【お題】王手、そして

生きる意味ってありますか。

【生きる意味】を考え出して以来,すべてが無意味に思えて苦しくて発狂みたいになったり死にたくなったりします。
逆かもしれません。すべてが無意味に思えて以来,生きる意味を考え出したのかも。

生きる事が無意味であれば寝た切りで良いじゃないか。とも考えてしまいます。

親のため,と言う答えを聞いても親だって何のために生きてるのか。

私が苦しみを抜け出すための【ひと言】,格言や個人的な考えがあれば教えて貰えますか。

生きる意味を考えてなかった楽しかった頃にはもう戻れません。

哲学にのめり込むと自殺してしまうと聞きましたが。

精神病を患ってますが,哲学的答えが私を救ってくれる様に思えます。

2年間無職で対人関係もゼロにしましたが,答えが見つかれば働いて対人関係も得たいと思えるかもしれません。

A 回答 (8件)

生きる意味を求める行為は外側に鍵のついて部屋に閉じ込められて居ながら、外からその鍵を開けようとすることに似ています。

あるいは釣り竿を持って自分を釣り上げようとしていることに似ています。共通していることはどうしても第三者の助けが必要だということだと思います。

私どもが腕にはめている時計の存在価値について時計自身が考えたとしたらどうでしょうか。自分が長い針と短い針を毎日回しているのですが、そのことにどんな意味があるのかわかりません。電池あるいはバネの余力がなくなり、止まろうものなら時計の死が訪れます。しかし、その頃になると、人がネジを回したり、電池を入れ替えたりしてくれます。なぜなら人は時計の目的を知って、止まらないように時々手を添えて2本の針が回り続けるように助けてくれからです。

つまり時計は自分の生きる目的を知りません。時計を作った人はその時計の目的を知っています。もし時計が人間に自分はなんのために生まれてきたかを訪ねることが出来ればその時計は自分の生きる目的を知ることが出来ます。何を申し上げたいかと言いますと、この時計と人間の関係と、人間と神との関係は似ているということを申し上げたいのです。人が神に自分の存在理由を訪ねることが出来るのであれば、人はご自分の生きる目的を知ることが出来ます。

ひとつお尋ねしたいと思いますが、もし死にたくなってしまうほどの苦しみであるならば、その命を聖書が語るイエスに人生をあずけてみませんかというお薦めです。おそらく現状のお命はひたすら苦しみのもとになっているはずですので、第三者つまりイエスキリストの助けにより、部屋の鍵を外から開けていただき、その苦しみの部屋から出てみたいと思いませんか。聖書は次のように述べています。

”すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)” 

誰でもイエスを知ることが出来るならば、心に平安が与えられると述べています。社会的な地位があり、大金があり、人がうらやむような学歴や優れた容姿があっても、平安の無い人生は悲惨です。

さらに聖書は述べています。

”わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)”

人がイエスを知るならば、神の立てているあなたへの計画が示されるということです。それは平安と将来と希望を与えるものであると述べています。単純に述べれば聖書が伝えているイエスキリストのように生きてみようとまず思うことが出来ますでしょうか。それを命懸けで行なうことが出来ますでしょうか。その結果はおそらくご質問者さんの御質問で得ようとされた解決策をはるかに超えた結果となるであろうと断言することが出来ます。

回答者はプロテスタントのクリスチャンで、モルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。
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生きることに意味はありますよ



私が本にもしてHPでも書いている「存在性思想」に書いてますが

長すぎて難しくて分からないという人が多いです

ですので分かり易く書けば

人間は幸せになるために生きている。と 人間は未来の存在を実現するために生きている。

と言う事になります。

あなたも存続しているということは 絶えず未来の人間存在を実現しているのです。

人間も生物なのでいずれ死にますが ラグビーボールのように次の世代に思いを受け継いでもらっていきます

存在するという事だけでも生きる意味はあります。存在する事に価値があるのです 第一に。

その他色々な生きる意味があります

愛されて生まれて 愛されて育ち 愛することに生きる。愛も生きる意味に入ります。

一生を考えても なんだか何もかも無意味に感じても 根気よく生きてりれば何時の日か

「ああ 生きててよかったなあ」と思える時があります。そういう日のために生きているもあります。

探せば色々な理由を持って人間は生きています。子供為 親の為 親友の為 彼女の為 兄弟の為 色んな人の為に

人間は生きているのです

どこまで行けるかが問題の焦点ですが 永遠目指して虚仮のように 飽くなき追求をするのが人間らしいと思います。

人間どうせ死ぬんだ 生きてる間くらい生き生きと生きよ(ゲーテ)  頑張ってね☆
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生きる意味などというのは存在しません。


