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こんにちは。私は中国語がある程度できます。
漢文はレ点とか返り点で却ってこんがらがり、また書き下し文自体が分かりにくく あまり好きでありませんでした。しかし、中国語を勉強し、中国の古典も勉強しないといけないと思い 現代中国語を起点に勉強しているうち面白くなってきました。ここで気づいたのは、日本の伝統的な漢文学習法では 漢詩などでは 「華」とも言うべき “韻”を完全に殺してしまっていることです。
そこで 高校の漢文学習を振り返った時、疑問が起きました。以前にも 漢文学習意義についての質問があり、「教養」のために必要だという意見がありました。

さて、西洋でも似たような理由でラテン語を学習します。そして、英語圏の国ではフランス語やスペイン語を学習するところが多いですが、そうして 違う言葉の民族同士が古典語の知識を共有し、外国語として学ぶ フランス語やスペイン語ともリンクします。

しかし、日本ではどうでしょうか? 漢文だけを学習しても 日本と同じ漢字文化圏であった韓国やベトナムと漢文の知識は共有できないし、閉ざされて死んだ教養にも思えます。

また、日本人の多くは漢文は学習しても 中国語は知らないし、英語は勉強しても ラテン語にまで手を出す人は少数です。 漢文と英語じゃ全く接点がありません。

そこで質問ですが、高校で漢文を学習する意義は何だと思いますか?

国語のカテに質問を出そうと思いましたが、中国語の知識がある方のご意見をお伺いしたいと思いまして、こちらに出させていただきました。

A 回答 (4件)

それは「日本の」古典に触れて教養を身につけるためだと思います。



漢文は確かに中国が発祥ですが、昔の日本人は多くの漢文の文章や文学作品を書いています。
公文書は漢文で書かれましたし、明治時代まで教養のある人は漢詩を作れました。
昔の日本人が日本人に向けて書いた作品ですから、古代中国語という外国語を使って書かれていても立派な日本の古典と言えるでしょう。
現代の日本に例えれば日本人が同じ日本人に向けて英語で文章を書いて発表するようなもので、ちょっと不思議な気がしますが、それが事実だったのですから受け入れざるを得ません。
ましてや、昔の日本人は訓読法を発明して、漢文を直接日本語でよめるようにしてしまいました。

高校で学ぶ漢文の教材は中国の古典が主かと思いますが、その中でも昔の日本人に愛唱愛読されたものが選ばれているかと思います。
それも、書き下し文にすることによって日本語の古文として学習できるようになっています。
また、日本人の書いた文章も教材になっているかと思います。

質問者様の
「現代中国語を起点に勉強しているうち面白くなってきました。」
というお気持ちもよく分かります。
私も現代中国語を勉強し、現代中国語の発音で漢詩を音読してみたとき(もちろん、たとえば唐代の詩が作られた当初は現代中国語とは違う発音でよんでいたわけですが)、漢詩で韻を踏むっていうのはこういうことだったのか、と目から鱗が落ちる思いでした。

漢文を学ぶのに、質問者様のように現代中国語からアプローチするのももちろんありだと思います。
現代中国人はそうしているわけですし、他の国の外国人もまず現代中国語を学んでから次に古代中国語を学ぶというステップを踏む人が多いのではないでしょうか。

一方、古代日本語(日本語の古文)から漢文にアプローチするのもありでしょう。
「日本の古典として」漢文を学ぶなら、現代中国語経由より古代日本語経由で学ぶほうが、どのみち古代日本語も「日本の古典として」学ばなければいけないわけですから合理的だと思います。


ところで、

> 漢文だけを学習しても 日本と同じ漢字文化圏であった韓国やベトナムと漢文の知識は共有できないし、閉ざされて死んだ教養にも思えます。

とおっしゃいますが、中国とは知識を共有できますよね。

また、諸外国と共有できない教養を「閉ざされて死んだ教養」とおっしゃるのは質問者様のご自由ですが、過去の日本人が書いた、また中国で書かれたが日本で愛読された漢文は、紛れもなく日本の古典であり、それは日本でしか通用しない閉ざされた教養かもしれませんが「死んだ」とまで言ってしまうのは日本の先人の遺産を無視することであり、残念なご意見だと私は思います。
広く世界に共有される知識だけが教養ではないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>昔の日本人が日本人に向けて書いた作品ですから、古代中国語という外国語を使って書かれていても立派な日本の古典と言えるでしょう。
まあ、昔の中世のヨーロッパ人もラテン語でいろんなものを書いていますし、これには大きな異論はありません。

