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ジェームズ・アレンの、邦訳(邦題)『原因と結果の法則』というのがあります。
まだ読んだことないですが、自己啓発本の起源のようです。
ザ・シークレットというのがあり、読んだことないですが、プラス思考すると、実際にそのようなことが起こる、といったようなことだと思います。

それで、因果関係の議論になると思いますが、私が知る範囲では、仏教のアビダルマでは、因果関係についていろんなパターンが論じられていたと思います。
しかしそこで、上記自己啓発本のような、因果関係が論じられていたような印象は残っていません。

質問ですが、ちょろっとでもよいので、自己啓発本でいわれるような、精神論的な因果関係について、アビダルマ(倶舎論など)、あるいは仏教全般の経典の中で、そういった言及が(ほんの一行でも)あれば教えてください。
よろしくおねがいいたします。

A 回答 (5件)

こんばんはー。


僕もこの本持ってますが、これは自己啓発本の種にはなってますが、この本自体はそうではないと思います。
自己啓発本では願いを叶えることを目的としてますが、この本は基本的に違います。
もっと抽象的で普遍的内容を持ってると思います。



この本の内容は、もちろん読まないと無理ですが
個人的感想だと

この宇宙を動かしているのは、混乱ではなく秩序。
すべてのことには原因があり、不思議な事はなにもない。
良いことも悪いことも全て自分が中心となって周りの環境を生み出している現実。
人生は非常にシンプル
穏やかで満ち足りた生活をおくる方法
自己責任

というふうな感じかなーと思います。
成功哲学などではないことは、著者が冒頭で「昔から論じられている「思考のパワー」の完璧な解説書である、などと主張するつもりは全くありません」とあることからも想像されます。





このすぐ後に著者は、「自分が人生の作り手であることに気づくこと」が大事と書いています。
つまりいいことも悪いことも全て自分が原因となって、外部環境の変化という結果を生み出している、という現実のメカニズムについての分析です。
これが原因と結果という題の意味ですし。
このあたりは仏教とそっくりです。

P22に「私達を存在させている法則でもある、原因と結果の法則」とあります。
あなたがあなたがなろうとする人間になる、というこの本の言葉は、表面的な願望ではなく、自分の本音と、その本音に対する
自己責任が問われています。
その責任の認識こそが、外部環境は自分の思いで生まれ出る、ということにほかならないので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/縁起 に書かれてる
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
というお釈迦様の言葉は、ジェームス・アレンの言っていることと変わりません。
マイナスからもプラスからも目を背けない、という責任を背負うことで、すべてが自分から生まれていることを自覚できる、という意味になります。
それは、キリスト教でいう自分の罪、仏教でいう自らの業や因縁縁起に対する理解と変わりません。
自分のプラスもマイナスも対峙して理解しないと、原因と結果は見えてこないと言ってるように思えます。

そこまで理解が深まれば、確かに成功哲学の本が語るように、自分で願いを叶えるという発想もありなんですが、
でも一方、悪や悪いことが自分を原因として生まれるなら、それを止めるのも自分であり、それで悪が無くなるのだから、
あえて、成功哲学という風に、プラスに持っていく必要もないかも?とも思います。

この、環境は自分が作ったもの、という所だけがひとり歩きして、のちの成功哲学に偏って取り入れられたように思います。
成功哲学は願望を叶えることに特化したためちょっと視野が狭いのじゃないかなー(失礼)という気もするんですが、
この本はそうでなく、うまく中庸中道を踏んでおり、すごいなと思います。内容はとても普遍的です。
またそういう偏りのない現実に対する視野がないと、原因と結果の法則が、夢ではなく現実だとは悟れないのじゃないでしょうか?
成功哲学を特殊なテクニックだと考えてる限り、この原因と結果を理解してない、ということになるんじゃないかと・・





自分を原因の第一としてすべての事象は起こっている、というこの本の内容は、ほぼ仏教の主張と重なります。
というのも、不思議など何一つなく、全ては単純明快で、理不尽なことなどこの世に一つもない、アレンの主張は、
ほぼ仏教のいう「無、空、縁起」と重なるものがあると思うので。
仏教の根幹と、アレンのいう中心事項は、僕は同じものと思うのですが・・。
論理的に説明しろ、と言われると大変ですが。

もともとこの時代のこの関係の本は、19世紀、インドからヨーロッパに仏教がどっと入ってきた時期に当たるみたいで、
そういう影響は大きいと思います。
一語一句仏教と同じというところは少ないけれど(背景に神やキリスト教がありそうなので)、内容を理解すれば、仏教と変わらないと思うので。

この本は、冒頭「環境は自分を写す鏡である」から始まり、「穏やかでいなさい、穏やかにしているのです!」で終わります。
この中間には、のちの成功哲学に取り入れられるような内容も確かにあるんですが、それが理論的基礎ではなく、彼の言いたいことはそれではないから
「原因と結果」という本の題にしてるんじゃないかなと思います。
仏陀のことについては、この本ではP72と、P94に少し記述があります。
著者は、仏教のことも十分その骨格は理解していると思いますし、表現方法は違っても、仏教と自分のいう内容に矛盾がないことは、
著者本人が一番良く知っていたんじゃないか、と思うので。
スピリチュアリティーと仏教は、いずれも現実について説明したものなので、同じ内容だと思います。
死を基礎にする仏教と、生を背景にするスピリチュアルでは、表現は正反対になりますが、
生と死というこの2つがそもそも表裏一体のものなので、裏を返せば2つは同じになると思います。



