得し敵対を止め、流血を減らしたとの
説もありますが、こいうのが慶次の 本領でしょう。      

  以上諸本よりと私見。
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wikipediaを見るだけでも明白ですが、当時の書状に出てきます。


よって、架空の人物であるはずがない。
『信長公記』については、堀新編『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年)を読んでみてはいかがでしょうか。
とはいえ、あまり論理的な話は通じない様子ですので書くだけ無意味かもしれませんが。

この回答への補足

WIKIPEDIAは捏造なんで、信じないように。

補足日時:2012/05/06 14:58
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前田慶次は実在してたと思います。


故海音寺潮五郎という歴史小説家も戦国武将列伝で書いてたし。
史実にうるさい海音寺氏が存在を認めてるわけですから。
慶次は通称です。利益が本名。
ご存知の通り、名前は今と違って諱名でしたから生前名前で呼ばれることはありません。
質問者もこれだけ博学なのに何故、有名な前田慶次を架空だと思うのでいょうか。
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 米沢には隠居部屋の跡地とか、朱槍や甲冑が残されています。



 滝川から前田家に養子になり、直江兼続と共に山形に移ったというのは事実でしょう。養父が死んだから歴史上から名前が消えるのはもっともですね。

 前田慶次郎利益というのが本名かな。(変換の字が字がうかもしれないけれど)

 そもそも上杉謙信は女性じゃないかとか。

 いろいろありますから。

 大体、今更里見八犬伝は嘘だったんだってねえ。。。と当たり前のことを言う人も出てくるくらいですから。

 猿飛佐助だってなんじゃそれは?って思っても不思議ではないでしょうが。

 前田慶次は実在人物だと米沢では直江兼続と同じくらい有名です。もっとも上杉兼好の業績の陰に隠れていますが。

 もっと疑わしい人は多いし。

 でも、本人の書付など残っているところをみると、実在したと思います。
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信長公記に名前がありません。



前田利家の重臣である奥村永福 篠原一孝なども信長公記には出てこない
柴田勝家の重臣である毛受勝照も出てこない
柴田勝政 勝豊の城主クラスで1回くらいで、他の親族佐久間勝之なども出てこない

信長が存命中にすでに2000石を領していてた山内一豊も出て来ません。

明智光秀関係で言えば、重臣の斎藤利三が一回
明智秀満は出て来ません

織田家の最重要家臣である光秀の娘婿である秀満でさえ出てこないというのが信長公記における家臣団の生命の露出具合です。
明智光秀より重要度の低い前田利家の従兄弟程度の名前が出るほうがおかしい。
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前田慶次は滝川一族の出身ですね。


そして前田利家の甥になりました。
滝川一族は忍という説があります。
忍ならあまり資料が無いのは当然でしょう。
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限りなく架空に近い人物、じゃないでしょうかね。

40代以上で前田慶次を知っている人はほとんどいないんじゃないかと思います。自信はありませんが、確か「信長の野望・戦国群雄伝」には少なくとも登場しなかったと思います。

ロクな資料も残ってないので、作家がその想像力を働かせて自由に描いたのですよ。なにしろ「そいつは事実と違う」というツッコミもないですからね。
そして、その自由さを引き継いでマンガ家が自由に描いたのですよ。制約がなかったからこそ荒唐無稽に描けたし、それゆえに大ヒットしたのでしょう。

ただ質問者さんは「信長公記」が絶対正しい資料で、それに記載がなければ捏造というお立場のようですが。
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