>一方、古代日本語(日本語の古文)から漢文にアプローチするのもありでしょう。
「日本の古典として」漢文を学ぶなら、現代中国語経由より古代日本語経由で学ぶほうが、どのみち古代日本語も「日本の古典として」学ばなければいけないわけですから合理的だと思います。
質問でも書いたように私だって 最初は古代日本語(日本語の古文)から漢文にアプローチしましたよ。ただ、合理的というのは少し違うかと。私の場合は逆遠回りしたからこそ漢文の深い理解にも繋がりました。

>とおっしゃいますが、中国とは知識を共有できますよね。
これは私やnebnabさんのように中国語の知識がある人でないと実感するのは難しいでしょうね。卑近な例では 私やnebnabさんだったら中国人と会話して 自分の名前の漢字を中国語で説明したりできると思うんです。でも、#1さんや#2さんだったら 多分 英語で苦心して説明することになるでしょう。

>また、諸外国と共有できない教養を「閉ざされて死んだ教養」とおっしゃるのは質問者様のご自由ですが、
すみません。「死んだ」というのは語弊があったかもしれませんが、逆から考えれば 私やnebnabさんのように中国語を学ぶことによって 漢文も“開かれ”て “生きた”教養になってくると思います。nebnabさん自身、“私も現代中国語を勉強し、現代中国語の発音で漢詩を音読してみたとき(もちろん、たとえば唐代の詩が作られた当初は現代中国語とは違う発音でよんでいたわけですが)、漢詩で韻を踏むっていうのはこういうことだったのか、と目から鱗が落ちる思いでした。”と仰っておりますね。
それと、“死んだ”としても価値がなくなるわけではありませんよ。マニアックな世界になりますが、エジプト語とかシュメール語なんかは 考古学的言語学習者たちには 研究対象として 悠久のロマンですよ。

お礼日時:2012/12/11 18:52

 丁寧なご指摘をいただきありがとうございます。


ご質問にあったラテン語の問題ですが、僕も少しばかりラテン語をかじっていた経験があります。学生時代の専門である政治社会学およびそれに伴う歴史学領域と哲学ではどうしても原典にまで立ち戻る必要があり、その必要に駆られて少しばかりラテン語を学ぶ機会に出会ったとの話です。
 確かにスピノザの『エチカ』やニーチェの著作そして政治学の先人達の論稿を読む時に、彼らが対象とした古代ギリシアやローマの思索家の言葉が記されてはいるものの、スピノザもニーチェもラテン語自体を目的としていたのではないことも明らかです。彼らが興味を示したのは「そこに書かれている言葉の意味内容」です。ラテン語が読めるといっても、それはスピノザやニーチェの思索を理解することとは違う。
 この部分に限って言えば、質問者様のスタイルは「文芸作品としての漢詩を味わう」ことを目指しても、漢文そのものを読むこととは異なるやに存じます
 僕には高校時代の漢文で出会った二人の教員がいます。一人の担当教諭は『長恨歌』を現代中国語の音韻を用い、文字どおり「謡う」形で全編を演じましたが、正直ピンとはこなかった。その後にパート毎に生徒を指名し読み下しを行った方がよほど印象に残ってもいます。作品中にある「人間」を僕は敢えて「じんくゎん(じんかん)」と読んだ。「にんげん」と読んだなら、この作品に綴られている二人の人物の距離感が伝わらないと感じたから。他にも再読文字や反語、部分否定や二重否定を「意味を理解する形」で語法や句形として学んだ。韻律に気を取られるなというわけではありませんが、その教員が意図したのは「歌」という文字が題されていることに着目したことであり、ラブストーリーをラブソングの形で表現したならば、こういう形もあるよとの話でした。とはいえ「歌詞」の意味がわからなければ、如何にメロディラインに見るべきがあっても作品としては台無しです。
 漢詩にも五言絶句・七言絶句、五言律詩・七言律詩などのスタイルがあってそれぞれ五文字で一句をなしそれが四つ集まったもの・七文字で一句をなしそれが四つ集まったもの。五文字で一句をなしそれが八つ集まったもの・七文字で一句をなしそれが八つ集まったもの、との「リズム形式」です。そうした点でみるならば漢詩にも現代のラップミュージックと似ている部分があるともいえましょう。歌ならば「ノリ」も大切な要素です。
 その上で五言絶句ならば二句及び四句、七言絶句ならば一・二・四句、五言律詩ならば二・四・六・八聯、七言律詩ならば一・二・四・六・八聯に脚韻を踏むとの「お堅い決め事」などを作ってしまったから、漢詩は一部の人間にしか作ることが困難な「飾り物」となってしまったともいえます。
 これに対し「散文」ならば文字を読み書きできる能力のある人間だったなら、その意思を綴り残すこともできます。韓愈は確かに詩も残しましたが、本職は詩文家です。文章を綴ることができたから、それをよりコンパクトな形にした「詩」にも名作を残すこともできたとの理解になります。それとても「意味内容が伴う」ものでなければ彼は手を出さなかったでしょう。
 高校での漢文学習の意義を示すならば、それは他の回答者様のお答えにもありますが、豊かな日本語を培うための土台ともいえます。中国語を学ぶための入門・基礎講座とは異なります。昨日もお話ししましたが、質問者様が苦手とした「返り点」も白文にはない「助詞」を付加したり、どうすれば文意を換えずに「より自然な日本語として表現できるか」との工夫の産物です。中国語を学ぶための足掛かりとお考えであるならば、それは些か早計であるともいえましょう。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> この部分に限って言えば、質問者様のスタイルは「文芸作品としての漢詩を味わう」ことを目指しても、漢文そのものを読むこととは異なるやに存じます
よく分かりませんが、手段と目的のことでしょうか? それだったら 英語も同じですよね。手段と目的が逆転している人も多く見かけられます。

