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歴史小説を読んでいて武将や商人達の判断に感服する事が多いのですが、
年齢に関係なく物事を懸命に実行する彼らの心(忠)を鍛えていったのはどのような教育(方法やカリキュラム)だったのでしょうか?

今なら小中大学…などの教育機関で指定教科書を使いますが、

戦国時代、また江戸時代~幕末などはどういった師弟教育が行われたのか、将たる者の胆を練っていったのか…教えていただければ幸いです。
(平時の武士の1日の過ごし方等も教えて頂けると嬉しいです)

A 回答 (4件)

武将は武士の一部ですが、全てではありません。

江戸時代であれば、上は将軍・大名から、下はサンピンと呼ばれた三両一人扶持(一分とも)クラスの最下級武士など範囲は広く、また、同列に論じることはできません。さらに、わからないことも多くあります、というよりもわからないことの方が圧倒的に多いとも思います。
さて、現代の教科書に相当するのは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれていましたが、平安時代の後期には出現しています。その中で、戦国時代から江戸初期にかけての代表的な往来物は「庭訓往来」で、武将・武士の心得や、年中行事・社会常識など幅広い範囲に及んでいます。また、「尺素往来」のようにレベルの高い往来物などの往来物もあり、かなりの種類があったようです。この往来物を階層などにより使い分けていたと思います。
戦国時代はこのような往来物を利用して親や、僧侶などから教育を施されていたようですが、これは一般の武士や庶民であって、武将クラス、特に戦国大名クラスになると異なっていたようです。このクラスには傅(ふ)などの後見役が付き、養育・教育に携わるのですが、実際上の教育は禅僧が担うことが多かったようです。織田信長を例にとれば、禅僧の沢彦宗恩が総合教育係で、それに各分野の専門家として兵法の平田三位、弓術の市川大介、鉄砲の橋本一巴の名前が知られています。また、伊達政宗には教育係として虎哉宗乙という禅僧がいました。禅僧が教育の中心ですから参禅もあるでしょうし、心構えや行動の規範、平常心など心の鍛錬の柱は禅宗にあったように思います。
また、人から聞くことも重視されたようで、江戸の初期頃までは大名クラスでは御伽衆と呼ばれる相談役が存在し、大名に有用な話をするようになっていました。また、一般の武士などでは、古老や経験者から合戦譚などを聞くことも多かったようですし、御伽衆や古老などの話が一種の教育(耳学問)となっていたと思います。商人については禅宗に帰依する者も多く見られますが、日蓮宗に帰依する者も多く、堺と禅宗及び日蓮宗との結びつきなどからも、商人の精神活動のバックボーンに禅宗・日蓮宗があり、それが商人の精神形成に寄与しただろうと思います。商人出身の千利休の茶の湯が、禅宗的色彩を帯びているのはそのような関係によるものですし、寺社との結びつきは商人の教育の場の一つが寺院であったと考えられます。
江戸時代になると、将軍・大名も含め武士階級は、軍人から為政者・役人としての側面が強調され、新井白石のような儒者が将軍・大名などの教育の中心になります。しかし、江戸時代の初期には軍学が流行し、小幡景憲の甲州流や山鹿素行の山鹿流などがあり、「甲陽軍鑑」は甲州流の一種の教科書でもありました。また、これらの軍学を学ぶ武士(大名を含めて)も多くいましたが、太平の世が続くと廃れ、儒学に取って代わられます。この面でも軍人から為政者・役人への変化がうかがえます。大名も一般の武士も儒学が基本となります。また、寺社・宗教による影響もありました。
武士の教育としては、江戸の中期ごろから藩校が出現します。以下の「」内は、以前他で回答したものですが、藩校の教育について書いたものですので。
「思想面を見ていくと、藩校という教育制度がほとんどの藩で設置されます。幕府でも遅れて昌平坂学問所を設置します。これらの藩校は文武両道のもと、儒学(後には洋学・国学なども取り入れられる)を中心に文が、剣道・馬術などの武の教育が行われ、藩の官僚として、また指導者としての人材の育成と武士の教育(Wikiは藩政改革の人材育成と記述)を目指すもので、武断政治から文治政治への転換期に藩校が設置され始めたことは象徴的で、人治から法治へ、戦士から官僚への転換が行われていくことになります。徳川将軍の施政方針でもある武家諸法度について、德川綱吉はそれまでの「文武弓馬之道、専可相嗜事(寛文令)」から、天和令で「文武忠孝を励し可正礼儀事」とし、儒学に基づく文治政治への転換をはかり、これが受け継がれ、各藩にも影響を与えます。修身斉家治国平天下・経世済民・愛民などの考え方も儒学の中に含まれ、儒学を中心に武士の思想的背景となっていきます。また、藩校だけでなく独自に学ぶものも多く、武士階級出身の文化人なども多く輩出するのみでなく、大坂奉行所元与力の大塩平八郎(陽明学者でもある)の乱に見られるように、貧民救済を掲げて反乱を起こすまでに為政者としての自覚が広く、かつ中・下級武士にまで広まっていることがうかがえます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%A0%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E4%B8%96% … 」
ただ、江戸時代の教育で重要な部分は寺子屋であり、寺子屋の語源になった寺での教育、父母など親族による教育、私塾呼ばれる伊藤仁斎の古義堂や緒方洪庵の適塾などの専門分野の高等教育機関など幅広く存在していました。それにつけて往来物の種類も増えるだけでなく、寺子屋の教師が往来物自製するなど、生徒?の実態に合わせた教育を行おうとする姿勢も見られます。また、武士階級などでは剣・弓・鉄砲・馬術・水泳・学問などを師について(入門して)学ぶこともされています。
武士の教育については儒教の内の朱子学が主流ですが、陽明学も流行しますし、後期になると国学の影響が強くなる傾向があります。このような中で、尊皇精神が形づけられていきます。また、吉宗の実学解禁もあり、武士だけでなく広く蘭学が流行します。
最後に「平時の武士の1日の過ごし方」ですが、江戸時代になると武士は戦士から為政者、または役人に変化していきます。現在の公務員に近い存在となっていきますが、現在のように毎日仕事がある武士は稀で、役職のない武士(禄は得るが仕事はない)、三日に一日の出勤や、十日に一日の出勤といった武士も多くいました。反面勘定関係などのように繁忙や部署もあり、バランスが極端に傾きます。しかし、多くの武士は何日かに一日の出勤という状況でした。「元禄御畳奉行日記」にもあるように、自宅待機日が長いために、以下に暇を消化するかが問題でした。これは、参勤交代で江戸に上った勤番侍も同じようなものでした。そのため、趣味に走る者が多く、江戸時代に文化的に貢献した武士も多くなります。特に文化・文政ともなると文化の担い手の多くが武士階級でした。一例をあげれば太田蜀山人は幕府御家人で、天明時を中心に活躍する江戸時代を代表する文人でした。趣味としての釣りが確立するのも江戸時代です。趣味の前提として教育があり、持てる時間を利用して師について学んだからこそ文化の担い手ともなれたわけです。
そうはいっても多くの武士が文化の担い手となるわけではなく、ほとんどの武士はいかに長い暇の時間を消化するかに四苦八苦しています。芝居などの演劇、寺社詣、釣り、川遊び、花見、その他「元禄御畳奉行日記」を見るとよく遊んでいると思います。また、勤番侍のように金も少なく、暇の時間を消化するかに本当に四苦八苦している様子も見られます。今から見ればうらやましい勤務実態だったとも思いますし、そのような人々の存在が江戸の文化の基盤をなしていたということも言えるのではないでしょうか。



