No.5ベストアンサー
- 回答日時:
私見ですが、直前の上田合戦が引き金になっていると思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0% …
小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に一歩も引けをとらず、明らかな負け戦は「三方ヶ原の戦い」のみ、
「海道一の弓取り」の名声を得ていました。
その徳川軍が、家康自身は出陣していませんでしたが、
地方の一領主である「真田」ごときに敗戦してしまいました。
家康はこの敗戦がよほど悔しかったのか、徳川軍はしばらく信濃の中に留まっており、
周辺状況や同盟関係の様子を見て、家康自身が出陣する気が満々だったと思われます。
どうも家康は外聞を気にするタイプのようで、せっかく海道一の弓取りとも称されたのに、
「城攻めは下手」だの「徳川恐れるに足らず」だの言われるのが悔しかったのでしょう。
ご存知のとおり、石川数正は当時岡崎城の城代となっており、
秀吉との外交を担当していましたが、家康の側近ではありませんでした。
いわゆる「浜松組」と「岡崎組」の対立がありました。
数正としては、信濃に攻め入れば当然秀吉が動くことが想定され、
上杉はもちろん、北条も寝返る可能性が高いことは分かっていたと思われます。
しかし家康の周囲は、いけいけどんどんで、誰も止める者がいない。
「何とかしなければ」という思いは、数正にあったものと思われます。
自分が出奔すれば、殿は思いとどまってくれる。そういう思いがあったのではないでしょうか。
本当に寝返るのであれば、岡崎城を占拠してしまえば、数十日間持ちこたえる程度で済みます。
その程度のことは、数正の力量なら当然あったでしょうし、秀吉は機会は逃がさないと思われます。
No.4
- 回答日時:
孫引きになりますが、池波正太郎作『真田太平記』第三巻「上田攻め」十六(新潮社刊)に、松平年一・高柳光寿(たかやなぎみつとし)編著『戦国人名辞典』の解説を取り上げているので引用して紹介します。
このほかにも色々説はあるようです。なお、「中略」とあるのは、池波正太郎の小説中の原文のままです。《石川数正は、累世徳川氏の臣で、酒井忠次と共に、初期の家康の老臣。三方ヶ原、小牧・長久手などに従事。三河・岡崎城主となり、西三河の衆を与力としていた。
小牧の役の後、家康の使節となって上京、羽柴秀吉に会見し、非常な好遇をうけた。(中略)そのうちに秀吉は、数正が自分に内通した、と、天下に宣伝をさせた。家康は、それを信じなかったが、その家来たちは、みな、これを信じるに至ったので、数正は、ついに、家康のもとにとどまっていることができなくなり、天正十三年十一月十三日に脱走、羽柴秀吉のもとに投じた。
のち、石川数正は所領を信州の筑摩郡に移され、松本(深志)城主となり、十万石を領し、文禄二年に死んだ。》
No.2
- 回答日時:
「簡単に」というけど、秀吉側には何もリスクはありません。
石川数正は家康の側近ではあったけど、だからといって秀吉は側近に取り立てたわけでもないのです。石川数正が家康のスパイであったところで秀吉側には何もリスクはありません。江戸時代になってから鳥居元忠の忠義が、三河武士の鑑と強調されたから、その裏返しで石川数正の出奔はいかにも異端のように思えるけれど、そういう見方は妥当なのかどうか。またそれが石川数正本人の決断だったかどうかも分かりません。石川数正本人は家康側に残りたかったかも知れないのだが、一族の者たちが要請したことだったかも知れません。身一つで出奔した訳ではなくて、一族郎党引き連れてのことですから。逆に言えば、石川数正本人が秀吉側に付きたいといっても、一族郎党に反対されたら、どうしようもなかったはずなのです。分かりませんけどね。もしかすると粛清の危険が迫っていたのかもしれません。そういう気配を察知して、先手を打ったとも考えられます。No.1
- 回答日時:
立花宗茂
大友家重代の家臣の高橋家に生まれ、これまた重代の家臣立花家に養子に入る
ふと気づくと、豊臣大名になっている。
鍋島直茂
龍造寺氏家臣
いつのまにか、大名になっている
木曽義昌
武田家から織田家に寝返る
勝頼の義弟
穴山梅雪
勝頼の従兄弟
徳川家康が後で将軍になったから石川数正は目立つが、事象(主替え)と考えると、取り立ててレアな出来事ではないと思う
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