>高校での漢文学習の意義を示すならば、それは他の回答者様のお答えにもありますが、豊かな日本語を培うための土台ともいえます。
この「豊かな」という言葉をどう捉えたらいいのか。理由は言うまでもありませんが、
日本語は中国語と比較する限り、豊かな言語だと思います。西洋の言語では英語はフランス語より豊かです。ちょっと脱線してすみませんが、日本語は英語からの膨大な外国語を取り入れていますが、これも “豊かさ”と言っていいのだろうか。偏見かもしれませんが、これを“豊か”と表現するのなら、些か“薄っぺらさ”も否めませんが。

>中国語を学ぶための入門・基礎講座とは異なります。
いや、むしろ逆ですね。中国語を独学で勉強する人って 漢文の延長線上みたいに学習する人が多いんですよ。私が中国語を習った時、最初の1週間は もっぱら発音練習でした。 そして、半年間は漢字抜きで勉強しました。日本人は英語でも音より文字を重視しますが、私の中国語の先生は とにかく「中国語は文字より音だ。」と繰り返し強調していました。
ちょっと飛躍しているかもしれませんが、日本人の英語学習でも 文字重視で文法と訳読に偏った学習法のルーツは 漢文の訓読法にあるのかもしれませんね。

>中国語を学ぶための足掛かりとお考えであるならば、それは些か早計であるともいえましょう。
私が一言も言っていないことを 勝手に導かないでくださいよ。(笑)
半分ジョークですので真に受けないでほしいんですが、日本の中学で英語の代わりに中国語を教えたら面白いかもしれませんね。 英語で書いたら仮定法を使う構文になるのかな。過剰な英語からの外来語流入にも歯止めがかかり、日本人ももっと漢字に親しむようになると思います。