人間は、無意味に生き、無意味に死んで
いくだけです。
それじゃイヤだ、という人がいて、色々と
理屈をこねる訳です。
つまり、生きる意味などというのは、数ある
思想のひとつに過ぎないのです。
そんなものに惑わされて懊悩するなどと
いうのは愚かなことです。

人間は特別な存在だ、とうぬぼれるからそういう
思想が生まれるのです。
人間は特別な存在ではありません。
遺伝学も、分子生物学も、進化論もそれに否定的
です。
金魚やネズミに生きる意味があると思いますか?

人間というのは、前頭葉と大脳新皮質が発達している
だけのただの動物です。
のんびりと、マイペースで生きいていけばよいのです。
死ぬべきときが来れば、自然に死にますよ。
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この回答へのお礼

のんびりとマイペースに生きてみたいです。
ありがとう御座いました。

お礼日時:2012/10/19 08:43

運命が自分を動かしていると、自分の存在の外側を感じてください。



自分はトランプ大の顔写真で机に置かれています。何百のカードが机の上でシャフルされて毎日並べられます。

今日、誰に会うのか何をするのか何を思うのかはボードゲームの世界です。誰かがカードを並べたり重ねたりするけれど、感じたり学ぶのは自分です。

勝ち負けもありません。でも自分のできる限りの点数はとって見たいし、ゲーム版上にいる限りは楽しく有意義に過ごしたいと思います。

振り出しから上がりに向けて進みますが、3コマ戻る、一段戻るは珍しくありません。

自分で自分の人生をコントロールできる部分は多いですが、偶然に任せている部分も多いのです。自分を責める必要のないところでは割り切りが最善策。
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私も以前は生きる意味を探してました。


見つけたのは「人は幸せになるために生きている」でした。

いろいろなことをやってみて、今の所最後に出た答えです。
今までにいろいろ出てきたので、これが最後の答えになるかは分かりません。

人はそれぞれ自分なりの答えがあるのだと思いますが
今幸せで、生きてて良かったって思える日が来たことを嬉しく感じます。

生きてて良かったって思えること、そんな自分の宝物を探すのもいいもんだと思います。
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答えをみつけてから動き出そうとしても無理です。



動き出して初めて答えが見つかるものです。
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物質に「目的」はありません。


しかし、原理的には無目的であるがゆえに、現象的に二次的に必然的に生じる目的というのもあるのです。
物質としての「無目的」は、現象的には淘汰(エントロピー増大)となり、二次的に存続する能力の増進=進化を導きます。
「いやオレは違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わって種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするように収束するのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、これも「オレの生きる目的は意志の充足じゃない!」と主張したところで、それも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
その結果として、生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

上記の“式”に「認識」やたらに出てきて、認識の深まりが充足感の追求において重要である事が分かります。
「精神的充足感のため」は、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、認識の深まりにおける、最大限の大きな目的、最大限の愛を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)

        存在すること
          ↓
生きること(体)  +  認識を深めること(心)
    ↓            ↓
組織化(分業=助け合い)の追求:精神的充足量の追及
    ↓            ↓
自律的社会行動(生産)×社会生命的自覚化(愛)
(エントロピー増大の反力としての反エントロピー)
=生きること自体による充足=人生を通算した最大充足
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生きることは苦しいことです


しようのないことです

大層な事はできませんしいえませんが

私はいづれ平等に死が訪れるのならば、楽しかった!って終わりたいです

苦しいことばかり目立ちますが、楽しいことも確かにあるはずです

苦しいことを避けて楽しいことばかり求めても、薄まって満たされないモンです
生きる意味なんて無くて結構ですよ
これだと決めちゃうとつまらないもんです

その時その時で目標コロコロ変わっても楽しいじゃないですか
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この回答へのお礼

その時々で目標がコロコロ変わって良いとの答え,参考になりました。
ありがとう御座いました。

お礼日時:2012/10/19 01:37

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