往来物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E6%9D%A5% …
庭訓往来
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E8%A8%93% …
沢彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BD%A6
平田三位
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0% …
虎哉宗乙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%93%89% …
御伽衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD% …
寺子屋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90% …
日本の私塾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
太田蜀山人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうガザいます。

大変詳しく興味深い回答をありがとうございます。
職業は同じでも時代ごとの変遷等を知れ、勉強になりました。

移っていく時代の中でも変わらない縦糸があるような気がします。

皆様機知に富んだ回答でしたが、 fumkum様の回答をベストアンサーとさせていただきます。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/11/05 03:09

”歴史小説を読んでいて武将や商人達の判断に感服する事が多いのですが”


       ↑
 それは小説だからです。

”彼らの心(忠)を鍛えていったのはどのような教育(方法やカリキュラム)だったのでしょうか?”
       ↑
形から入ります。武士は武士の言葉使いを強いられます。
礼儀もしかりです。今から見ればバカみたいに細かい礼儀
がたくさん定められていましたが、
これだけで、人格が相当鍛えられるのです。
領主や上司などに対する平伏などを繰り返していれば、自然と
忠が育つのです。

体系だった教育は、藩校や私塾で勉強します。
内容は儒教が主なもので、四書五経が武士の基本とされました。
勿論武士ですから、武術の藩校も、私塾に相当する
道場もありました。