お礼日時:2012/12/11 23:19

 質問者様からの疑問に少しばかり疑問を感じての投稿です。


>日本の伝統的な漢文学習法では 漢詩などでは 「華」とも言うべき “韻”を完全に殺してしまっていることです
 このご指摘ですが、質問者様が仰る「韻」は漢字としての韻でしょうか、それとも「中国語の発音」としての韻でしょうか。もし後者であるならば、それは問題の立て方に無理があろうかと考えられます。少なくとも日本の中高校では中国語を外国語として扱っているケースはマイナーで殆どの外国語は英語です。つまりそうした学習環境下にある限りでは、中国語の韻や平仄で漢文を読むことは適わないともいえます。
 また漢文の授業で扱う対象は漢詩に限ったことではありません。漢詩は日本を始め他の外国の文学にもある詩同様「韻文」です。そして漢文の授業で扱う領域は「中国の古典」ですからそれ以外の「散文」もあります。そしてもう一つ大切なこととして、日本の文学との関係を理解するの目的もあります。
 『枕草子』『徒然草』をはじめ日本の古典には数多くの中国の古典が色濃く影を落としていることもご存知と思われますが、その多くが詩文であるとも限りません。逆に「散文」を学習するには「構文」と「句形」を理解するとの目標もあります。そして多くの教員がここで対称として引き合いに出すのが英語です。英語には5文型があり、それぞれ「独自の構文形式」を示します。ですから、キチンとした理解をすれば長文読解でもさほどの支障もなく読むことができます。これは漢文でも同様です。
 漢文を理解することと中国語を理解することでは意味も異なります。元々の漢文は白文です。返り点など打たれていません。それをどうすれば自然な日本語に近い読み方ができるかとの工夫の産物が書き下し文と呼ばれる形です。自然な日本語にしたならば、その次は文章が言わんとする内容を理解する段階に移ります。こうしたプロセスが「古典学習」の意味です。これは外国でも同じです。英語の文化圏ならばラテン語を「古文」として学習する形です。
 ただ日本と欧米での「古典」に対するスタンスが異なるのは、日本が歴史的過程の中で中国と欧米の2つの形に遭遇したとの特殊事情も作用しているともいえましょう。近代以前と近代以後では日本の思想的目線の方向が異なる。近代以前ならば中国や朝鮮半島などの漢字文化が主流だったものが、近代と同時に新たな要素キリスト教およびフィロソフィアとデモクラティークのスタンスが入ってきた。これは外国での語学教育と決定的な違いを生じたともいえます。それほど日本の状況は思想的にも文化的にもどん詰まりであったといえます。
 現在の中国で問題となっているのは古文献を読めない若手が出てきたとの深刻な事態もあります。簡体字を導入したことで一応の識字率はあがりましたが、オリジナルの繁体字教育が等閑にされたままだったツケがここにきて表れた形です。古典や古字を読む能力があるから新字や俗字も容易に読むこともできる。逆ならば、この様にはいきません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

TANUHACHIさんは中国語はご存知でしょうか? 生意気言ってすみませんが、質問でも書いたように 国語のカテで以前、漢文を学ぶ意味についての質問があり、TANUHACHIさんと似たような回答があり(TANUHACHIさんの方が詳細ですが)、今回は中国語の心得のある方からの回答を欲しいと思いました。

いっそのこと話題を変えます。私は英語で書かれたラテン語の学習書を使って ラテン語を齧ったことがあります。TANUHACHIさんはラテン語は学習されたことはありますか? もし、されたとしたら TANUHACHIさんのように英語が得意でも日本語をベースにラテン語を学習されましたか?

お礼日時:2012/12/10 23:34

日本人には外国語を取り込んで国語を作る天才があります。

大昔、漢字が入ってきましたが、日本人はレ点法やひらがなを発明しました。中国人の先生がいなくても良いようにしたのです。英語が入って来た時には、「社会」「憲法」など漢字で訳語を作るということを行い、この日本初発の訳語は中国にまで広まりました。今では我々は訳しにくい言葉はカタカナを当てはめて使っています。

韓国では独自の文字を発明しましたが、独自文化を言うあまり、漢字教育を廃止してしまい、従って今の韓国人は漢字が読めません。普通の韓国人は古い文献は全く読めないのです。

いずれ漢字などはこの世からなくなるという誤った観念から中国と日本で略字の字体が異なるということになってしまいました。

確かに漢文の勉強は実用的に役立つものではありません。しかしレ点法はたどれる限りの日本の歴史で使われています。ラテン語だって今の欧米人は習わなければ読めないでしょう。いずれも「知的遺産」です。

国家の方針で消え行く運命にあるチベット語などに比べれば我々は恵まれています。古文とともに千年も前の言語を高校で学べるのですから。

これを現代中国語音読法と同列に考えるのは愚かなことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。



>韓国では独自の文字を発明しましたが、独自文化を言うあまり、漢字教育を廃止してしまい、従って今の韓国人は漢字が読めません。普通の韓国人は古い文献は全く読めないのです。
すみません、僭越ながら申し上げますが、韓国に対しての認識が少し低いようです。
確かに北朝鮮では漢字を全廃しました。韓国でも漢字教育を行わなかった時期がありますが、ご指摘の問題から漢字教育を復活させたようです。それでも、日本のように日本のように日常的に漢字を使うわけではありませんが、韓国では第2外国として 日本語や中国語の学習も盛んなので 漢字に触れる機会は少しはあるようです。

>これを現代中国語音読法と同列に考えるのは愚かなことです。
もし、KappNetsさんが中国語も知らないのに そんな偉そうな言っていたとしたら
愚かを通り越して滑稽ですね。

お礼日時:2012/12/10 19:24

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