牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

こんにちは。

幕末に薩摩が倒幕に舵をきります。
長州の場合は良く分かるのです。

薩摩の立位置が、今一、判然としません。
背景、分岐点を御教示いただければと思います。

A 回答 (9件)

>背景、分岐点を御教示いただければと思います。



幕末に於ける長州は一部の藩士を除き明確な思想集団です、依ってその行動原理は単純明快、ところが或る時期までの薩摩は決してそうではない。

彼らは戦国末期の群雄割拠時代と同じく薩摩の富国強兵のみを考え、そして質問者様も御指摘の通り、島津斉彬の治世には、軍事的背景を以って幕閣の人事に介入し、その襟を正そうとしましたが、倒幕までの意図は見受けられません。

ところがです、新将軍たる徳川慶喜はフランスの手を借り装備・軍制を一新して、薩長他外様の雄藩を力で押さえ込み、中央集権的な新政権の樹立を目論んでいた節が伺えます。

恐らく薩摩はその事を敏感に察知したのでしょう(イギリスからのタレコミも否定出来ません)、成り行きとはいえ明確に倒幕の方向に舵を切るのは、この時を以ってその嚆矢とする、私としてはそう考える次第。

一方衰えたりとはいえ幕府は未だ強大、即ち薩長同盟に至る必然性はここに存在する訳です。
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この回答へのお礼

回答いただいて有難うございます。

私はあなたの仰るとおりかなと思います。
背景としては、とても良く理解出来ます。

私は誰がボタンを押したのか?
それを聞きたいと思いました。
難しい質問だったようです。

でも歴史をしっかり捉えていらっしゃる。
感心いたしました。
有難うございました。

お礼日時:2012/07/01 00:10

だから島津は水戸から将軍だしたくなかった


なのに慶喜が将軍になったから倒幕に傾いた こういう事 それぐらいはわかりますよね?
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この回答へのお礼

再々の回答有難うございます。

わかりますよね?と言われると答えない訳にはいきませんね。
島津は慶喜を将軍にしたかったのです。
斉彬はその為に苦労して運動もしております。
篤子が良い例でしょう。

慶喜が将軍になったからは間違いだと思いますよ。
でも回答いただいて有難うございます。

お礼日時:2012/06/30 23:55

>どの時点で、誰が主導権を握って倒幕になるのか?



それは質問者さんの妄想です。自分の妄想に歴史を合わせようという発想が麻原彰晃です。

しかし薩摩藩はオウム真理教団じゃないんです。それを私は何度も申し上げている。何を持って倒幕とみなすのか。それは現代人のポエム脳から生まれた欲望であって、当時の薩摩藩の藩士は誰も倒幕宣言などした人間はいない。自分の妄想に合わせて歴史を理解しようという発想は歴史学ではありません。それは宗教です。それはポエムです。薩摩藩はいつ会議を開いて倒幕藩宣言をしたわけじゃないんです。そんな歴史は存在しないと何度も申し上げている。何を持って倒幕とみなすのか。それは個人個人の歴史観によります。

水戸黄門を見る。誰が良い人?誰が悪い人?そういう風に二者択一に色を塗りたがるのが現代人のポエム脳です。幼児化のあらわれ。自分の頭で理解できるレベルで現実を認識しようというのが幼児の発想です。

しかし人間とはそんな単純なものではない。ある時は迷い、ある時はぶれる。時には良い人だし時には悪い人になる。そういう大勢のプレイヤーがいろんな立場で絡み合って歴史を作っていく。

歴史の人は誰もが一生懸命生きてきた。しかし誰も現代人のポエム脳にあわせて行動していたわけではありません。


もう疲れたよパトラッシュ。
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この回答へのお礼

再々の回答をいただいて恐縮です。

歴史は妄想でしょうか?
私は歴史を解釈しようとは微塵も思いません。
ただ、あるものを受け止めるだけです。

あなたとは歴史の見方が違うようですね。
でも有難うございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/06/30 23:34

反幕と倒幕



薩摩はどの時点で、倒幕を考えたか?というのは、維新史のもっとも重要な問題だと思いますが、このことを論じた学者は見つかりません。
黒船が来て、日本全体が一つになって西洋に対抗しなければならない、と考えた人々は、それまでの幕藩体制のままではだめだと考えました。
全国の大名が共同で日本防衛を考える体制に変える必要がある、と考えて一斉に反幕運動を開始しましたが、その運動は結局「大政奉還」として、まとまりました。
この間の動きは「反幕運動」でした。

維新後現在に至るまでの日本近代史は、おのずと維新を正当化する史観になりますので、これらの反幕運動をすべて討幕運動だったように考えて、反幕と倒幕の区別をしないできました。

反幕と倒幕を区別して考えると、反幕の意味は解るが、倒幕の必要性はわからない、という議論に発展するからです。
ちなみに私は日本の近代化のためには、大政奉還で十分だったのであって、倒幕は必要の無い、権力闘争に過ぎなかった、という見方をしています。

こういう事情があって、質問のような問題意識の研究は今まで存在しないので、以下は私の独創になります。

さてご質問の倒幕(権力奪取)という思想はどこから来たのか?と言う問題です。

長州にあっては、関が原以来、反徳川の気持ちがあったと言われており吉田松陰なども早くから倒幕を言っていたようです。
これは戦国時代の発想で、長州が天下を取る、というような野望だったと想像できます。
しかし長州藩内での倒幕思想は途中で、徹底的に弾圧されましたから、それが藩論となったのは、大政奉還(公武合体)が成ったその直後ではないか?と思われます。
これは幕府による長州征伐に対する反感が影響した点もあると思われます。