尚、武士のことですが、戦国時代では男の子は母親には
育てさせませんでした。
母親に育てさせたのでは、優しい男の子になって
しまうからです。
弱肉強食の時代に武士がこれでは困ります。
だから乳母が育てました。
江戸時代も、高禄の武士は同じでしたが、下級の
武士はそんな余裕がありません。

ただ、ちゃんとした武家では、真夜中に一人で刑場に
出かけ、打ち首になった生首を持ち帰る、という
精神の鍛錬を子供の頃からやっていました。
薩摩藩などでは、墓を掘り返し、死体を引きずり出して
滅多斬りにして肝を練りました。

”平時の武士の1日の過ごし方”
     ↑
武士の一日ですが、旗本御家人で説明します。
まず、武士には仕事を持っている人と持っていない
人がいました。
仕事には表の仕事と裏の仕事があります。
表の仕事は、老中が朝10時に出勤しますので
その前には出仕して夕方帰宅します。
警備などをする裏の仕事は、朝番、昼番、寝番の三交代でした。
小姓など、将軍の身辺を世話するひとは、24時間
勤務です。

現在のように土日は休み、なんてのはありませんでした。

仕事を持たない武士は毎日休みです。
小普請組も名だけで実際は毎日休みでした。
これで有名なのが、勝海舟の父親、勝小吉です。
毎日飲む打つ買うで有名でした。
このような不良御家人というのが沢山出ましたが、
心ある人は学問や武術に精を出しました。
勝小吉も、子供の教育には熱心だったといいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

具体例を挙げていただき解りやすかったです。
日常の些事こそ本当に大事なのかも知れませんね。

ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/27 22:07

>歴史小説を読んでいて武将や商人達の判断に感服する事が多いのですが、


年齢に関係なく物事を懸命に実行する彼らの心(忠)を鍛えていったのはどのような教育(方法やカリキュラム)だったのでしょうか?

はっきり言えば、武士は概ね藩校での教練がメインになる
商人は算術が主体になるが、学校教育のような施設は存在しないので、OJTが基本である


>今なら小中大学…などの教育機関で指定教科書を使いますが、
戦国時代、また江戸時代~幕末などはどういった師弟教育が行われたのか、将たる者の胆を練っていったのか…教えていただければ幸いです。
(平時の武士の1日の過ごし方等も教えて頂けると嬉しいです)

「将たる者の胆を練っていったのか」というが、
そのようなものを教えることの成否をまず考えた方が良いだろう
日本には松下政経塾やら経済塾の類は一応にして存在しているが、それらが実際に有意だったという評価は少ない
巷説では高い評価である”松下村塾”であっても本質的には人材育成としては失敗事例の方が圧倒的に大きい
諸外国では、テクノクラート・ビューロクラートの育成機関は多々ある。その中から優れた実務家が「将たる者」と昇華されるに過ぎないだろう。
 ある歴史家がこんなことを指摘していた

「偉人・能ある為政者は、人脈を重視する。人脈創造は教育機関が担うものではないだろう。人間関係力のような概念が存在するとすれば、それが優れて、己を律せる人間こそが、偉大な為政者になるのだろう」

 その歴史家は最後にこうも付け加えた

「結局、失敗回避の政治をベースにして成功するのが評価される為政者であって、冒険・野心的試みで一旦は成功してもそれが継続しない人間は山ほどいる。つまり、一度の成功から失敗回避を重ねて漸次的に”失敗しない為政者”との評価を得て初めて評価される」
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
教育を形だけの制度や機関に任せきりにするのは問題がありますね。
実務と理想を両立させていくには何が重要なのでしょうか・・?

また、興味深い歴史家の金言も加えていただき、ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/27 22:05

歴史小説は、小説であってドキュメンタリーでは無いのだが・・・・・



己の才覚・技量しか頼るモノが無い世界、一歩間違えば死を意味する世界

たまたま才覚や技量に優れた人間が名を残しただけであって、その何百何千倍もの人間が不慮の死を遂げたり路頭に迷ったりしている<-そう言った人々の姿や名は記録になんぞ残らないから歴史『小説』の題材にもならないだけ

何かとても理想的な教育制度でもあったかのような幻想をお持ちなのか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

記録に残っているいない、有名無名に拘わらず、
素材は同じでもよく鍛えられた銘刀となまくらでは何が違っていたのかな、と疑問に想い質問させていただきました。

ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/27 22:00

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