No.3ベストアンサー
- 回答日時:
最初は「10年程度じゃ…」と思いましたが、よくよく考えてみると、変わっていたかもしれませんね。
何故かと言うと、劉備の入蜀の10年前というと、赤壁の戦いよりもかなり前、官渡の戦い直後くらいに当たります。曹操の版図はその時点でもかなりのものでしたが、劉備も広大な蜀を治めていたら、赤壁の戦いの結果が大きく変わった可能性がある、というより、赤壁の戦いに類する争い(曹操VS劉備・孫権の戦い)自体が起きなかった可能性が高いです。下手をすれば魏はともかく呉は建国されなくてもおかしくありません。
一方で、その前後の劉備の行動(それこそ荊州を譲り受けないとか)、それから、諸葛亮の持論「天下三分の計」はそもそも劉備が蜀を取ることを前提にしているから恐らく政策として変わらないだろう、という点から考えると、やっぱり蜀を手に入れても守りに入って、結果としてあまり変わらなかった気もします。
「(史実では治めていなかった蜀を治めていたと仮定する)10年間に何をやったか」で大きく変わるでしょうね。
一方で、劉表が死んだ時に荊州を譲り受けてたら、の方ですが、これはその後の荊州を巡るゴタゴタを見る限り、大差なかったんじゃないかと思います。
No.4
- 回答日時:
現実の流れとしては到底あり得ない仮定ですが,そうであれば歴史の流れが大きく変わっていた可能性はあるでしょうね。
劉備が実際に蜀を占領したのは215年頃であり,それが10年早かったと仮定すると,当時の曹操は北方制圧が未完了,馬騰勢力も張魯勢力も健在という状況でしたから,外交次第では曹操と互角に渡り合えた可能性もあると思います。
これに対し,劉表が死んだときに荊州を譲り受けていたらという仮定については,譲り受けても結果はほとんど変わらなかったでしょうね。劉表の遺言だけで劉備が直ちに荊州を実効支配できるような状況にはなく,仮に譲り受けても蔡一族との内戦は避けられず,曹操軍がこれに乗じて攻め込んでくる流れになる可能性が高いと思われます。
No.1
- 回答日時:
劉備という人は人望があったし親分肌ではあったと思うのですが、政治家としての資質を考えると曹操の敵ではないような気がします。
一応三国志演義では献帝の信頼があったということになっていますが、本当のところは不明です。いくらなんでも天下の皇帝陛下が苗字が同じであるというだけの農民の子みたいな身分の低い人物を信用したとも思えないですしね。蜀が持っていた国力そのものが魏とは比べ物にならないくらい低かったですから、歴史の結果は変わらなかったと思いますよ。劉備は、自分が死んだ後も蜀が国家として成立し続けられる官僚システムを作ることはできませんでした。まあそれは孫権も同じことなんですけれどもね。そこがなんというか田舎国家の限界であったのだと思います。
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