一方薩摩の藩論が反幕から倒幕に切り替わったのも同じ時期と考えられます。

これは権力に目がくらんだ、西郷、大久保たちと長州の桂たち、公家の岩倉、三条たちの共同謀議と考えられます。
しかしこの謀略は、きわめて少数の人間によって行われたもので、島津久光は後から、西郷たちに騙された!と怒っていたそうです。
阪本竜馬をリーダーとした土佐藩はあくまでも反幕の範囲に留まるつもりだったのですが、薩長の勢いに飲まれてしまいました。
あくまでも倒幕に反対した竜馬は、そのために暗殺されてしまいました。

明治維新は成功したクーデターだった、ということができます。

そして倒幕クーデターが思いつかれたのは、大政奉還のほんの一瞬のときだと考えます。

日本の近代化は、徳川慶喜のままでも十分可能だった、権力の移行は必要なかった、と私は考えています。

このクーデターが意外に簡単に成功したので、同じ柳の下のどじょうをねらう人が、同じ藩から続出しました。
佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争などがそれです。

このとき土佐藩だけは乱が起きませんでしたが、その代わりに板垣退助は自由民権運動によって反体制を叫びました。

そしてこのクーデターの伝統は、石原莞爾の満州謀略、2,26事件などに受け継がれていきます。
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この回答へのお礼

回答いただいて本当に有難うございます。

仰ることは良く理解出来るのです。
倒幕ではなく反幕であった・・・そのとおりだと思います。
でも松陰は倒幕の人でしょうか?
ただ、ひたすら勤皇の人のように思います。

ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/06/30 23:21

スイッチを押したのは 西郷さんでしょうね~


回答にもありましたが家茂の後継が慶喜だったから倒幕に踏み切ったはずです

島津は水戸家から将軍は出したくなかった これが本音です

この回答への補足

ん!?

慶喜は水戸の人ですよ・・・。

補足日時:2012/06/30 16:54
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この回答へのお礼

再々の回答有難うございます。

私とあなたの歴史認識が微妙に違うようです。
でも参考にさせていただきます。

有難うございました。

お礼日時:2012/06/30 22:59

NO.2



>誰がボタンを押したのでしょうか?

そういう歴史観はポエムだと答えました。

この回答への補足

目の前にある歴史はポエムでしょうか?

現実そのものではありませんか?
私は揚げ足をとるつもりは毛頭ないのです・・・。

どの時点で、誰が主導権を握って倒幕になるのか?
それを教えていただきたい・・・なのですけれど。

補足日時:2012/06/30 16:25
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

私とは少し歴史観が違うようにも思います。
でも参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/06/30 22:53

慶喜が将軍になったからです



薩摩の方針として家茂の後継者が慶喜になった場合は倒幕するでした
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この回答へのお礼

そうでしょうか?

私は少し違うように思います・・・。
でも回答いただいたことには、感謝しております。

有難うございました。

お礼日時:2012/06/30 17:00

幕末は、もう藩主の鶴の一声で藩論が決まるという時代ではありません。

それはどの藩でもそうなのです。また藩を擬人化して認識しようとするのはポエムの世界です。現実には民主党の内部が消費税増税に賛成と反対で割れたように、どの藩も政局に関して幅広い内部対立がありました。判然としないのは当然なのです。藩士一人一人が独立した固有の考えを持ちます。それは人間だから当たり前です。藩士一人一人が自分で判断し、自分で行動する。そういう時代なのです。藩論を統一できなかった藩は、結局何も意思決定できずに日和見的に時代に流されるままでした。そうではなくて傑出した人材に恵まれた藩は、いちはやく藩論を統一して時代をリードすることができた。そういう藩が薩摩、長州なのです。

では幕末の薩摩藩をリードしたのは誰か。大久保利通、小松帯刀、西郷隆盛です。大久保利通、西郷隆盛らの人物を見抜き、藩政の中核に登用したのが島津斉彬です。島津斉彬本人は倒幕を考えていたわけではありませんが、もう身分だの家柄だのにこだわっている時代ではないことを察知していました。

それは徳川慶喜もそうだった。徳川慶喜は、一介の漁民に過ぎなかったジョン万次郎を旗本にまで取り立てた。しかし幕府は時代の変化を全く理解できない俗物が影響力を持ってもいた。

それが幕府と薩摩藩の違いです。こんな説明で分かってもらえるのだろうか。それは私も確信が持てない。私は質問者さんの人物を知らないからです。

この回答への補足

有難うございます。

私の人物を知らない・・仰るとおりです。
それでお聞きしたいのです。

誰がボタンを押したのでしょうか?
斉彬はもう居りません・・・・。

今、核兵器のボタンを押せるのは大統領です。
薩摩で誰がそれを出来たのでしょうか?

補足日時:2012/06/30 11:19
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この回答へのお礼

回答いただいて本当にありがとうございます。

仰ることは良く分かります。

お礼日時:2012/06/30 22:49

そりゃぁ薩長同盟結んだからでしょ?


幕府を倒すための同盟なんだから薩摩だけ挙兵しないわけにはいかない

薩摩は元々外様の中では一番幕府に対して発言力のあった藩です
まぁ背景は関ヶ原の頃までさかのぼりますが

島津斉彬はそんなに幕府に対する忠節も高くなかったですし…
色々な背景があるはずです

この回答への補足

有難うございます。

私がお聞きしたいのは何故薩長同盟に至ったかなのです。
斉彬と言う殿様は倒幕と言う意志までは無いように思います。

何処で誰の意志で倒幕に傾くのか・・・?
それを、お聞きしたいと思いました。

補足日時:2012/06/30 08:35
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

また、御教示ください。

お礼日時:2012/06/30 22:42

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