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本能寺の変において、信長の遺体が見つからなかった件について教えて下さい。

当時、備中にいた秀吉は中国大返しによって戻り、明智光秀を討伐しましたが、
勃発した六月二日以降において、秀吉の手勢が信長の遺体を探し回ったとする動きはあったのでしょうか。さらに、その文献はどのようなものがあるのでしょうか。

また、六月五日に中川清秀に「信長が逃げ果せた」とする書簡がありますが、他にもこうしたニセ情報を流したとする事実はあるのでしょうか。

宜しく御願い申し上げます。

A 回答 (6件)

爆死の信憑性には やや?な部分もありますが 本能寺の地下に大量の火薬があったことは間違いないようです



死体が見つからなかったので 爆死と結び付けられた可能性もあります

ただ 高台院(ねねさんですね)が晩年に 本能寺から火の手が上がったとき 火事とは違った燃え方をしていた と言うような事を述べています これも爆死説の要因かも知れません


当時 唯一軍を動かせそうだったのは 四国遠征のため堺にいた丹羽長秀ですが かれは信孝を守るのが精一杯でした

また細川忠興は明智の娘婿でありながら味方につくのを早々に拒否ってます

もう一人明智の味方だった筒井順慶は男山まで出陣しましたが 信長への恩義から動かず いわゆる「洞が峠を決め込む」という状態でした

信長生存説が流れたのは まず 小姓の森蘭丸が生きているのでは?という噂が流れたのがきっかけらしいです
フロイスと一緒に来ていた バリニャーノの手記に一連のことが書かれています
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この回答へのお礼

azuki-7さん
「火事とは違った燃え方」という高台院の証言、参考になりました。
 なにより、「森蘭丸の風聞」と「バリニャーノの手記」については参考になりました。
 しかし、この様子では秀吉が遺体捜しをしたという「表立った形跡」は、無かったものと考えて良いようですね。
 有難うございました。なかなか広範囲に渡っての知識を所有されておられて頼もしい限りです。なおもって美しい御婦人とくれば、嬉しさも倍増いたしました。

お礼日時:2012/07/19 22:42

本能寺に火縄銃の火薬が大量に隠されていた説はありますよ。



http://chie.mobile.yahoo.co.jp/p/chie/qa/view?qi …
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この回答へのお礼

火薬が貯蔵されていたことは確かだとしても、それに引火した形跡がないのです。
また大爆発をしていたら、パードレの手記ぐらいは絶対に残るはずです。

お気遣い有難うございます。

お礼日時:2012/07/19 22:48

中川清秀の茨木城が明智光秀の領地と接しているからです。


一旦は光秀の令で出陣しなければ逆に一番に攻め滅ぼされるからです。

秀吉は
清秀の退避場所は俺の所だ。
と教えたんです。

光秀は近畿の小大名の命令権がありました。
更に大和の筒井氏や細川 藤孝とは密接な関係にありました。

しかし、これは一切動かない上、秀吉の足元や背後です。
地勢上、清秀を味方に付けたとなると一枚剥いだ上、一枚増えた事になります。
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この回答へのお礼

申し訳ありませんが、私の質問に対する回答がどこに有るのか、よく解りません。

お礼日時:2012/07/19 22:26

 明智光秀は,信長に謀反した立場であり,信長(及び信長の長男信忠)を討てなければ謀反に成功したとは言えないので,信長の遺体を必死に捜し回っていたようですが,羽柴秀吉は,信長に謀反した逆臣明智光秀を討つという立場であり,信長が生存していても立場上特にやましいことはないので,わざわざ信長の遺体を捜し回る理由はありません。


 なお,信長が本能寺から逃げ果たせたという情報を流すことについては,秀吉にとっては対光秀戦を有利にする情報なので,かなり積極的に行ったでしょうね。具体的にどういう史料が見つかっているかまでは知りませんが。
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この回答へのお礼

kuroneko3さん、有難うございます。

「信長が生存していても立場上特にやましいことはない」
とのことですが、葬儀を執り仕切る気であれば、やはり亡骸は「必須アイテム」ではないでしょうか。
事実、十月の本葬においては、「傀儡(くぐつ)」を使ったとのこと。
なにより、この後の天下を狙うつもりなら、ここはやはり、「前のウイ様」の安否確認だけはしておきたいところではないでしょうか。

お礼日時:2012/07/19 22:16

信長は本能寺で爆死したので遺体は跡形もなく無くなりました…


秀吉は信長の遺体は捜していません 光秀は当然探していますが…

なので当時信長生存説がまことしやかにささかれていました

中川清秀には 「信長様は近江の膳所ヶ崎(現在の大津市)まで逃げ延びた」という書簡を送っています

少なくとも秀吉がほかにニセ情報を流した史実はないみたいです
下手に探られて 他の武将に先を越されては困ると思ったからでは?
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この回答へのお礼

azuki-7さん、有難うございます。

「信長が爆死した」という説は下記の礼状にも書きましたが、
そうした「大音響が轟いた」という記録は残っていません。
もしそうであれば、近隣の南蛮寺で確認できる筈ですから、
フロイスの『日本史』あたりに書かれていそうなものです。

中川清秀宛ての書簡とは、六月五日の返書のことですね。
書状の冒頭で、「古左」と書かれていることから、茶道史では有名な書状です。

「少なくとも秀吉がほかにニセ情報を流した史実はないみたい」

なるほど。
ということは中川瀬兵衛には、充分な効果――かなりビビルものと思慮したのですね。
荒木村重の謀叛に加担しようとした前歴があるだけに、高山右近に相談するのは秀吉の目にも見えていたでしょう。

なお、
「当時信長生存説がまことしやかにささかれて」という文言には興味があります。
どのような文献で見かけられたのでしょうか。
ご教示頂ければ幸甚です。

お礼日時:2012/07/19 19:36

本能寺には火縄銃の火薬がたくさん隠されていたという


説があります。
遺体の分別が出来ない程の大爆発があった可能性があります。
当時は現在のような科学捜査研究所は無かったので、
信長の遺体を見付ける事は出来なかったのでしょう。

他の文献については分かりかねます。
申し訳ございません。
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この回答へのお礼

有難うございます。

ただ、お尋ねしたかったのは「捜した事実」を知りたかったのです。

なお、火縄銃の火薬によって大爆発したという記録はありません。

お礼日時:2012/07/19 19:15

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