以上、私見というか、大雑把な話ですが。
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この回答へのお礼

なるほど、アレンの本について、ある程度踏み込んだところまで、解説していただき、概要が分かり、とても参考になりました。ありがとうございます!
責任というポイントも押さえていて、なかなかちゃんとした本なんですね。

そもそも、それらの源流が何だったんだろうという、(発展的な)疑問も出てきますね。西洋において、仏教が入ってきたことは、もちろん大きかったんでしょうね。バークリとか唯識がおもい当たります。

最初に戻りますが、私としては、「思いは実現する」の、プロセスに、物理的・行動上、説明できかねる「運」といった要素がからんでいるかどうか、知りたかったのですが、この点は正確には分かりません。もし多少なりとも分かれば教えてください。この質問はアレンというより自己啓発全般と、仏教全般に向けられます。

お礼日時:2012/09/20 09:40

『禅問答』の中にこの問題が出ています。

悟りを開いた人は『因果の世界に落ちないのか?』と言う問題です。

この答えが分かる時、貴方は悟りを得ているかも知れませんので、じっくりと取り組んでみてください。

『不落因果』と答えたために、何回生まれ変わっても『狐』に生まれたと言う話です。

此処から『野孤禅』と云う言葉が生まれました。
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この回答へのお礼

質問のポイントとは違うんですが、面白いですね。

理論的には、究極的なレベルで悟り(悟りといったものを超えていると思いますが)を開いたのであれば、落ちないはずだと思います。
その答えた人は、嘘を言ったということで狐になったのでしょうね。

お礼日時:2012/09/24 09:24

一個足します。



仏教と共通する言葉として
三界唯心
という言葉あるんですが、これはアレンの言ってる
「自分が人生の作り手であることに気づくこと」そのまんまかと思います。

ほんとは他のところも全部同じものだと思いますが、
アレンと仏教で、表現形式まで同じよく似てるとなると、両者の理論的根幹部分に遡るので、
つまり、抽象性が高くならないと、表現の形式は似て来ませんから、
数は多くないかも知れません。
でも探せば、まだ出てきそうな気はしますー。
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この回答へのお礼

適切な補足、ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/24 09:02

>精神論的な因果関係について、アビダルマ(倶舎論など)、あるいは仏教全般の経典の中で、そういった言及が(ほんの一行でも)あれば教えてください。



○因果が思考、行動のあらゆるものに適用されるという記述は「ウダナーヴァルガ 第28章悪;10句」
がそれにあたるでしょう。「人は何をしようともその報いが自分に起こるのを見る。」という表現ですね。

「人は何をしようともその報いが自分に起こるのを見る。善い事を行った人は良い報いを見、悪い事を行った人は悪い報いを見る。」(ウダナーヴァルガ 第28章悪;10句)

「未だ悪の報いが熟しない間は、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟した時には、悪人は禍に遭う。未だ善の報いが熟しない間は、善人でも禍に遭うことがある。しかし善の果報が熟した時には、善人は幸福に遭う。」(ダンマパダ 第9章悪;119-120句)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。法句経、というか経は、なんとも表現がいいですね。

しかし、もっぱらこれらのことばの意図は、「行動」に対する、報い、であるように思えます。
「思い」が、現実化する、という視点はあるのか、少々疑問ではあります。

お礼日時:2012/09/20 09:25

仏教の本来的な目的の一つとして、「因果関係」に思い悩まない(囚われない)ことがあるでしょう。


その為に「例」として持ち出された様々な因果は、時代背景によって修飾を受けることでしょう。

「仏典に書いてあるから真実だ」というのはどうでしょうか?

もし仮に、スピリチュアルな考えがブッダ以前に流行っていたら、アビダルマ等に引用されていたかも知れません。

(ある状況にとっての)プラス思考・ポジティブ思考が周囲をポジティブな方向へと向かわせるのは事実でしょうし、それは大切なことでもあります。しかしながら、一般的に「精神論的な因果関係がある」とするのはどうでしょうか?

(ある状況にとっての)ポジティブ思考をする
→ 周囲がポジティブになる

は、通常は下記のように「言動による実践」が介在しているはずです。

(ある状況にとっての)ポジティブ思考をする
→ ポジティブな言動を実践する
→ 周囲がポジティブになる

「思う」だけでものごとが解決するなら、誰も苦労はしないでしょう。
プラス思考するにしても、言動が伴ってこそではないでしょうか?

それは、仏典に記述されているからとかいったこととは、本質的に無関係と考えるべきではないでしょうか?

この回答への補足

ありがとうございます。私個人としては、仏典を信奉しているわけでなく、自己啓発を信奉しているわけでもありません。単に事実として、仏典にそのような、物質宇宙における因果関係(言動による実践、介在)を超えていて、かつ「思いは実現する」「引き寄せの法則」のような、因果関係の考え方が、入っているかどうか、知識として知りたい、確認したいだけです。

補足日時:2012/09/17 14:16
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この回答へのお礼

参考になりました。ありがとうございます。本来因果関係を超える(?客観化するう?)というところにポイントがあるというのは、そのとおりなので、そのラインで行くと、上記のような自己啓発で述べられているようなのとは、ちょっとちがうのかもしれませんね。

お礼日時:2012/09/17 14:18

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